01 犬猿の二人の関係性について
文字数 5,451文字
AM5:00——————
所狭しと植物が植えられ、緑で溢れる校内。
授業が始まるにはまだ早く、学生は疎か、教員や事務職員すらもほとんどいない現在、街の中心地から離れた大学は、静かな朝を迎えていた。
「ちょっと、西宮 ぁあ! そんな切り方しないでって言ってるでしょ!」
……静かな朝を迎えていた。
農学部がある本大学では、教授たちの趣味趣向で植えられた植物が至る所に点在していた。校内の
植えられている植物は種々様々で、その中にはもちろん木も含まれる。そのうちの一本を柚月 率いる進生研の学生たちが、とある処理を施そうとしていた。準備を終え、いざ作業を始めようとした矢先、凪沙 の怒号が響く。かなりの距離があるにもかかわらず、大声で叫びながら迫ってくるその姿は、ある意味ホラーだ。本人には口が裂けても言えないけれど。
「俺は、おたくの教授に頼まれて、巣の回収に来ただけなんだけど?」
「だからって、適当なことしないでよ!」
出会い頭にケンカ腰のような口調と雰囲気で会話が始まる。側 からすると、どう見てもそれはケンカであるとしか言いようがないのだけれど、本人たち曰く『話し合い』だということなので、ここでもそう表記する。
この光景は何もこの日に限ったことではない。日常茶飯事だ。
保生研の凪沙と、進生研の柚月は、二人の研究対象の相違からよく衝突していた。衝突、と言っても、凪沙の方が柚月に突っかかっていくことが多かった。
凪沙の所属する保全生態研————略して保生研————は、その名の通り森林等を保護するために、森の生態系や緑地の管理について研究していた。特に凪沙は森林保全をテーマにしていて、その中でも『柳』を研究対象としていた。
反対に、進化生物研————略して進生研————に所属している柚月は、社会性昆虫などの社会システムについて研究していた。柚月の研究対象は『ヒメスズメバチ』で、生態のヒエラルキーと老化のメカニズムについて研究している。
なぜ、この二人の研究が衝突する原因になるのかというと、答えは単純だ。ヒメスズメバチは樹洞のような閉鎖空間に巣を作る特性を持つ。また、樹液が多い木を好み、凪沙の研究対象である『柳』もそれに当てはまった。つまり、自然界のヒエラルキーからして、凪沙の『柳』にとって柚月の『蜂』は天敵なのだ。
とまぁ、この説明でわかるように、大半は凪沙の八つ当たりだ。そんなことはさておき、
「西宮、頭いいんでしょ? 前にも説明してるんだから、いい加減覚えてよ!」
「言われた通りにやってるだろ」
「やってないから、こうして来てるんじゃない!」
凪沙の口調はずっと強気なまま。
ここで一つ断っておきたいのは、先程柚月も言っていたように、今回の進生研の出動は保生研の教授 からの依頼だ。凪沙のボスが育てている————あくまで趣味————木に、蜂の巣が作られていることが判明し、その取り扱いに慣れている進生研のメンバーが撤去の役割を任されたのだった。
その話を小耳に挟んでしまった凪沙が様子を見に訪れ、冒頭に至るというわけだ。遠目に見ても粗雑な仕事内容に、口を出さずにはいられなかった。
研究に用いるものは、それぞれ与えられたテリトリーの中で管理されているので、研究に支障が及ぶものではない。けれど、それでも凪沙としては、自分が守ろうとしているものを正しくない方法で傷つけられていくのは見ていられなかった。
朝早くにラボにいたことで駆り出された柚月の後輩たちは、眠い目を擦りながら二人の攻防 を少し離れた場所から眺めていた。
早朝なのに元気だなぁ、なんて呑気なことを考えていられるのも、二人の喧騒が本気ではないということがわかっているからで。何より、柚月が
何とも不器用とも言える行動に
そんなことを考えている間に、二人の話し合いは終わる。これもいつものことで、さほど時間はかからないのだ。慣れ切っている周囲の人間は、二人が話している間は暗黙の了解で、誰も話に入ろうとはしない。はて、それが何の暗黙なのか誰も知らないのだけれど、それを破ろうとする者はいなかった。
