後編

文字数 1,109文字

悲鳴を上げるまでもなく。彼らは水に流された。夜の大雨。雷。澪は真っ暗な冷たい水に流れていた。岩にぶつかり痛む身体。このまま死ぬと覚悟を決めた彼女は、気を失った。

気がついたのは朝の日差しだった。

眩しくて目覚めた澪は、川のほとりに浮かぶ大木の上に間に挟まっていた。このおかげで自ら浮いていた彼女は、なんとか水辺から這い上がった。
しかし全身を強く打ち、身動きができなかった。

どこが痛いのか分からぬほどの苦しみ。いっそ死んだほうが楽だと思った澪は、そっと目を伏せた。するとどこからか、声が聞こえて来た。

『……生・養・治・気・元……』

……笙明様の声。いや、どこか違う。

生死を彷徨う澪は、自分の額を優しく撫でる手を感じた。温かい優しい手だった。

『案ずるな。死なせはせぬ』

……いいえ。澪はもう、生きていても。足手まといになるだけ。

悲しい思いに涙が出て来た澪。すると必死な声が届いた。

『娘!生きよ。目を開けろ』

この切ない声に澪は目を開けた。白くぼんやり光っていたのは、烏帽子を被った見知らぬ男だった。彼は心配そうに自分の頬を撫でていた。

するとこの場に笛の音が響いていた。澪はこれに失いかけた意識がしっかりして来た。

白い影の男はやがて消えていった。





「ここだよ!ここにいたよ」
「ああ?こんなに血が。澪。しっかりいたせ!」
「篠。龍牙様……笙明様は」
「ここにおるでは無いか。もう安心致せ」

彼らの顔を見た彼女は、嬉し涙を流しそしてその身を委ねた。


◇◇◇

「はあ、はあ」
「兄者。娘は助かったのか」
「ああ、はあ。はあ」

遠き都。天満宮の屋敷。水鏡で澪を見ていた晴臣は疲労がひどく身を崩していた。そんな兄を弦翠は起こしていた。

「なんという汗だ?これは水だ。兄者の方こそ、大丈夫なのか」
「……ああ、だいぶ楽になって来た」

娘を撫でた自分の手を、晴臣は見つめていた。

悪い未来を悟っていた晴臣は、笙明に伝えていたが、それは起きてしまった。

晴臣は都の水鏡で、水に浮かぶ娘を発見していた。しかしこの遠隔動作。彼は疲労困憊していた。

「だがな。命は助かった」
「それは何より。それにしても……」
「何だ」

命がけで笙明の供である娘を助けている兄は、女に興味のない非道な男。この兄の真意を弦翠は計りかねていた。

「なぜにあの娘なのだ。兄者には妻がおるでは無いか」
「別に。この娘を助けただけだ。それの何が悪い」

一睨みをし立ち上がった晴臣に、弦翠は問い正した。

「本当にそれだけだな。兄者」
「ああ。案ずるな」

そう言って弦翠の肩に晴臣は手を置いた。しかしその力の無さに、弦翠は兄の疲労を悟った。

部屋を出ていく兄の後ろ姿。厳格で冷酷な兄。弦翠はそんな兄の真の心に触れたような気がしていた。





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