09 それらの呼び方について
文字数 5,425文字
「もう、しつこいってば」
「凪沙が呼んでくれれば、すぐすむ話だろ」
本日も相変わらず、人目を憚ることもなく二人は言い争っていた。
大学に到着し、エレベーターを待っているところで柚月に遭遇した。おはよう、と口にしようとした凪沙を遮り、珍しく柚月の方から吹っかけてきたのだ。人が乗っていないのをいいことに、エレベーターに乗り込んでも変わらず、5階 に辿り着いても終わりが見えることはなく、エレベーターホールで二人の問答が続いていた。
ただ、その内容はいつもと違っていた。
「一回呼べたんだから、二回も変わんないだろ」
「呼んでない」
「は? 何それ、記憶喪失? 呼んだから、間違いなく。『柚月は私の彼氏だから』って言ってるから」
「ちょ……再現しなくていいから。それにあれは緊急事態だったっていうか……」
小さな声でモゴモゴと喋る凪沙に、柚月はため息をつく。
「じゃあ、百歩譲って呼んでない、でいいよ」
諦めてくれたと思い、やっと解放されると凪沙は安堵する。
「今、呼んで」
ほっとしたのも束の間、有無を言わさない勢いで柚月が迫る。
凪沙たちがこの言い合いを始めて、学生や教授たちが数人エレベーターホールを通ったけれど、みんな素通りしていた。いっそ誰かに止めてほしかった。けれど、今までそんな人物が登場した試しはない。
「やだ。もうこのやりとり疲れた。諦めてよ」
「凪沙が呼んでくれれば終わるって言ってるだろ」
「絶対やだ」
お互い、何を意固地になっているのか。柚月もいつにも増して強引だし、凪沙も凪沙で名前くらい呼べばいいじゃないかと思うのだけれど、柚月の要望には応えられそうになかった。
そんな不毛なやりとりに辟易し、この状況を脱出できる方法について思案していると、凪沙の目にとある人物が映り込む。その人は凪沙にとって救世主に見えた。
「西宮、呼ばれてるよ」
進生研の後輩が、片隅で声をかけるタイミングを見計らっているかのように立っているところを見つけた凪沙は、いいことをしたような顔をして後輩に柚月を押し付けた。逃げるための犠牲になってもらったと言っても過言ではない。凪沙は心の中で謝罪した。
実際に、その後輩も柚月に用事があるようだったので、結果オーライだ。柚月は本日二度目のため息を吐き、後ろ髪引かれる思いで後輩の方へと向かった。
「じゃあ、一旦保留にするけど」
「お疲れ!」
まだ繰り返すのかと兆候が見られるとすぐ、凪沙は柚月の言葉を遮り、逃げるようにして立ち去った。
***
その日は一日、実験の予定が詰まっていたので、実験室に籠りきりだった。研究室内は鉄壁の結界で守られているかのように安全な場所だ。忙しく実験に明け暮れる時間は何とも有意義で、あっという間に時間が過ぎた。とは言っても、集中できたおかげか予定よりも早く終えることができ、時計は4を指していて、まだ日も暮れていない。明るい時間帯ではあるけれど、今日はもうこのまま帰宅しよう。そうすれば柚月に会うリスクもないだろう、と思っていたのだけれど、そう簡単には行かないらしい。
どこに連れて行かれるのかと思えば、辿り着いたのは木の博物館だった。その選択肢は柚月にしては珍しく、あまりに現実から遠く離れないこの場所の選択が、凪沙には不思議に思えた。
現状を把握できずにいる凪沙を放って、柚月は入館チケットを購入する。それを見て、凪沙は慌てたように財布を取り出した。窓口に書いてある金額を確認している間に、柚月は凪沙の分のチケットを渡すと、そのままスタスタと中に歩いて行ってしまった。受け取らないという意思表示なのだろう。凪沙は不服そうに顔を顰めながらも、ひとまず財布を鞄に仕舞った。
中に入ると、桧やもみの木で設えた空間が広がっていた。展示品ももちろんあるのだけれど、建物自体が展示物かのように、どこを見ても作品のようだった。
それぞれの木の独特な匂いも、お互いを邪魔することなく香る。木の匂いは好きだ。森林の中にいる時の匂いも、それを材木として使用している時の匂いも、そしてその質感も、それらが作り出す全てのものが好きだった。
少し進むと、蛍光灯の明かりとは異なる光が通路に漏れ出ていた。見ると、扉のない入り口があり、光はそこから溢れているらしい。
