06-2 心配する理由について(後編)

文字数 3,628文字

 予定していた実験が終わり、帰り支度を始めようと鞄を手に取ったタイミングで、凪沙の鞄が震えた。規則正しく揺れる振動に、凪沙は鞄からスマホを取り出し、画面を確認する。見ると、すずなからの着信だった。画面に表示されるその名前に、凪沙は驚いていた。友人からの電話に驚くなんて、おかしな話かもしれない。けれど、凪沙から連絡することはあっても、すずなから————しかも、電話がかかってくるなんてとても珍しく、何だか嫌な予感がした。

「もしもし」

 『凪沙?! 落ち着いて聞いてね』

 電話越しのすずなの声は、一つのデバイスを挟んでいてもわかるほど動揺の色が溢れていた。電話はすずなの声だけではなく、緊張感まで伝える。何より、開口一番に出てきた言葉が『落ち着いて』だなんて、不安を煽っているようなものだ。
 凪沙はすずなの言葉を待った。知らぬ間にスマホを持つ手とは反対の手を強く握りしめていた。

 すずなは言葉を続ける前に、一つ深呼吸をした。その音に、凪沙の心拍数がさらに上がる。けれど、次にすずなの口が紡いだ言葉に、凪沙の思考は一瞬その動きを止めた。

「え…今、なんて……?」

「だからね、柚月が病院に搬送されたって!」

 再度繰り返される言葉に、聞き間違いではなかったのだと、凪沙の身体は硬直した。そのまま滑るように凪沙の手からこぼれ落ちるスマホから、すずなの声が微かに聞こえる。その声が搬送された病院名を告げると、スマホが床に接触するのと同時に、凪沙は鞄を手に取り、研究室を出た。

 頭は働いていなかった。ただ、無我夢中で走っていた。大学を出て、大通りに差し掛かるとすぐタクシーを掴まえることができ、慌てて乗り込むと、その勢いのまま行き先を告げた。
 気が気じゃなかった。柚月は無事なのだろうか。すずなの口調、雰囲気から只事ではないということだけはわかった。それに加え、気が動転している凪沙は、悪い考えばかりが頭を占めていた。握りしめた手を汗が湿らせていた。






 病院に着くと、お金を支払い、急いでタクシーを降りる。
 入り口付近まで乗り入れてくれたおかげで、ほとんど歩く必要もなく病院の入り口にたどり着いた。それでも慌てているせいか、足がもつれそうになり、転ぶ寸でのところで必死に踏みとどまった。

 すずなから病院名を聞いて、そこが大きな病院だということはわかっていたのに、改めて目の前にすると、その迫力に圧倒される。また良くない考えが頭を過ぎった。
 凪沙は肝心なことを忘れていた。大きな病院で、多くの診療科があるにもかかわらず、凪沙はどこに柚月がいるのかを聞いていなかった。重要な部分を聞く余裕がなかったのだ。
 今なお、落ち着きを取り戻してはいない。凪沙は途方に暮れる気持ちで、そして震える足で、『受付』と書かれた看板が見える方向へと足を向けた。

「すみません、搬送されてきた患者さんにはどこに行けば会えますか?」

「はい?」

「そこの大学からさっき学生が搬送されてきたはずなんです! 名前は西宮って……」

「凪沙?」

 言葉の順序を忘れ、焦る気持ちと比例して声が大きくなっていく凪沙を制した声に、凪沙は振り返った。体全てではなく、肩から上だけを振り返るのに、凪沙は時間をかけた。とてもゆっくりと、今度は急く気持ちとは裏腹に、体が思うように動かせないようなそんな動作だった。

「に、しみや……?」

 振り返った先には柚月が驚いたような表情を浮かべて立っていた。どうしてここに凪沙がいるのかわからないと言いたげだ。
 凪沙は凪沙で、幽霊でも見るかのように目を見開いていた。
 先に表情を戻したのは柚月だ。どうしたの? といつもの調子で訊ねながら、距離を詰める。

「えっ、西宮!? 大丈夫なの?!」

 近づいたことで、はっきりと認識したのか、凪沙はその表情を変えず、柚月の腕を掴んだ。凪沙の勢いに、柚月は戸惑いを隠せない。
 そんな柚月の心情など気にする余裕もなく、柚月の状態を確認するべく、凪沙はベタベタと柚月の身体を触っていた。さすがにその行動は許容できたかったのか、柚月は慌てて凪沙の体を引き剥がす。

「凪沙、ちょっと落ち着いて」

「ケガは?! 起きてて大丈夫なの?!」

病院(ここ)に用があるのは、俺じゃないから」

「え……」


 そこでやっと凪沙の動きが止まった。呆けた顔をしているけれど、柚月の言葉を聞き入れる状態にはなったようだ。
 柚月は深く息を吐くと、凪沙の頭に手を置いた。

「卒論生の子が蜂に刺されたんだ。毒を持っている種じゃないし、おそらく大丈夫だろうけど、大事をとって診てもらいに来たってわけ」

 蜂の飼育について教えていた最中に、変な触れ方をしてしまったらしく、そのまま運悪く針へと直行したのだそうだ。よくあってはいけないけれど、初心者にはよくあることらしい。それも踏まえ、ビギナーのために毒性のない種を用いていて、アナフィラキシーショックなどの恐れも極めて低いとのこと。けれど、正しく針を取り除かないと、体内に残ってしまう可能性もあるため、来院したとのことだった。
 ちなみに、搬送されたのではなく、普通に自分たちでここまで来たのだと、柚月は説明を続けた。後輩は現在処置を受けていて、柚月は研究室に連絡をしようと、外に出ようとしているところだったらしい。