この日も例外なく、凪沙との会話を終えた柚月がすぐに後輩たちの元に戻ってくる。その後、すぐさま柚月は先程凪沙から言われた通りの指示を後輩たちに伝達し、早朝の作業に取り掛かった。
***
「それで、急に呼び出されたかと思えば……フラれたの?」
「フラれたんじゃない! フったの!」
同じようなものでしょ、とすずなは凪沙を放置し、飲み物を注文する。
同じ大学、同じ学科で、学部生の時からの友人であるすずなは、凪沙とは正反対のクールビューティを表したような女性だ。黒い長髪を靡かせ、背筋はいつも真っ直ぐに伸び、歩く姿も凛としているようなそんな人。決して冷淡なわけではないのだけれど、凪沙に対しては————特に、凪沙のこの手の話に関しては、相変わらずの塩対応だった。
研究室が異なり、大学院修士2年に上がって、研究が忙しくなってからは顔を合わせることも減り、こうしてゆっくり話すこと自体久しぶりなのにも関わらず、いつもと変わらない対応に不満をこぼす。
不貞腐れている凪沙を尻目に、すずなは飲み物を運んできてくれた店員と軽く言葉を交わしていた。大学の近くにある行きつけの居酒屋が会合場所となり、店員のほとんどが顔見知りなのだ。
店員が去り、すずなの手元に飲み物が到着したところで、改めて乾杯をする。ちなみに、すずなを待っている間に先に一杯始めていた凪沙は、すでに二杯目だということをここに断っておこう。
乾杯を終え、食べ物のメニューをすずなが手にしたところで、凪沙が再び口を開いた。
「それでね! 喜びの中、話聞いてもらおうと思って電話したら、『何それ? そんなこと? それってそんなすごいことなの?」って!」
怒りと悲しみが混じる声色で凪沙が嘆く。
凪沙は最近、とある学会で賞をもらった。それは、その分野ではとても栄誉あるもので、研究が認められたことを意味した。もちろん、それが目標ではないし、それが全てではない。けれど、評価されたことの指標となり、凪沙としてはただ単純に嬉しかったのだ。また頑張れるモチベーションにも繋がった。
その喜びを共感してほしくて、凪沙は彼氏————元カレだが————に嬉々として話した。その結果、返ってきた言葉が
それは仕方ないと言えば、仕方のないことなのかもしれない。研究に疎い————ということに関係なく、仕事でもそうだけれど、職種が異なれば、その大変さも栄光も何もかも違ってくるのだから。
「別にさ、同じ熱量で喜んでほしかったわけじゃないんだよ? ただ……嬉しいことを、一緒に嬉しいって思ってほしかったの」
これって望みすぎなのかな? とお酒が入っていることもあり、凪沙は顔を伏せていじけ始めた。普段はどちらかというと負けん気が強く、うじうじしているなんて想像できないタイプなので、もうすでにお酒が回っているのか、それとも相当堪 えているのか、どちらかだろう。
フったとは言え、失恋したことに変わりはない。それに、別れた理由はこのことだけではなく、むしろ
「相変わらず見る目ないんだな」
傷心の最中 、不意にかけられた声に凪沙は顔を上げた。視界がぼやけていて、その姿ははっきりとはわからない。
声の主は、二人が座っている席へと近づいてくる。狭まる距離に、視点が定まっていく。
「わー! 何で西宮がここにいるの!?」
「わたしが呼んだの」
平然と答えるすずなに、「何で毎回、西宮に声かけるの?!」と凪沙が騒ぎ立てる。そんな凪沙を尻目に、柚月はさも当然かのように凪沙の隣に腰を下ろした。それすらも気に入らない凪沙は、「すずなの隣に行きなよ」と空席を指すけれど、柚月は取り合わない。そんな中、すずなが柚月にメニューを渡す。何とも息の合ったやり取りだ。柚月とすずなは馬が合うのか、昔から仲が良かった。
三人は学科が一緒で、そのまま同じ大学の院に進学したので、もうすでに6年の仲だ。凪沙とすずなは一緒にいることが多かったので、その延長なのか三人で集まることも少なくなかった。
そのせいなのかはわからないけれど、凪沙の恋愛遍歴は柚月にも筒抜けだった。
「俺にしとけばいいのに」
「は?」