「入ってみる?」と柚月が目で訴え、凪沙はもちろんといった様子で頷いた。
その部屋は太陽の動きを考慮して、どの角度からでも光が入ってくるように設計されていた。朝日に始まり、オレンジ色に輝く夕日で締め括られる。夜遅くまで開館されているのであれば、月明かりも楽しめそうだ。
今は西日が入り込んでくる時間で、中央に配置された螺旋階段が温かみのある光に照らされていた。
光の当たり方でも、その木材の見え方は変わってくる。窓の位置だけでなく、真ん中の螺旋階段にも仕掛けがあった。階段の一つ一つの木目が違っていたのだ。木目と光の絶妙なバランスで、どこを見ても違った顔を楽しむことができる。その凝ったデザインと見せ方が何とも凪沙好みで、凪沙は一つ一つ丁寧に目を配った。他の来客者の邪魔にならないように、気を配りながら。
凪沙は先程まで、大学にいるのと何ら変わらないではないかと思っていたことをすっかり忘れて堪能していた。あまりに集中しすぎて、喋るという行為すら忘れてしまっていた。
「すずなも連れてくればよかったね」
一通り見終わってから、お土産物を物色している時に、凪沙はそんなことをぽろっと口にした。
すずなはあぁ見えて、建築マニアなのだ。建物の素材に興味関心があり、どの部分にどのように、どんな素材が使われているのかを細かくみるのが趣味だった。趣味について語っているときだけ、唯一すずなの熱弁を聞くことができる。
きっと、この場所もすずなの興味をそそったに違いない。すずなはどんな観点でここを楽しむのだろうかと考えていると、「楽しくなかった?」と柚月が不満そうな顔で凪沙に声をかけた。
十分に楽しんでいて、むしろ柚月を放置してスタッフの人に話を聞きに行ったりしてしまっていたのに、何をどう見たら楽しんでないなんて思えるのだろうか。
「すごく楽しかったよ! 西宮は楽しくなかった?」
「……俺と二人じゃ不満みたいだったから」
柚月は呟くように口にすると、凪沙から目線を逸らした。その言葉に、その仕草に、凪沙はきょとんと目を丸くする。一瞬、何を言われたのかわからず、すぐにはその言葉を咀嚼することができなかった。
「もしかして、拗ねてる?」
かろうじて出てきた言葉に、柚月からの返事はない。返事はなくとも、その表情が肯定を意味していて、目の前の柚月が子どものように見えた。それが何だか可愛く思えたのだけれど、言葉にすると確実に怒られるので、飲み込んだ。
「西宮と一緒が嫌とかではなくてね。西宮はどっちかっていうと動物園とかの方が興味あるでしょ? ここは明らかに私の趣味だし、それに付き合わせるの申し訳ないなと思って」
柚月は一度は獣医を目指そうとしていたほど動物好きで、現在は蜂の研究をしているけれど、その発想も元々は哺乳類の一種から得たものだと以前聞いたことがある。学部生の時に、週末に一人で動物園に行っている、なんて話も耳にしていた。動くものが苦手な凪沙とは対照的なのだ。
なので、この博物館のチョイスは、完全に凪沙の嗜好に寄せてくれているもので、むしろ柚月の方が退屈だろうと思っていた。それでも、柚月は凪沙の話にいつでも耳を傾けてくれるし、一緒になって、同じ目線で楽しもうとしてくれているのは伝わっていた。それはとても嬉しかった。
「俺は凪沙が楽しんでくれれば、それで満足だから」
そんなことをしれっと言ってしまう柚月に、せめて一度くらいは動物園に付き合うべきだろうかと、真剣に悩む凪沙だった。
————————————————————
——————————
帰り道、結局会計の全てを柚月が持ってくれていることに気づく。知らないうちに支払いが終わっていることが多く、凪沙は財布を出すタイミングを失っていた。柚月ともなれば、そういうことに慣れていてもおかしくはないけれど、想像するだけでちょっとモヤっとした。
それでも何かお返しをしないと気がすまない凪沙は、ふとあることを思い出す。
「ねぇ、ご飯奢るよ」
「え?」
「あれ? 行かない? 西宮がこの前ご飯奢れって言ったんじゃん」
「奢れ、とは言ってないけど……一緒に行ってくれるの?」
「行きたくなかったら、別にいいけど」
「そんなこと言ってない。何食べたい?」
