07 嫉妬と真意について
文字数 4,046文字
「あれ、高見がいる」
「……?……あ、伊達メガネせんぱ、じゃなかった……大輔 先輩!」
名前を呼ばれたことに顔を上げると、珍しいものを見るかのように大輔が近づいてきていた。院生室で、教授から大量に送られてきた論文を読んでいた凪沙のそばまで近寄った大輔は、両手で凪沙の両頬を掴む。
「悪いこと言うのはこの口かなぁ?」
「い、いたいれ、す……ごめんな、はひ」
離してくれ、と懇願するように口にする。痛いと口では言ってみたものの、そこまで力を加えられていないので、ほとんど痛みは感じていなかった。それでも少し大袈裟に誇張するのは、凪沙と大輔のお遊びのようなものだった。
少しの間、いつものお遊びを楽しんだのち、大輔は手を離し、解放された凪沙は頬を手で摩 った。
「お久しぶりですね」
「あぁ、学会に行ってたんだよ」
寂しかった? と大輔が戯ける。それに対して、「枕を濡らさない夜はありませんでした」と棒読みで返すと、再び
大輔は博士課程一年(D1)で、凪沙の一つ上の先輩だ。すずなと同じ木構研の所属で、凪沙とも面識があり、学部生時代から仲良くしてくれていた。先輩感を感じさせない気軽さで、誰ともフレンドリーに接することができるのはこの人の特徴だった。
コンタクトの上にさらに度が入っていないメガネを重ねているのは、本人のこだわりらしく、そこをついて凪沙は時折『伊達メガネ先輩』と呼んでいた。
「そうだ、これお土産」
大輔は手に持っていた紙袋を凪沙に渡す。中にはチョコレートと、紅茶の茶葉が入っていた。
「わぁ! 両方とも好きなとこのだ! 大輔先輩ありがとうございます!!」
「『私の好み知っててくれて嬉しいー!』」
「
「棒読みやめろ」
頭を軽く小突かれる。凪沙が笑うと、大輔もつられるように笑みを浮かべた。
本当のところ、わざわざお土産を買ってきてくれたというだけで嬉しかった。それに加えて、大輔にも言った通り、大輔がくれたお土産は凪沙の好きなお店の、その中でも特に好きな種類のものだったので、喜んでいたことに変わりはない。ただ、本人がおちゃらけたために、乗っかっただけだ。
大輔にパーソナルスペースというものは存在せず、相手が誰であれ、距離の詰め方が異常に早かった。けれどその反面、持ち前の気安さを活かしてなのか、男女関係はルーズだという噂だった。凪沙の耳にも入ってくるほど密かに有名な話ではあったけれど、実質的な被害が自分にないため、何とも思っていなかった。
何より、大輔と話すこと自体楽しかったので、ふざけながらもどんな話を聞けるのだろうかとワクワクしていた。この日も、学会で新たに得た知識を普及してもらいつつ、面白話も聞かせてもらっていた。
どんな話でも面白く聞こえるのは、おそらく大輔の話術なのだろうけれど、凪沙はいつも大輔の話を笑って聞いていた。
———————————————
———————
3階にある院生室から研究室のある5階へと戻る。エレベーターを使うという選択肢もあったけれど、2階分だけなので階段を上ることにした。
L字型の建物の接地点にエレベーターと階段があり、凪沙と大輔の所属する研究室は真反対に位置しているため、大輔とはそこで別れた。
結局、大輔は院生室に来てから凪沙と話すだけ話して、何をするでも、何かを取りに来た素振りも見せることもなく、研究室に戻ると言った凪沙についてくるように院生室を後にした。
わざわざお土産を持ってきてくれたのだろうか、とも考えたけれど、そうであれば前もって連絡をくれそうなものだとも思った。大輔の行動を謎に思いつつ、自分と話していたことで、本来の目的を忘れてしまったとかでなければいいなと、そんなことを考えながら研究室までの道のりを歩いていた。歩いていると、不意に腕を掴まれ、その手を辿ると、不機嫌そうな空気を纏った柚月が立っていた。