飲み物を受け取った柚月は、そのまま凪沙の方に視線を移した。突然のことで、凪沙は何を言われたのかすぐには理解できず、丸くした目を柚月に向ける。
「俺だったら、研究の話とかも気兼ねなく相談に乗れるし、大変なこととかも全部共有できる。彼氏にしたらお得じゃない?」
「西宮もそんな冗談言うんだね」
凪沙は軽口を叩くと、いつもの揶揄いだと思い、受け流すようにグラスに残ったお酒を飲み干した。それでもまだ足りないとでも言うように、追加で飲み物を注文する。「今日は飲むぞー!」と叫びながら。
さほどお酒が強いわけでもないのに、やはり今回のことがよっぽど堪えているらしい。すずなが止めるのも聞かず、次から次へとグラスを空にしていった。
通常であれば理性が働き、誰に止められなくとも途中で水かジュース類にシフトするのだけれど、この日はそれが機能しなかった。
—————————————————————
————————————
頭が重かった。瞼も思うように開かず、それでも何とか光を目に差し込む。
寝起きでも、これが二日酔いであるということは理解できた。ただ、自分がどうやって家に帰ってきたのか、どうやってベットに入って眠ったのか、その一切の情報が欠如していた。
ひとまず、時間を確認しようと辺りを手で探る。視覚に頼るには、まだ覚束なかった。2、3回手を弄 ると、何やら温かいものに触れた。
「……ん……」
声がする。空耳かと思われるくらいに微かで、聞き間違いだと思った。凪沙は触れた何かを確認するために、それを掴もうとして、逆にその
「…起きた?」
「え……」
今度ははっきりと届いた声に、聞き慣れたその声に、凪沙は一気に覚醒する。覚醒はしても、ここがどこなのか、なぜ目の前に柚月が眠っているのかまではわからない。困惑の色は増すばかり。
凪沙が混乱している間に、凪沙に触れていた
「何で……!」
「見えてるけど、いいの?」
ま、今更隠されて持って感じではあるけどね————なんて、寝起きにも関わらず、いつものように冷静に凪沙の方を指差す。その方向に目を向けると、凪沙は顔を赤くして近くにあった毛布をたぐり寄せた。
「何……どういうこと?」
どうして服着てないの? 下着は身につけてるから大丈夫? ……ってそれでよしとはならないでしょ。と百面相しながらも、もう一度確認のために目線を下に送る。やはり見間違いではないらしい。凪沙は戸惑いを隠せない。
理解できない状況に、柚月に説明を求めるように視線を送る。
「何も覚えてない?」
「えーと……何も、なかった……よね?」
「残念」
繋がれた手を引かれ、その反動で再びベットへと逆戻りする。反対側の手は、
体勢を崩した凪沙を支えるように近づき、そのままおでこを合わせると、柚月は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「昨日の凪沙、甘えて可愛かったよ」
「なっ……! 西宮、酔ってるの? いや、酔ってたんだよね?」
懇願するような目で凪沙が訴える。そうであってくれと言わんばかりに。けれど、凪沙の願い虚しく、柚月は先程浮かべた笑みを崩さない。
「俺、昨日酒飲んでないけど」
「え……じゃあ、何で……」
その言葉を、柚月は鼻で笑った。いつものようにバカにされたのかとも思ったけれど、ほんの少し様子が違っていた。
柚月は繋いだ手に少しだけ力を加えた。逃げられないように。逃がさないとでも言うように。
「凪沙のことが好きだからだよ」
昨日も散々言ったんだけどね、と付け加える。
「犬猿の仲の二人が実は愛し合ってるって……なんか萌えない?」
「全く」
何を言い出すかと思えば、新手の嫌がらせだろうか。
柚月のバカげた話に、凪沙は逆に冷静さを取り戻しつつあった。それもまた皮肉な話ではあるけれど。
「とりあえず帰る。これは、なかったことに!」
手を無理やり振り解く。辺りを見回し、ベットの下に無造作に脱ぎ捨てられた服を拾い上げると、凪沙はそれを急いで身につけた。
身支度を速やかに終わらせると、これまたあっという間に逃げるようにしてこの場を後にする。