柚月が乗り気になってくれたことに安堵しつつも、ここでも凪沙を優先しようとする柚月に少し不満を覚える。けれど、せっかく楽しい時間を過ごし、穏やかな気持ちになってるのでここで言い争うようなことはしたくなかった。
凪沙は渋々、今の気分を考えてみることにした。
「柚月さん?」
ふと、近くに人の気配が入り込んできたかと思うと、その人は柚月の名前を呼んだ。声の方に目を向けると、声の主と思われる女性が日傘から顔をのぞかせながら柚月の方を見ていた。
その人は色白で、凪沙よりも少しだけ背が小さく、黒い髪が胸の辺りまで伸びていた。私服なのか、それとも用事があったのか、これからあるのか、その年にしては珍しく和装を召していた。着慣れているのか、動作も綺麗なものだった。
柚月の知り合いなのだろうと思うのだけれど、柚月は目の前の彼女を認識すると、心なしか怪訝そうな表情を浮かべた。
凪沙は目の前の女性と柚月を交互に見た。
「柚月さん、今日の約束お忘れではないですか?」
「忘れてるも何も、俺は約束なんてしてないし」
落ち着いた様子で言い合っている二人を眺めながら、凪沙は自分が場違いなところにいる気がしてならなかった。柚月は柚月でこの場から離れたがっているようにも見えるし。それでも凪沙にはどうすることもできず、そもそもこの人は誰なのか、わからないことだらけだった。
わからないという不安からか、凪沙は無意識に柚月の袖を掴んでいた。引っ張られる感覚を覚えた柚月がそれに気づくのとほぼ同じくして、目の前の女性もそこで初めて凪沙に気づいたかのように視線を移す。
「柚月さん、そちらの方は?」
先程から薄々感じてはいたけれど、その見た目に反して、口調が強い。その話し方から、気が強そうな印象を受けた。
初対面で、敵意のようなものを剥き出しにされたことがない凪沙は多少怖気付きながらも、笑顔を浮かべた。そして、柚月が口を開く前に我先にと話し始める。
「私、西宮と同じ大学に通っている高見と言います。西宮とは同期なんです」
凪沙の言葉に、あからさまに安心したような顔をする。先程までの敵意が薄まると、彼女は口元に笑みを浮かべた。
「私 は、久我 と申します。柚月さんの許嫁なんです」
いいなずけ………
聞き慣れない言葉が耳を通ったのだけれど、脳内はそれを漢字に変換してくれない。はて、『いいなずけ』とは何だっただろうか。
「これから柚月さんと約束がありますの。お借りしても宜しくて?」
「え……あぁ、どうぞ」
「は?! 凪沙?」
「西宮、ごめん! 私、大学に戻らないといけない用があったんだった!」
もう一度謝罪の言葉を告げ、久我と名乗った彼女にも軽く挨拶をすると、凪沙は足早に立ち去った。柚月から逃げるように立ち去るのは、今日これで二度目だ。
柚月は何か言おうとしていたけれど、ここは自分が引いた方がいいのだと直感が告げていた。あとで怒られるんだろうな、と思いながらも、凪沙はそっちの方が怖くなかった。
もちろん、大学に戻る用事などあるわけはなく、そのまま家路に着く。そこでやっと “許嫁” が変換された。
***
翌日、柚月はいつも凪沙が使用している出入口で凪沙が来るのを待っていた。案の定、柚月はご立腹だった。
「なんで、彼女って紹介させてくれなかったの?」
怒っている理由が想定外で、凪沙は驚きを隠せなかった。“許嫁” に対して、“彼女” ですなんて言えるわけがない。どんな鋼メンタルの持ち主だよ、と内心ツッコミを入れる。
「ていうか、西宮もそういう相手がいるなら言ってよ。あれだ、将来決まってる人がいるから、それまで遊びたかった的な?」
口に出してみて、何とも自虐的だなと自嘲した。それでも、なぜか言葉はどんどんと溢れ出る。
「私のことは気にしなくていいからね。こっちも本気じゃないし、元々お試しなんだし。やめたくなったらいつでも言ってね」
本心ではない言葉がダムが決壊したかのように溢れる。嘘 言っておかないと、別の何かがこぼれ落ちそうだった。
そんな気持ちを見透かされたくなくて、本音を隠しておきたくて、柚月の顔を見ることはできなかった。反応が怖かったのも理由の一つだ。
柚月から聞こえたため息が、そのままその口から言葉を紡ぐ合図のように思われて、凪沙はサンプリングの時間を言い訳に、またしても逃げるようにして研究室へと向かった。