「何話してたの?」
「?」
柚月の言葉の意味がわからず、凪沙は首を傾げる。
逃げたりしたいのに、腕は掴まれたまま。機嫌が悪いのかと思えば、見上げて見える柚月の顔は、何だか子どもが拗ねているようなそんな表情をしていた。
「……三上 先輩、」
「大輔先輩? 普通に世間話だけど」
「凪沙、あの先輩と仲良いよな」
やはり柚月の言葉の意図が理解できず、凪沙は曖昧に頷いて見せた。けれど、同意されることも気に入らないのか、柚月の機嫌は直らない。
「もしかしてそれ、三上先輩からもらった?」
柚月の指が指していたのは、紙袋だった。どうして大輔からもらったものだとわかったのだろうか、と不思議に思いながらも、凪沙は肯定の意味で頷いた。それでもやはり柚月は表情を崩さず、むしろ眉を歪ませた。
「……西宮、怒ってる?」
「……だろ……」
「え?」
「好きな奴が他の男に笑顔振りまいてたら、いい気しないだろ」
俺にはあんな笑顔見せたことないくせに、と口をぎゅっと結ぶ。
凪沙はぽかんと口を開けていた。柚月はこんな子どもっぽいことをするような人だっただろうかと、凪沙の疑問は尽きない。
「その言い方だと、何か妬いてるみたいに聞こえる」
「妬いてるけど?」
何バカなこと言ってんだよ、と笑い飛ばしてもらおうと口にした言葉を、柚月はさも当たり前かのように自信満々に言ってのけた。さらっと答える柚月に、凪沙は自分で言っておいて面食らう。こっちの方が恥ずかしいとでも言いたげに。
凪沙は首を振った。柚月が嫉妬するなんて、何だかイメージにそぐわない。それも、勝手な偏見だけれど。
柚月はモテた。少なくとも、凪沙が柚月と知り合ってからは、凪沙の周りも含め、柚月に言い寄ってくる人は数知れなかった。最初は相手にもしていなかったらしいのだけれど、ある時期を境にその噂は変化した。来る者拒まず、去る者追わず—————そんな噂が瞬く間に広がり、柚月を避けていた凪沙ですらその噂を耳にしていた。最近は柚月に関するその手の話題は一切耳に入らなくなってはいたけれど、特定の相手は作らないことで有名だったため、今凪沙に言い寄ってくるのも新しい遊びか、一時の気の迷いか何かなのだろうと最初は思っていた。
最後の方は濁したまま、当時耳にしていた “噂” について柚月に話した。凪沙が噂話を締め括るや否や、柚月は鼻で笑った。
「何?」
「いや、凪沙は本当に俺に興味ないんだなと思って」
適当に聞き流してたんでしょ、と自嘲するように付け足す。
柚月の顔には笑みが浮かべられているのに、その微笑みは弱々しく、目線も落としたまま凪沙の視線と交わらない。
「確かに言い寄られてたこともあったけど、全部断ってたし。
「何で?」
「何で?」
おうむ返しのように、凪沙の言葉がそのまま柚月の声となって返ってくる。柚月は「そんなこと聞く?」と言いたげな表情で凪沙を見下ろしていた。
「凪沙のことが好きだからだよ」
「……そんな、前からみたいな」
「そうだよ。ずっと好きだった」
「すずなは俺の気持ち知ってて、凪沙の恋バナ会に呼ぶし—————行く俺も俺だけど。おかげで俺は聞きたくもない話聞く羽目になるし……」と、凪沙に対する苦情なのか、すずなに対するそれなのかわからず、凪沙はとりあえず謝罪の言葉を口にする。
「ごめんなんて言葉いらないから…」
掴まれた腕に力が込められる。
忘れてはいけないのは、ここは大学内で、二人が話している場所は廊下の一端だということだ。誰が通っても、二人の会話を誰が聞いていてもおかしくはない。むしろ、ここで誰かが現れて話が途切れ、そのまま逃げ出せたらいいのに、と凪沙は心の中で願ったのだけれど、ここぞというときにそんな願いは聞き届けられない。
「……あのさ、これは提案なんだけど」
「?」
「凪沙が俺を嫌いじゃないなら、期限付きでもいいから付き合ってくれない? お試し? みたいな」
