05 優しさのみせ方について

文字数 4,558文字

 出会った時から柚月は同い年とは思えないくらい大人びていて、しっかりしている印象だった。何でもそつなくこなせるイメージ。
 顔面偏差値も高いのに、それに加えて頭もよかった。それは学年1位のレベルで、それを鼻にかけない気安さが、犬猿の仲になって以来、逆に凪沙の鼻についた。それが単なる妬みだということは重々承知してはしていて、だから、せめて対等になりたくて必死に努力した。
 けれど、柚月はずっと先を歩いていた。それがとてつもなく遠く気がして、どんどん、どんどん虚しくなった。それでも、涼しい顔して難なく何でもこなせる柚月が、本当はものすごく羨ましかった。





 ***




 凪沙はパソコンと向かい合っていた。この前の調査結果の解析とまとめ作業をしている最中だった。というのは建前で、全くと言っていいほど作業は進んでいなかった。
 あのフィールドワーク以来、柚月は普通に接してくれるようになった。今回は俺が折れるよ—————と譲歩してくれたのだけれど、凪沙は結局理由がわからずじまいだった。
 何より、凪沙は自分の弱みを知られてしまったことが悔やまれてならなかった。よりにもよって柚月にあんな姿を見せてしまうなんて……時間が戻ればいいのに、なんてことを考えてはみたものの、世の中そんなに甘くはない。

 そして、気分が落ちているからなのか、その連鎖なのか、嫌なことは続く。
 凪沙は数時間前のことを思い出し、一人ため息をついた。





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 凪沙が通っている大学院では、週に一度、専攻が同じ人たちが集い、研究報告会がある。この報告会には修士課程の大学院生の出席は必須で、助教から教授までは任意参加ではあるけれど、出席することが多かった。
 それは持ち回りで行われ、一度に二人が発表することになっていた。今週の担当の一人が凪沙だった。

 凪沙は研究に優劣などないと思っているのだけれど、みんながそういう価値観でないということも知っている。特にここは、実験系が幅を利かせているので、それが全てだと思っている人間が多くいる。みんながみんなそうというわけではないのだけれど、自分の専門外の分野を研究している人たちを下に見てくる人たちはいて、その人たちはなぜか勝手に自分の世界のヒエラルキーを形成していた。

 発表が終わると、質疑応答の時間が設けられる。好奇心で訊ねられる内容もあれば、違う分野からの視点で新しい発想が生まれることもあった。
 けれど、必ずしも

ばかりが存在しているわけでもない。
 先程も述べたように、自分の分野がヒエラルキーのトップに君臨すると思っている人間もいる。それは学生だけでなく、教授クラスになっても言えることで。そして、とても

なことに、彼らはこんな助言をくれる。

『そんなことやってて、何か意味があるの?」と—————

 凪沙も特定の人たちによくそんなことを言われていた。この研究を始めてからずっと言われ続けていた。それはいくら言われ続けたとしても、いつまで経っても慣れることはなかった。特に、自分の気持ちが落ちている時に言われると、それはもう耐え難いものだった。

 凪沙は気持ちが落ち込んでいると、いつもなら笑って流せることでも、全て真に受けて些細なことが大きな苛立ちに変わった。
 そんな時は、なるべく人と関わらないようにしていた。それは自分の問題であって、他人に不用意に八つ当たりをしていいことではないと理解していたからだ。お互いが嫌な気持ちになるのを避けたかった。ただ、それがわかっていても、自分ではどうにもコントロールができず、避けることでしか身を守る術を持たなかった。

 それでも柚月という人間は、そんな時でもいつもと変わらず凪沙に接した。
 ただ、その日は間が悪かった。

 報告会終了後に、柚月は凪沙を励まそうと声をかけた。それはなんてことない、ごくありきたりな一言だった。決して凪沙を傷つけるようなものではなく、バカにしているようなものでもなかった。
 それは凪沙も十分わかっていたのだけれど、その時の凪沙には受け入れ難いもので、その日、凪沙は柚月にきつく当たった。それはいつものようなケンカ腰の物言いとは違い、完全なる拒絶だった。

