第40話 2年前、富士山で

文字数 1,852文字



「もうちょっと右かな。あ、そこで。はい、チーズ!」

 2021年7月、富士山の山頂で、僕は名も知らぬ大学生男子の写真を撮っていた。

「ありがとうございます。ほら、まるで俺が手から朝陽を出してるみたいじゃないですか」
「こだわりの逸品ができて良かったねぇ」

 試行錯誤で5回は撮り直して、ようやく彼の納得する写真が撮れたようだ。

 ガイド付きのツアーで前日から吉田ルートを通り、山小屋に泊まり、午前4時30分くらいには山頂へ着いていた。



 9合目あたりのまるで岩を登っていくような所はキツかったが、それ以外はベテランガイドさんがペースを上手くコントロールしてくれたおかげで、対して苦労することなく登頂出来たのである。

 さて、ここからは名も知らぬ大学生のことをダイガクセイと呼ぶことにしよう。僕と同じく独りでツアーに参加していた男の子だ。途中で会話するようになり、山小屋でも仮眠を取るまでずっと喋っていた。でもお互いに名乗ることはなかった。僕は彼のことを「キミ」と呼び、彼は僕のことを「アナタ」と呼び敬語で話した。

 ダイガクセイは宿泊した山小屋を出て歩き始める際、少し頭が痛いと言っていた。ガイドさんが心配して「ここでやめておくか」と()くと、彼は「行ける所まで行かせてください」と返答した。

 僕は山小屋のある8.5合目からずっと、ダイガクセイのすぐ後ろを歩いた。なんだかフラフラしていて、落ちやしないかと気が気でならなかったからだ。
 それでも彼は頑張ってガイドさんのペースについて行き、山頂でご来光を利用して冒頭の写真を撮ることが出来た。

 富士山の吉田ルートは初心者向けであって、やる気と元気さえあれば小学生でも登頂可能だ。登りよりも(くだ)りの(ほう)が断然しんどい。
 下りは、荷物等運搬用ブルドーザーも通る道を滑るようにして歩いて行く。足元を砂利と砂に埋めながら、ザッ、ザッとスピードを殺してなだらかに落ちるように進む、という感じだ。



 かなり前にテレビで、階段を延々と(のぼ)るだけの人と、延々と(くだ)るだけの人に分けた時、下るだけの人の(ほう)が翌日の筋肉痛が酷いという実験を観たことがある。下りでは普段使わない筋肉を使うことになるため、らしい。

 直線を下って行くと、急カーブがあり、また直線を下る、というのをひたすら繰り返して、行きよりもはるかに速いスピードで進んで行く。

 一緒に(くだ)っていたダイガクセイが、カーブで急にへたり込んでしまった。

「大丈夫? ……じゃないな。顔が真っ青だよ」
「……すいません、気持ちが悪くて。ちょっと吐いてきます」

 そう言って、カーブの外側、それ以上行ったら転落するギリギリの所で吐き始めた。僕は高所恐怖症なので、そんな場所にはついて行けず、彼が戻ってくるのを待った。

 かなり吐いてスッキリしたのかダイガクセイは戻ってきたものの、まだその顔は(しら)んだままであった。
 足元がフラついているのを見て、彼の背負っていたバックパックを僕が前掛けで持つことにした。

「でも、アナタの分の荷物もあって、キツくないですか?」
「行きだったら無理だろうけど、もう落ちるだけみたいなもんだし、大丈夫だよ」

 全然大丈夫ではない。足にかかる負担が2倍になったような気分だ。でも、彼を置いてけぼりにするわけにもいかないだろう。ガイドさんは道を間違えて違うルートへ向かってしまったグループを連れ戻しに行ったし。

「ハイ、水だけは自分で持ってて。脱水症状にならないようにね」
「ありがとうございます。じゃあ、行きましょうか」

 結局ダイガクセイはその(あと)も、10分に1回くらいの頻度でくたばって、何度も吐いた。だから下りるのにすごく時間がかかって、最終的には道を間違えたグループを引き連れたガイドさんに追いつかれた。

 ようやく5合目の登山道入り口が見えた時には、言いようのない達成感が押し寄せてきた。そしてその頃には彼の血色は良くなっていた。つまり、彼は高山病にかかっていたのである。

 バスの出発まで一緒に土産物を見たり、馬の写真を撮ったりして過ごした。帰りは一緒に温泉に入ったし、昼食も一緒だった。

 それでも、最後までお互いに名乗ることはなかった。不思議な関係だったなぁ。

 富士山から帰った翌日、僕は圧倒的筋肉痛で歩けなかった。
 そして今も僕の部屋には、登山時に各山小屋で焼印を押してもらった金剛杖が置いてある。

 クラウドストレージの容量が足りなくなってデータを整理してたら、富士登山の写真を見つけて、ふとダイガクセイのことを思い出した。

 それだけです。
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