「頭が硬い凪沙は考えたこともないだろうけど」と付け足された言葉は、バカにしているようにも取れた。少しムッとする気持ちがなかったわけではないけれど、いつもよりも自信がなさそうに話す声に、俯く表情に怒る気にはなれなかった。
お試し————確かに考えたことはない。もちろん、そのような制度が世の中には存在するということは知っている。知ってはいるけれど、凪沙にとって縁のない言葉だと思っていた。何だかとても都合のいい言葉のように思われた。柚月が言うように、頭が硬いのだ。
けれど、この状況で改めて考えてみると悪くないような気もしてくる。お試しであれば、付き合ってみて、思っていた感じと違ったと柚月が思ったとしても、関係を解消しやすい。傷も浅くてすむ。どちらにしてもメリットがあるではないか。
「そっか。お試しなら、やっぱりなしにしたいって西宮も言いやすいしね」
凪沙は敢えて軽口を叩くような口調で言った。わざわざそんなことを言ったのも、冗談めかして口にしたのも、自己防衛なのだけれど、凪沙本人はそのことに気づいていない。
「俺から凪沙をフることはないよ」
何を根拠に—————と、そんな言葉が脳裏に浮かんだけれど、それは飲み込んだ。そんな曖昧なものを証明しようがない。単に、今はそう言いたいだけなのだろう。それでいいじゃないか。
「…わかった。よろしくね」
「え、付き合ってくれるの?」
凪沙が承諾の意味で頷くと、柚月ははにかんだように笑い、そのまま凪沙を抱き上げた。くるくると回されるんじゃないかと思うくらいの勢いがあり、怖いと思った凪沙は柚月に抱きつく形でしがみついた。凪沙に抱きつかれたことで我に返った柚月は、凪沙が高所恐怖症だということを思い出し、ゆっくりと着地させると、返すようにしっかりと抱きしめた。
「好きになってもらえるように、俺頑張るから」
柚月は凪沙の耳元でそう囁いた。凪沙としては、もうしばらくは頑張らないでくれと思うのだった。
「……?……あ、伊達メガネせんぱ、じゃなかった……
名前を呼ばれたことに顔を上げると、珍しいものを見るかのように大輔が近づいてきていた。院生室で、教授から大量に送られてきた論文を読んでいた凪沙のそばまで近寄った大輔は、両手で凪沙の両頬を掴む。
「悪いこと言うのはこの口かなぁ?」
「い、いたいれ、す……ごめんな、はひ」
離してくれ、と懇願するように口にする。痛いと口では言ってみたものの、そこまで力を加えられていないので、ほとんど痛みは感じていなかった。それでも少し大袈裟に誇張するのは、凪沙と大輔のお遊びのようなものだった。
少しの間、いつものお遊びを楽しんだのち、大輔は手を離し、解放された凪沙は頬を手で
「お久しぶりですね」
「あぁ、学会に行ってたんだよ」
寂しかった? と大輔が戯ける。それに対して、「枕を濡らさない夜はありませんでした」と棒読みで返すと、再び
攻撃
が向かってきて、今度は間一髪のところで交わした。大輔は博士課程一年(D1)で、凪沙の一つ上の先輩だ。すずなと同じ木構研の所属で、凪沙とも面識があり、学部生時代から仲良くしてくれていた。先輩感を感じさせない気軽さで、誰ともフレンドリーに接することができるのはこの人の特徴だった。
コンタクトの上にさらに度が入っていないメガネを重ねているのは、本人のこだわりらしく、そこをついて凪沙は時折『伊達メガネ先輩』と呼んでいた。
「そうだ、これお土産」
大輔は手に持っていた紙袋を凪沙に渡す。中にはチョコレートと、紅茶の茶葉が入っていた。
「わぁ! 両方とも好きなとこのだ! 大輔先輩ありがとうございます!!」
「『私の好み知っててくれて嬉しいー!』」
「
わぁ嬉しい
」「棒読みやめろ」
頭を軽く小突かれる。凪沙が笑うと、大輔もつられるように笑みを浮かべた。