 柚月は驚いたような表情を浮かべていたけれど、弁解する余裕などその時の凪沙にはなく、気まずいままその場を去り、それっきりとなった。





 ***





 すずなは呆れた顔で、最近何度もお目にかかっている弱気な凪沙の相手をしていた。
 いつもの如く急な呼び出しがかかり、お互いにまだ大学での作業が残っていることから、集合場所は学内となった。集合場所は、学部生の時によくお昼を食べていた木陰の下のベンチだ。

 辛気臭い凪沙から話を聞くと、柚月に八つ当たりをしてしまったのだという。
 しかも、向こうは優しさで言ってくれたことだったのに、これは完全に呆れられたかもしれないと、柚月相手に珍しく後悔しているようだった。せっかく、最近仲直りをしたところだというのに、というタイミングもネガティブを誘引しているようだ。

 凪沙は肝心なことほど相談しない。いつでも事後報告だ。
 それでも、このタイミングですずなに相談してきたということは、自分ではどうにもできない状態なのだろう。
 すずなからすると、柚月相手にそんなことで悩む必要はないのにと思うのだけれど、きっとそれを伝えたところで信じるはずもないので言わないでおく。

「それ、そのまま柚月に話したら?」

「え……?」

「だから、今わたしに話した通りに、」

「無理! 無理!!」

 全身で否定する凪沙に、予想の範疇ではあったけれど、それだけで全てが解決することをすずなは知っていた。けれど、それが凪沙にとって一番難しいということも理解していた。
 どうやって宥めようかと思案を始めた矢先、連絡しておいた人物が登場し、すずなは安堵の笑みを浮かべる。

「凪沙の王子が来たから、あとは任せる」

 頭を抱えていた凪沙が、すずなが席を立ったところで顔を上げる。
 すると、隣にいたはずのすずなが帰ろうとすでに足を進めていて、その代わりに柚月が先程まですずなが座っていた場所に腰を下ろそうとしていた。

「えっ…ちょ……すずな!?」

「がんばれ、凪沙」

 すずなは振り返らずに手だけを振ると、無情にも凪沙を残して行ってしまった。
 凪沙は気まずい思いを抱えながらも、大人しくその場に居残った。

 凪沙は再び視線を落としたまま、顔を上げられずにいた。どうしてここに柚月がいるのかもわからない。それに、話さなければいけないこともたくさんあったはずなのに、どう話したらいいのか、これまでどうやって柚月と接していたのか、忘れたかのようだった。

「何かあったんなら、相談くらい乗りますよ?」

 柚月の声が聞こえた。その声はいつもとは違い、何やら不安げな雰囲気を纏っている。凪沙を心配しているようにもとれるし、切り出す言葉がこれで合っているのか懸念しているようにも聞こえる。
 凪沙は柚月から声をかけてもらえたこともそうだけれど、柚月が発した言葉があまりにも予想外で、顔を上げた凪沙は、目を丸くして柚月を見た。
 その顔が可笑しかったのか、眉を下げていた柚月は目尻も下げると、やっと目が合ったと笑った。

「何で……?」

「ん?」

「何で優しくするの?」

 凪沙は手で顔を覆った。やっと顔を上げたのに、再び表情が隠れてしまったことに柚月は少なからず動揺の色を見せる。
 顔を覆い、肩を震わせている凪沙の手をおずおずと触れ、凪沙の顔を覗き込む。泣かせてしまったかと思っていたのだけれど、柚月の予想に反して、凪沙の目には涙は浮かんでいなかった。

「俺、

余計なこと言った?」

「……違うじゃん……」

 非があるのは誰がどう見ても、どう考えても凪沙なのに、むしろ柚月は被害者のようなものなのに。柚月はどこまでも優しさで接してくる。

「西宮何も悪くないのに、八つ当たりしたの私なのに……そんな私に、どうしてそんな、優しくしてくれるの?」

 辿々しく紡がれる言葉に、柚月はなぜか先程とは違う笑みを見せた。

「俺が凪沙に優しくするのは、凪沙のことが好きだからだよ。好きな子には優しくしたいから」

 この解答でご理解いただけますか? と、最後は冗談めかして言っていたけれど、その表情は真剣さを帯びていた。
 凪沙はいよいよ、柚月の本気を受け止めなくてはならなくなった。冗談にしては長期すぎるし、何より以前それを茶化して怒られているので、もうこれ以上この話を流すわけにはいかない。