 柚月の話に、凪沙はしゃがみ込みたい気持ちになった。張り詰めていた気持ちが、柚月の無事を確認できたことで、一気に崩壊してしまったのだ。足の力さえも奪うほどに。
 それでも凪沙は僅かに残った力を振り絞ると、呆気に取られている受付の人に挨拶をし、踵を返す。

「ごめん、帰るね」

 早口にそう言うと、急いで元来た道を戻っていく。その行動があまりにも一瞬のことで、柚月は少しの間呆けてしまっていた。けれど、すぐさま正気に戻ると、凪沙の後を追った。そもそもリーチが違うため、入り口————この場合は出口だけれど————を出たところで捕まえることができた。
 柚月に背を向けたまま歩みを止めようとしない凪沙の腕を掴む。出入り口の前を避けるように、柚月はそのまま凪沙の腕を引いて陰に入った。

「待って、どうして逃げるの」

「いや……無事も確認できたことだし、」

 凪沙は居た堪れない気持ちでいっぱいだった。顔を覗き込もうとする柚月から、顔を逸らす。
 改めてこの状況を考えてみると、全てすずなの思惑だったのではないかと思えてきた。搬送なんて大事なら、騒ぎが聞こえないわけはないだろうし。そもそも本当に柚月の一大事なのであれば、電話ではなく直接研究室に呼びに来るか、もしくはすずなもここにいてもおかしくはない。あの電話の声も雰囲気も芝居であったのであれば、その演技力は相当なものだ。感心している場合ではないけれど、落ち着いてしまった今、どうして自分がこんなに慌てていたのか、柚月の無事がわかってどうしてこんなにも安心しているのか————それを考えると、今度は違う意味で落ち着かなかった。

 だって、これって————



 柚月は凪沙が逃げ出さないように腕を掴んだまま離さない。凪沙は抵抗を試みるけれど、それは全く意味をなさなかった。

「俺に何かあったと思って急いで来てくれたの? 心配してくれたの?」

「……」

「凪沙?」

「もう! そうだよ!」

 恥ずかしさが昂じて、凪沙は逆ギレした。相変わらず顔は下を向いているけれど、口調はいつものようにケンカ腰だった。可愛げがないことを自覚している凪沙はさらに気まずさを覚え、一刻も早くここから————柚月の元から離れたかった。

「……ずるいだろ」

 呟くように出た柚月の言葉は、凪沙の耳には届かなかった。
 凪沙は再度離れることを試みようと、何とかして外れないかと掴まれている腕を動かしていた。けれど、その手はさらに掴む力を強め、離れるどころか柚月の方へと引っ張られた。そのまますっぽりと収まるように柚月の腕の中へと抱きしめられる。

「ちょ……何!?」

 ここ、公共の場! と、凪沙が抗うように柚月の腕の中で暴れていると、頭に手が添えられ、そのまま顔を(うず)めるように抱きとめられ、抵抗は失敗に終わる。

「やばい、どうしよう……すごく嬉しい。何なの、凪沙」

 今までに聞いたことのないような声で、柚月が囁いた。
 凪沙を抱きしめる腕にも力が込められる。力強さは感じるのに、とても優しく、まるで大切なものを包み込むように触れていた。

 凪沙はこの状況を飲み込めずにいた。どうして今、自分は抱きしめられているのか。どうして柚月は、あんなに幸せそうに言葉を紡ぐのか。

 ただわかっていることもあった。
 自分がどうして急いでここに来たのか。どうしてあんなに気が動転していたのか。どうして今、柚月に抱きしめられてドキドキしているのか。
 答えはわかっていた。本当はわかっていたのだ。ただ、認めたくなかっただけで。

 それでも今は、どうかこのドキドキが柚月にバレませんように、とそれだけを願うだけだった。
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登場人物紹介

*高見 凪沙(たかみ なぎさ)

修士2年(M2)

保全生態研(保生研)所属

負けん気が強く、時々口調が荒くなる

柚月を天敵だと思っている

*西宮 柚月(にしみや ゆづき)

修士2年(M2)

進化生物研(進生研)所属

頭が良く、面倒見もいい

凪沙をいつも揶揄っているが、気持ちを伝えてからは溺愛が過ぎる

*新野 すずな(にいの すずな)

修士2年(M2)

木質構造研(木構研)所属

凪沙の友人

凪沙と柚月とは学部時代からの仲

クールで、凪沙とは性格が真逆

凪沙に対しては少し冷たい一面も

*三上 大輔(みかみ だいすけ)

博士課程1年(D1)

木質構造研(木構研)所属

すずなと研究室が同じ先輩

凪沙とも仲がいい

フランクな性格だが、浮ついた噂が後を立たない

✳︎来栖 愛里紗(くるす ありさ)

修士1年(M1)

保全生態研(保生研)所属

凪沙の直属の後輩

もったりとした喋り方が特徴

可愛いもの好き

でも虫なども平気で触れる

酒豪

✳︎水沢 修平(みずさわ しゅうへい)

修士1年(M1)

進化生物研(進生研)所属

柚月の直属の後輩

凪沙とも仲が良い

穏やかな性格で頭もいい

凪沙と仲がいいことで、柚月から少し羨ましがられている部分もある

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