本当のところ、わざわざお土産を買ってきてくれたというだけで嬉しかった。それに加えて、大輔にも言った通り、大輔がくれたお土産は凪沙の好きなお店の、その中でも特に好きな種類のものだったので、喜んでいたことに変わりはない。ただ、本人がおちゃらけたために、乗っかっただけだ。
大輔にパーソナルスペースというものは存在せず、相手が誰であれ、距離の詰め方が異常に早かった。けれどその反面、持ち前の気安さを活かしてなのか、男女関係はルーズだという噂だった。凪沙の耳にも入ってくるほど密かに有名な話ではあったけれど、実質的な被害が自分にないため、何とも思っていなかった。
何より、大輔と話すこと自体楽しかったので、ふざけながらもどんな話を聞けるのだろうかとワクワクしていた。この日も、学会で新たに得た知識を普及してもらいつつ、面白話も聞かせてもらっていた。
どんな話でも面白く聞こえるのは、おそらく大輔の話術なのだろうけれど、凪沙はいつも大輔の話を笑って聞いていた。
———————————————
———————
3階にある院生室から研究室のある5階へと戻る。エレベーターを使うという選択肢もあったけれど、2階分だけなので階段を上ることにした。
L字型の建物の接地点にエレベーターと階段があり、凪沙と大輔の所属する研究室は真反対に位置しているため、大輔とはそこで別れた。
結局、大輔は院生室に来てから凪沙と話すだけ話して、何をするでも、何かを取りに来た素振りも見せることもなく、研究室に戻ると言った凪沙についてくるように院生室を後にした。
わざわざお土産を持ってきてくれたのだろうか、とも考えたけれど、そうであれば前もって連絡をくれそうなものだとも思った。大輔の行動を謎に思いつつ、自分と話していたことで、本来の目的を忘れてしまったとかでなければいいなと、そんなことを考えながら研究室までの道のりを歩いていた。歩いていると、不意に腕を掴まれ、その手を辿ると、不機嫌そうな空気を纏った柚月が立っていた。
「何話してたの?」
「?」
柚月の言葉の意味がわからず、凪沙は首を傾げる。
逃げたりしたいのに、腕は掴まれたまま。機嫌が悪いのかと思えば、見上げて見える柚月の顔は、何だか子どもが拗ねているようなそんな表情をしていた。
「……
「大輔先輩? 普通に世間話だけど」
「凪沙、あの先輩と仲良いよな」
やはり柚月の言葉の意図が理解できず、凪沙は曖昧に頷いて見せた。けれど、同意されることも気に入らないのか、柚月の機嫌は直らない。
「もしかしてそれ、三上先輩からもらった?」
柚月の指が指していたのは、紙袋だった。どうして大輔からもらったものだとわかったのだろうか、と不思議に思いながらも、凪沙は肯定の意味で頷いた。それでもやはり柚月は表情を崩さず、むしろ眉を歪ませた。
「……西宮、怒ってる?」
「……だろ……」
「え?」
「好きな奴が他の男に笑顔振りまいてたら、いい気しないだろ」
俺にはあんな笑顔見せたことないくせに、と口をぎゅっと結ぶ。
凪沙はぽかんと口を開けていた。柚月はこんな子どもっぽいことをするような人だっただろうかと、凪沙の疑問は尽きない。
「その言い方だと、何か妬いてるみたいに聞こえる」
「妬いてるけど?」
何バカなこと言ってんだよ、と笑い飛ばしてもらおうと口にした言葉を、柚月はさも当たり前かのように自信満々に言ってのけた。さらっと答える柚月に、凪沙は自分で言っておいて面食らう。こっちの方が恥ずかしいとでも言いたげに。
凪沙は首を振った。柚月が嫉妬するなんて、何だかイメージにそぐわない。それも、勝手な偏見だけれど。
柚月はモテた。少なくとも、凪沙が柚月と知り合ってからは、凪沙の周りも含め、柚月に言い寄ってくる人は数知れなかった。最初は相手にもしていなかったらしいのだけれど、ある時期を境にその噂は変化した。来る者拒まず、去る者追わず—————そんな噂が瞬く間に広がり、柚月を避けていた凪沙ですらその噂を耳にしていた。最近は柚月に関するその手の話題は一切耳に入らなくなってはいたけれど、特定の相手は作らないことで有名だったため、今凪沙に言い寄ってくるのも新しい遊びか、一時の気の迷いか何かなのだろうと最初は思っていた。