「凪沙が呼んでくれれば、すぐすむ話だろ」
本日も相変わらず、人目を憚ることもなく二人は言い争っていた。
大学に到着し、エレベーターを待っているところで柚月に遭遇した。おはよう、と口にしようとした凪沙を遮り、珍しく柚月の方から吹っかけてきたのだ。人が乗っていないのをいいことに、エレベーターに乗り込んでも変わらず、
ただ、その内容はいつもと違っていた。
「一回呼べたんだから、二回も変わんないだろ」
「呼んでない」
「は? 何それ、記憶喪失? 呼んだから、間違いなく。『柚月は私の彼氏だから』って言ってるから」
「ちょ……再現しなくていいから。それにあれは緊急事態だったっていうか……」
小さな声でモゴモゴと喋る凪沙に、柚月はため息をつく。
「じゃあ、百歩譲って呼んでない、でいいよ」
諦めてくれたと思い、やっと解放されると凪沙は安堵する。
「今、呼んで」
ほっとしたのも束の間、有無を言わさない勢いで柚月が迫る。
凪沙たちがこの言い合いを始めて、学生や教授たちが数人エレベーターホールを通ったけれど、みんな素通りしていた。いっそ誰かに止めてほしかった。けれど、今までそんな人物が登場した試しはない。
「やだ。もうこのやりとり疲れた。諦めてよ」
「凪沙が呼んでくれれば終わるって言ってるだろ」
「絶対やだ」
お互い、何を意固地になっているのか。柚月もいつにも増して強引だし、凪沙も凪沙で名前くらい呼べばいいじゃないかと思うのだけれど、柚月の要望には応えられそうになかった。
そんな不毛なやりとりに辟易し、この状況を脱出できる方法について思案していると、凪沙の目にとある人物が映り込む。その人は凪沙にとって救世主に見えた。
「西宮、呼ばれてるよ」
進生研の後輩が、片隅で声をかけるタイミングを見計らっているかのように立っているところを見つけた凪沙は、いいことをしたような顔をして後輩に柚月を押し付けた。逃げるための犠牲になってもらったと言っても過言ではない。凪沙は心の中で謝罪した。
実際に、その後輩も柚月に用事があるようだったので、結果オーライだ。柚月は本日二度目のため息を吐き、後ろ髪引かれる思いで後輩の方へと向かった。
「じゃあ、一旦保留にするけど」
「お疲れ!」
まだ繰り返すのかと兆候が見られるとすぐ、凪沙は柚月の言葉を遮り、逃げるようにして立ち去った。
***
その日は一日、実験の予定が詰まっていたので、実験室に籠りきりだった。研究室内は鉄壁の結界で守られているかのように安全な場所だ。忙しく実験に明け暮れる時間は何とも有意義で、あっという間に時間が過ぎた。とは言っても、集中できたおかげか予定よりも早く終えることができ、時計は4を指していて、まだ日も暮れていない。明るい時間帯ではあるけれど、今日はもうこのまま帰宅しよう。そうすれば柚月に会うリスクもないだろう、と思っていたのだけれど、そう簡単には行かないらしい。
結界
を出ると、そこには腕組みをした柚月が立っていた。いつもは気にならない身長差が威圧感を与える。また今朝と同じ問答が繰り返されるのかと臨戦態勢に入った凪沙だったけれど、柚月は口を開かない。何も言わないどころか、有無を言わせないと言わんばかりに凪沙の腕を掴むと、引きずるようにそのまま連行していった。どこに連れて行かれるのかと思えば、辿り着いたのは木の博物館だった。その選択肢は柚月にしては珍しく、あまりに現実から遠く離れないこの場所の選択が、凪沙には不思議に思えた。
現状を把握できずにいる凪沙を放って、柚月は入館チケットを購入する。それを見て、凪沙は慌てたように財布を取り出した。窓口に書いてある金額を確認している間に、柚月は凪沙の分のチケットを渡すと、そのままスタスタと中に歩いて行ってしまった。受け取らないという意思表示なのだろう。凪沙は不服そうに顔を顰めながらも、ひとまず財布を鞄に仕舞った。
中に入ると、桧やもみの木で設えた空間が広がっていた。展示品ももちろんあるのだけれど、建物自体が展示物かのように、どこを見ても作品のようだった。
それぞれの木の独特な匂いも、お互いを邪魔することなく香る。木の匂いは好きだ。森林の中にいる時の匂いも、それを材木として使用している時の匂いも、そしてその質感も、それらが作り出す全てのものが好きだった。