「私は……西宮とは付き合えない」

「何で? やっぱり、俺のこと嫌い?」

 珍しく柚月の声が弱々しく響く。
 柚月の顔を見ると、困ったような笑みを浮かべていた。その中に悲愴感が含まれていて、凪沙は眉を下げて首を横に振った。

「私、付き合う人とは対等でいたいの。できる限り 50 : 50 がいいの。でも西宮相手だと、その比率が 80 : 20 くらいになる。ううん。もっと西宮の方が割合が大きいかも。そんなの西宮に負担がかかり過ぎる。この前のフィールドワークの時だって助けてもらって、しかもみんなには内緒にしてくれて…。西宮に頼りっきりになっちゃうのは目に見えてる。でもそんなの嫌なの……それが原因で嫌われたくない」

 凪沙は何だかんだ柚月のことを認めているし、何より憧れていた。認められたかった。
 だからこそ、近くで劣等感を感じることも、柚月に見限られることも絶対に避けたかった。


 柚月に本音をぶつけた直後、凪沙はひどく後悔した。随分と面倒くさいことを柚月に行ってしまったような気がした。その証拠に、横からため息が聞こえる。深い深いため息が柚月から漏れる。

「俺は凪沙のこと結構頼ってるし、助けてもらってるけど?」

「いいよ、今そんな優しさ発揮しなくても」

「優しさじゃない。本当のことだよ」

 一体いつ、どんな状況で柚月に頼られたというのか。そんな記憶は凪沙には全くなかった。柚月の夢か妄想なのではないかと、それが現実であると言うなら具体的に教えてほしいものだ。けれど、自分の想像を否定されるのも怖くて聞けずにいた。

「それだけ?」

「え?」

「凪沙が俺と付き合えないっていうのは、それだけが理由?」

「……」

 そう問われるとそれだけなのかもしれないし、他に理由を探そうと思えば出てくれるのかもしれない。探す、という表現を使ってしまっている時点で、それはもう無理しているということなのだけれど……

「他にないなら、もう問題なくない?」

「いや……その……」

「何?」

 その圧に気圧されそうになる。けれど、凪沙はまだ頷く自信を持たなかった。

「ちゃんと考えるから、もう少し保留にしてもらってもいい、かな?」

 無意識に上目遣いに懇願する凪沙に、柚月は本日二度目のため息をつく。

「俺は、これでももう十分待ったんだよ。もう、あんまり待てないからな」

 柚月は強調するように言葉を発した。十分、と言うけれど、凪沙からするとごく最近のことで、それをさもずっと前からみたいな表現する柚月に首を傾げる。その言葉の本意は理解できなかった。
 けれど、もうこれ以上荒立ててはいけないと、大人しく頷いておいた。
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登場人物紹介

*高見 凪沙(たかみ なぎさ)

修士2年(M2)

保全生態研(保生研)所属

負けん気が強く、時々口調が荒くなる

柚月を天敵だと思っている

*西宮 柚月(にしみや ゆづき)

修士2年(M2)

進化生物研(進生研)所属

頭が良く、面倒見もいい

凪沙をいつも揶揄っているが、気持ちを伝えてからは溺愛が過ぎる

*新野 すずな(にいの すずな)

修士2年(M2)

木質構造研(木構研)所属

凪沙の友人

凪沙と柚月とは学部時代からの仲

クールで、凪沙とは性格が真逆

凪沙に対しては少し冷たい一面も

*三上 大輔(みかみ だいすけ)

博士課程1年(D1)

木質構造研(木構研)所属

すずなと研究室が同じ先輩

凪沙とも仲がいい

フランクな性格だが、浮ついた噂が後を立たない

✳︎来栖 愛里紗(くるす ありさ)

修士1年(M1)

保全生態研(保生研)所属

凪沙の直属の後輩

もったりとした喋り方が特徴

可愛いもの好き

でも虫なども平気で触れる

酒豪

✳︎水沢 修平(みずさわ しゅうへい)

修士1年(M1)

進化生物研(進生研)所属

柚月の直属の後輩

凪沙とも仲が良い

穏やかな性格で頭もいい

凪沙と仲がいいことで、柚月から少し羨ましがられている部分もある

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