最後の方は濁したまま、当時耳にしていた “噂” について柚月に話した。凪沙が噂話を締め括るや否や、柚月は鼻で笑った。
「何?」
「いや、凪沙は本当に俺に興味ないんだなと思って」
適当に聞き流してたんでしょ、と自嘲するように付け足す。
柚月の顔には笑みが浮かべられているのに、その微笑みは弱々しく、目線も落としたまま凪沙の視線と交わらない。
「確かに言い寄られてたこともあったけど、全部断ってたし。
そういう相手
をしたこともないよ。一度もね」「何で?」
「何で?」
おうむ返しのように、凪沙の言葉がそのまま柚月の声となって返ってくる。柚月は「そんなこと聞く?」と言いたげな表情で凪沙を見下ろしていた。
「凪沙のことが好きだからだよ」
「……そんな、前からみたいな」
「そうだよ。ずっと好きだった」
「すずなは俺の気持ち知ってて、凪沙の恋バナ会に呼ぶし—————行く俺も俺だけど。おかげで俺は聞きたくもない話聞く羽目になるし……」と、凪沙に対する苦情なのか、すずなに対するそれなのかわからず、凪沙はとりあえず謝罪の言葉を口にする。
「ごめんなんて言葉いらないから…」
掴まれた腕に力が込められる。
忘れてはいけないのは、ここは大学内で、二人が話している場所は廊下の一端だということだ。誰が通っても、二人の会話を誰が聞いていてもおかしくはない。むしろ、ここで誰かが現れて話が途切れ、そのまま逃げ出せたらいいのに、と凪沙は心の中で願ったのだけれど、ここぞというときにそんな願いは聞き届けられない。
「……あのさ、これは提案なんだけど」
「?」
「凪沙が俺を嫌いじゃないなら、期限付きでもいいから付き合ってくれない? お試し? みたいな」
「頭が硬い凪沙は考えたこともないだろうけど」と付け足された言葉は、バカにしているようにも取れた。少しムッとする気持ちがなかったわけではないけれど、いつもよりも自信がなさそうに話す声に、俯く表情に怒る気にはなれなかった。
お試し————確かに考えたことはない。もちろん、そのような制度が世の中には存在するということは知っている。知ってはいるけれど、凪沙にとって縁のない言葉だと思っていた。何だかとても都合のいい言葉のように思われた。柚月が言うように、頭が硬いのだ。
けれど、この状況で改めて考えてみると悪くないような気もしてくる。お試しであれば、付き合ってみて、思っていた感じと違ったと柚月が思ったとしても、関係を解消しやすい。傷も浅くてすむ。どちらにしてもメリットがあるではないか。
「そっか。お試しなら、やっぱりなしにしたいって西宮も言いやすいしね」
凪沙は敢えて軽口を叩くような口調で言った。わざわざそんなことを言ったのも、冗談めかして口にしたのも、自己防衛なのだけれど、凪沙本人はそのことに気づいていない。
「俺から凪沙をフることはないよ」
何を根拠に—————と、そんな言葉が脳裏に浮かんだけれど、それは飲み込んだ。そんな曖昧なものを証明しようがない。単に、今はそう言いたいだけなのだろう。それでいいじゃないか。
「…わかった。よろしくね」
「え、付き合ってくれるの?」
凪沙が承諾の意味で頷くと、柚月ははにかんだように笑い、そのまま凪沙を抱き上げた。くるくると回されるんじゃないかと思うくらいの勢いがあり、怖いと思った凪沙は柚月に抱きつく形でしがみついた。凪沙に抱きつかれたことで我に返った柚月は、凪沙が高所恐怖症だということを思い出し、ゆっくりと着地させると、返すようにしっかりと抱きしめた。
「好きになってもらえるように、俺頑張るから」
柚月は凪沙の耳元でそう囁いた。凪沙としては、もうしばらくは頑張らないでくれと思うのだった。