少し進むと、蛍光灯の明かりとは異なる光が通路に漏れ出ていた。見ると、扉のない入り口があり、光はそこから溢れているらしい。
「入ってみる?」と柚月が目で訴え、凪沙はもちろんといった様子で頷いた。
その部屋は太陽の動きを考慮して、どの角度からでも光が入ってくるように設計されていた。朝日に始まり、オレンジ色に輝く夕日で締め括られる。夜遅くまで開館されているのであれば、月明かりも楽しめそうだ。
今は西日が入り込んでくる時間で、中央に配置された螺旋階段が温かみのある光に照らされていた。
光の当たり方でも、その木材の見え方は変わってくる。窓の位置だけでなく、真ん中の螺旋階段にも仕掛けがあった。階段の一つ一つの木目が違っていたのだ。木目と光の絶妙なバランスで、どこを見ても違った顔を楽しむことができる。その凝ったデザインと見せ方が何とも凪沙好みで、凪沙は一つ一つ丁寧に目を配った。他の来客者の邪魔にならないように、気を配りながら。
凪沙は先程まで、大学にいるのと何ら変わらないではないかと思っていたことをすっかり忘れて堪能していた。あまりに集中しすぎて、喋るという行為すら忘れてしまっていた。
「すずなも連れてくればよかったね」
一通り見終わってから、お土産物を物色している時に、凪沙はそんなことをぽろっと口にした。
すずなはあぁ見えて、建築マニアなのだ。建物の素材に興味関心があり、どの部分にどのように、どんな素材が使われているのかを細かくみるのが趣味だった。趣味について語っているときだけ、唯一すずなの熱弁を聞くことができる。
きっと、この場所もすずなの興味をそそったに違いない。すずなはどんな観点でここを楽しむのだろうかと考えていると、「楽しくなかった?」と柚月が不満そうな顔で凪沙に声をかけた。
十分に楽しんでいて、むしろ柚月を放置してスタッフの人に話を聞きに行ったりしてしまっていたのに、何をどう見たら楽しんでないなんて思えるのだろうか。
「すごく楽しかったよ! 西宮は楽しくなかった?」
「……俺と二人じゃ不満みたいだったから」
柚月は呟くように口にすると、凪沙から目線を逸らした。その言葉に、その仕草に、凪沙はきょとんと目を丸くする。一瞬、何を言われたのかわからず、すぐにはその言葉を咀嚼することができなかった。
「もしかして、拗ねてる?」
かろうじて出てきた言葉に、柚月からの返事はない。返事はなくとも、その表情が肯定を意味していて、目の前の柚月が子どものように見えた。それが何だか可愛く思えたのだけれど、言葉にすると確実に怒られるので、飲み込んだ。
「西宮と一緒が嫌とかではなくてね。西宮はどっちかっていうと動物園とかの方が興味あるでしょ? ここは明らかに私の趣味だし、それに付き合わせるの申し訳ないなと思って」
柚月は一度は獣医を目指そうとしていたほど動物好きで、現在は蜂の研究をしているけれど、その発想も元々は哺乳類の一種から得たものだと以前聞いたことがある。学部生の時に、週末に一人で動物園に行っている、なんて話も耳にしていた。動くものが苦手な凪沙とは対照的なのだ。
なので、この博物館のチョイスは、完全に凪沙の嗜好に寄せてくれているもので、むしろ柚月の方が退屈だろうと思っていた。それでも、柚月は凪沙の話にいつでも耳を傾けてくれるし、一緒になって、同じ目線で楽しもうとしてくれているのは伝わっていた。それはとても嬉しかった。
「俺は凪沙が楽しんでくれれば、それで満足だから」
そんなことをしれっと言ってしまう柚月に、せめて一度くらいは動物園に付き合うべきだろうかと、真剣に悩む凪沙だった。
————————————————————
——————————
帰り道、結局会計の全てを柚月が持ってくれていることに気づく。知らないうちに支払いが終わっていることが多く、凪沙は財布を出すタイミングを失っていた。柚月ともなれば、そういうことに慣れていてもおかしくはないけれど、想像するだけでちょっとモヤっとした。
それでも何かお返しをしないと気がすまない凪沙は、ふとあることを思い出す。
「ねぇ、ご飯奢るよ」
「え?」
「あれ? 行かない? 西宮がこの前ご飯奢れって言ったんじゃん」
「奢れ、とは言ってないけど……一緒に行ってくれるの?」
「行きたくなかったら、別にいいけど」