着替える際、自分の体に無数につけられた赤い痕があったことに関しては、目を逸らした。
所狭しと植物が植えられ、緑で溢れる校内。
授業が始まるにはまだ早く、学生は疎か、教員や事務職員すらもほとんどいない現在、街の中心地から離れた大学は、静かな朝を迎えていた。
「ちょっと、
……静かな朝を迎えていた。
農学部がある本大学では、教授たちの趣味趣向で植えられた植物が至る所に点在していた。校内の
外側
だけでなく、研究棟とは別に温室まであるのだから、何ともお金がかかっている。植えられている植物は種々様々で、その中にはもちろん木も含まれる。そのうちの一本を
「俺は、おたくの教授に頼まれて、巣の回収に来ただけなんだけど?」
「だからって、適当なことしないでよ!」
出会い頭にケンカ腰のような口調と雰囲気で会話が始まる。
この光景は何もこの日に限ったことではない。日常茶飯事だ。
保生研の凪沙と、進生研の柚月は、二人の研究対象の相違からよく衝突していた。衝突、と言っても、凪沙の方が柚月に突っかかっていくことが多かった。
凪沙の所属する保全生態研————略して保生研————は、その名の通り森林等を保護するために、森の生態系や緑地の管理について研究していた。特に凪沙は森林保全をテーマにしていて、その中でも『柳』を研究対象としていた。
反対に、進化生物研————略して進生研————に所属している柚月は、社会性昆虫などの社会システムについて研究していた。柚月の研究対象は『ヒメスズメバチ』で、生態のヒエラルキーと老化のメカニズムについて研究している。
なぜ、この二人の研究が衝突する原因になるのかというと、答えは単純だ。ヒメスズメバチは樹洞のような閉鎖空間に巣を作る特性を持つ。また、樹液が多い木を好み、凪沙の研究対象である『柳』もそれに当てはまった。つまり、自然界のヒエラルキーからして、凪沙の『柳』にとって柚月の『蜂』は天敵なのだ。
とまぁ、この説明でわかるように、大半は凪沙の八つ当たりだ。そんなことはさておき、
今
は二人の衝突について目を向けよう。「西宮、頭いいんでしょ? 前にも説明してるんだから、いい加減覚えてよ!」
「言われた通りにやってるだろ」
「やってないから、こうして来てるんじゃない!」
凪沙の口調はずっと強気なまま。
ここで一つ断っておきたいのは、先程柚月も言っていたように、今回の進生研の出動は
その話を小耳に挟んでしまった凪沙が様子を見に訪れ、冒頭に至るというわけだ。遠目に見ても粗雑な仕事内容に、口を出さずにはいられなかった。
研究に用いるものは、それぞれ与えられたテリトリーの中で管理されているので、研究に支障が及ぶものではない。けれど、それでも凪沙としては、自分が守ろうとしているものを正しくない方法で傷つけられていくのは見ていられなかった。
朝早くにラボにいたことで駆り出された柚月の後輩たちは、眠い目を擦りながら
早朝なのに元気だなぁ、なんて呑気なことを考えていられるのも、二人の喧騒が本気ではないということがわかっているからで。何より、柚月が
テキトー
なことをしているように見えているのは凪沙くらいのものなのだ。その理由を知らない、気づいていないのも凪沙だけ。何とも不器用とも言える行動に
先輩
への憐れみの目を向ける。もちろん気付かれないように。そんなことを考えている間に、二人の話し合いは終わる。これもいつものことで、さほど時間はかからないのだ。慣れ切っている周囲の人間は、二人が話している間は暗黙の了解で、誰も話に入ろうとはしない。はて、それが何の暗黙なのか誰も知らないのだけれど、それを破ろうとする者はいなかった。
この日も例外なく、凪沙との会話を終えた柚月がすぐに後輩たちの元に戻ってくる。その後、すぐさま柚月は先程凪沙から言われた通りの指示を後輩たちに伝達し、早朝の作業に取り掛かった。
***
「それで、急に呼び出されたかと思えば……フラれたの?」
「フラれたんじゃない! フったの!」
同じようなものでしょ、とすずなは凪沙を放置し、飲み物を注文する。
同じ大学、同じ学科で、学部生の時からの友人であるすずなは、凪沙とは正反対のクールビューティを表したような女性だ。黒い長髪を靡かせ、背筋はいつも真っ直ぐに伸び、歩く姿も凛としているようなそんな人。決して冷淡なわけではないのだけれど、凪沙に対しては————特に、凪沙のこの手の話に関しては、相変わらずの塩対応だった。
研究室が異なり、大学院修士2年に上がって、研究が忙しくなってからは顔を合わせることも減り、こうしてゆっくり話すこと自体久しぶりなのにも関わらず、いつもと変わらない対応に不満をこぼす。
不貞腐れている凪沙を尻目に、すずなは飲み物を運んできてくれた店員と軽く言葉を交わしていた。大学の近くにある行きつけの居酒屋が会合場所となり、店員のほとんどが顔見知りなのだ。
店員が去り、すずなの手元に飲み物が到着したところで、改めて乾杯をする。ちなみに、すずなを待っている間に先に一杯始めていた凪沙は、すでに二杯目だということをここに断っておこう。
乾杯を終え、食べ物のメニューをすずなが手にしたところで、凪沙が再び口を開いた。
「それでね! 喜びの中、話聞いてもらおうと思って電話したら、『何それ? そんなこと? それってそんなすごいことなの?」って!」
怒りと悲しみが混じる声色で凪沙が嘆く。
凪沙は最近、とある学会で賞をもらった。それは、その分野ではとても栄誉あるもので、研究が認められたことを意味した。もちろん、それが目標ではないし、それが全てではない。けれど、評価されたことの指標となり、凪沙としてはただ単純に嬉しかったのだ。また頑張れるモチベーションにも繋がった。
その喜びを共感してほしくて、凪沙は彼氏————元カレだが————に嬉々として話した。その結果、返ってきた言葉が
あれ
だ。それは仕方ないと言えば、仕方のないことなのかもしれない。研究に疎い————ということに関係なく、仕事でもそうだけれど、職種が異なれば、その大変さも栄光も何もかも違ってくるのだから。
「別にさ、同じ熱量で喜んでほしかったわけじゃないんだよ? ただ……嬉しいことを、一緒に嬉しいって思ってほしかったの」
これって望みすぎなのかな? とお酒が入っていることもあり、凪沙は顔を伏せていじけ始めた。普段はどちらかというと負けん気が強く、うじうじしているなんて想像できないタイプなので、もうすでにお酒が回っているのか、それとも相当
フったとは言え、失恋したことに変わりはない。それに、別れた理由はこのことだけではなく、むしろ
彼
が凪沙に言った最後の一言がトドメを刺した。その一言は、凪沙がもっとも気にしていることで、それを好意のある人間から言われることほどダメージが大きいものはない。「相変わらず見る目ないんだな」
傷心の
声の主は、二人が座っている席へと近づいてくる。狭まる距離に、視点が定まっていく。
「わー! 何で西宮がここにいるの!?」
「わたしが呼んだの」
平然と答えるすずなに、「何で毎回、西宮に声かけるの?!」と凪沙が騒ぎ立てる。そんな凪沙を尻目に、柚月はさも当然かのように凪沙の隣に腰を下ろした。それすらも気に入らない凪沙は、「すずなの隣に行きなよ」と空席を指すけれど、柚月は取り合わない。そんな中、すずなが柚月にメニューを渡す。何とも息の合ったやり取りだ。柚月とすずなは馬が合うのか、昔から仲が良かった。
三人は学科が一緒で、そのまま同じ大学の院に進学したので、もうすでに6年の仲だ。凪沙とすずなは一緒にいることが多かったので、その延長なのか三人で集まることも少なくなかった。
そのせいなのかはわからないけれど、凪沙の恋愛遍歴は柚月にも筒抜けだった。
「俺にしとけばいいのに」
「は?」
飲み物を受け取った柚月は、そのまま凪沙の方に視線を移した。突然のことで、凪沙は何を言われたのかすぐには理解できず、丸くした目を柚月に向ける。
「俺だったら、研究の話とかも気兼ねなく相談に乗れるし、大変なこととかも全部共有できる。彼氏にしたらお得じゃない?」
「西宮もそんな冗談言うんだね」