「そんなこと言ってない。何食べたい?」
柚月が乗り気になってくれたことに安堵しつつも、ここでも凪沙を優先しようとする柚月に少し不満を覚える。けれど、せっかく楽しい時間を過ごし、穏やかな気持ちになってるのでここで言い争うようなことはしたくなかった。
凪沙は渋々、今の気分を考えてみることにした。
「柚月さん?」
ふと、近くに人の気配が入り込んできたかと思うと、その人は柚月の名前を呼んだ。声の方に目を向けると、声の主と思われる女性が日傘から顔をのぞかせながら柚月の方を見ていた。
その人は色白で、凪沙よりも少しだけ背が小さく、黒い髪が胸の辺りまで伸びていた。私服なのか、それとも用事があったのか、これからあるのか、その年にしては珍しく和装を召していた。着慣れているのか、動作も綺麗なものだった。
柚月の知り合いなのだろうと思うのだけれど、柚月は目の前の彼女を認識すると、心なしか怪訝そうな表情を浮かべた。
凪沙は目の前の女性と柚月を交互に見た。
「柚月さん、今日の約束お忘れではないですか?」
「忘れてるも何も、俺は約束なんてしてないし」
落ち着いた様子で言い合っている二人を眺めながら、凪沙は自分が場違いなところにいる気がしてならなかった。柚月は柚月でこの場から離れたがっているようにも見えるし。それでも凪沙にはどうすることもできず、そもそもこの人は誰なのか、わからないことだらけだった。
わからないという不安からか、凪沙は無意識に柚月の袖を掴んでいた。引っ張られる感覚を覚えた柚月がそれに気づくのとほぼ同じくして、目の前の女性もそこで初めて凪沙に気づいたかのように視線を移す。
「柚月さん、そちらの方は?」
先程から薄々感じてはいたけれど、その見た目に反して、口調が強い。その話し方から、気が強そうな印象を受けた。
初対面で、敵意のようなものを剥き出しにされたことがない凪沙は多少怖気付きながらも、笑顔を浮かべた。そして、柚月が口を開く前に我先にと話し始める。
「私、西宮と同じ大学に通っている高見と言います。西宮とは同期なんです」
凪沙の言葉に、あからさまに安心したような顔をする。先程までの敵意が薄まると、彼女は口元に笑みを浮かべた。
「
いいなずけ………
聞き慣れない言葉が耳を通ったのだけれど、脳内はそれを漢字に変換してくれない。はて、『いいなずけ』とは何だっただろうか。
「これから柚月さんと約束がありますの。お借りしても宜しくて?」
「え……あぁ、どうぞ」
「は?! 凪沙?」
「西宮、ごめん! 私、大学に戻らないといけない用があったんだった!」
もう一度謝罪の言葉を告げ、久我と名乗った彼女にも軽く挨拶をすると、凪沙は足早に立ち去った。柚月から逃げるように立ち去るのは、今日これで二度目だ。
柚月は何か言おうとしていたけれど、ここは自分が引いた方がいいのだと直感が告げていた。あとで怒られるんだろうな、と思いながらも、凪沙はそっちの方が怖くなかった。
もちろん、大学に戻る用事などあるわけはなく、そのまま家路に着く。そこでやっと “許嫁” が変換された。
***
翌日、柚月はいつも凪沙が使用している出入口で凪沙が来るのを待っていた。案の定、柚月はご立腹だった。
「なんで、彼女って紹介させてくれなかったの?」
怒っている理由が想定外で、凪沙は驚きを隠せなかった。“許嫁” に対して、“彼女” ですなんて言えるわけがない。どんな鋼メンタルの持ち主だよ、と内心ツッコミを入れる。
「ていうか、西宮もそういう相手がいるなら言ってよ。あれだ、将来決まってる人がいるから、それまで遊びたかった的な?」
口に出してみて、何とも自虐的だなと自嘲した。それでも、なぜか言葉はどんどんと溢れ出る。
「私のことは気にしなくていいからね。こっちも本気じゃないし、元々お試しなんだし。やめたくなったらいつでも言ってね」
本心ではない言葉がダムが決壊したかのように溢れる。
そんな気持ちを見透かされたくなくて、本音を隠しておきたくて、柚月の顔を見ることはできなかった。反応が怖かったのも理由の一つだ。
柚月から聞こえたため息が、そのままその口から言葉を紡ぐ合図のように思われて、凪沙はサンプリングの時間を言い訳に、またしても逃げるようにして研究室へと向かった。