凪沙は軽口を叩くと、いつもの揶揄いだと思い、受け流すようにグラスに残ったお酒を飲み干した。それでもまだ足りないとでも言うように、追加で飲み物を注文する。「今日は飲むぞー!」と叫びながら。
さほどお酒が強いわけでもないのに、やはり今回のことがよっぽど堪えているらしい。すずなが止めるのも聞かず、次から次へとグラスを空にしていった。
通常であれば理性が働き、誰に止められなくとも途中で水かジュース類にシフトするのだけれど、この日はそれが機能しなかった。
—————————————————————
————————————
頭が重かった。瞼も思うように開かず、それでも何とか光を目に差し込む。
寝起きでも、これが二日酔いであるということは理解できた。ただ、自分がどうやって家に帰ってきたのか、どうやってベットに入って眠ったのか、その一切の情報が欠如していた。
ひとまず、時間を確認しようと辺りを手で探る。視覚に頼るには、まだ覚束なかった。2、3回手を
「……ん……」
声がする。空耳かと思われるくらいに微かで、聞き間違いだと思った。凪沙は触れた何かを確認するために、それを掴もうとして、逆にその
何か
に捕まえられた。「…起きた?」
「え……」
今度ははっきりと届いた声に、聞き慣れたその声に、凪沙は一気に覚醒する。覚醒はしても、ここがどこなのか、なぜ目の前に柚月が眠っているのかまではわからない。困惑の色は増すばかり。
凪沙が混乱している間に、凪沙に触れていた
何か
は凪沙の手に絡み、そのまま繋がれる。熱が伝わり、その熱が柚月の手から伝わるものだということは理解できても、どうして柚月に手を繋がれているのかまでは教えてくれない。凪沙の頭はショート寸前で、勢いよく体を起こすと柚月と距離をとった。「何で……!」
「見えてるけど、いいの?」
ま、今更隠されて持って感じではあるけどね————なんて、寝起きにも関わらず、いつものように冷静に凪沙の方を指差す。その方向に目を向けると、凪沙は顔を赤くして近くにあった毛布をたぐり寄せた。
「何……どういうこと?」
どうして服着てないの? 下着は身につけてるから大丈夫? ……ってそれでよしとはならないでしょ。と百面相しながらも、もう一度確認のために目線を下に送る。やはり見間違いではないらしい。凪沙は戸惑いを隠せない。
理解できない状況に、柚月に説明を求めるように視線を送る。
「何も覚えてない?」
「えーと……何も、なかった……よね?」
「残念」
繋がれた手を引かれ、その反動で再びベットへと逆戻りする。反対側の手は、
体
を隠すための毛布を持っているので抵抗しようにも術がない。体勢を崩した凪沙を支えるように近づき、そのままおでこを合わせると、柚月は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「昨日の凪沙、甘えて可愛かったよ」
「なっ……! 西宮、酔ってるの? いや、酔ってたんだよね?」
懇願するような目で凪沙が訴える。そうであってくれと言わんばかりに。けれど、凪沙の願い虚しく、柚月は先程浮かべた笑みを崩さない。
「俺、昨日酒飲んでないけど」
「え……じゃあ、何で……」
その言葉を、柚月は鼻で笑った。いつものようにバカにされたのかとも思ったけれど、ほんの少し様子が違っていた。
柚月は繋いだ手に少しだけ力を加えた。逃げられないように。逃がさないとでも言うように。
「凪沙のことが好きだからだよ」
昨日も散々言ったんだけどね、と付け加える。
「犬猿の仲の二人が実は愛し合ってるって……なんか萌えない?」
「全く」
何を言い出すかと思えば、新手の嫌がらせだろうか。
柚月のバカげた話に、凪沙は逆に冷静さを取り戻しつつあった。それもまた皮肉な話ではあるけれど。
「とりあえず帰る。これは、なかったことに!」
手を無理やり振り解く。辺りを見回し、ベットの下に無造作に脱ぎ捨てられた服を拾い上げると、凪沙はそれを急いで身につけた。
身支度を速やかに終わらせると、これまたあっという間に逃げるようにしてこの場を後にする。
着替える際、自分の体に無数につけられた赤い痕があったことに関しては、目を逸らした。