第56話 混沌の揺りかご 壱

文字数 3,140文字

「キャアアァアァァァァアァァァァッ!! ハッ……アハッ、アハハァッ!!!」

 悲鳴とも哄笑ともつかぬ声を上げるジゼルは、胸から鮮血を噴き上げながら舞うように身体を回す。
 ベルカの抜き放った剣は、細い金属棒に支えられた、漆黒の刃を持っていた。いや、厚みのない完全な二次元のそれは、刀身の形で世界が欠落しているというべきか。
 ベルカは黒衣の少女に構うことなく、駆け抜けざまに下段から剣を跳ね上げ、ラーン=テゴスを薙ぎ払った。

 俺の斬り飛ばされた右腕と、折られた骨剣の刃は見当たらない。ゴウザンゼ同様、不可視の斬撃として開いた門に飲まれ、どことも知れぬ異界へ流されたのか。

 俺は俺の意思を無視して動いた左脚を見た。
 どこまでも直情的で、従者の心づもりなどまるで考えない気紛れな動き。
 脳に直接ねじ込まれるゾスの者の狂気の波動を凌げたのも。
 本当は、雛神様はまだ生きているんじゃないのか?
 どれだけ呼び掛けても応えは返らない。
 俺は死闘の最中にあるのも構わず、雛神様の物でもある右腕を探した。

「何をしている! 巻き込まれるぞ!」

 ベルカは俺の襟首を掴み、ラーン=テゴスから距離を取った。ゴウザンゼの神器が刻んだ太刀傷とも違う。ベルカの振るった太刀筋はそのまま漆黒の門と化し、ラーン=テゴスを飲み込み始めた。殻も身も区別なく内側に折り畳み、どことも知れぬ異界――おそらく、混沌の玉座――へと送り出す。

 だがラーン=テゴスは飲まれる端から再生を繰り返し、この世界に残ろうともがき続ける。そこにはもはや虫の姿ですらない、暗褐色の殻と黒い組織をでたらめに混ぜ合わせた、無限に形を変え続ける奇怪なオブジェが形成された。

「……残念! 少し浅かったみたいだね。まあ……権利のない者が扱った……ペナルティだと思って諦めてよ! ……ふふッ。……アインが使えば……一分三厘ていどの勝算はあったかも?……」

 自ら作った血溜まりの中に倒れ伏したジゼルは、苦しい息の下、からかう様な口調で囁いた。
 一分三厘か。混沌の神使の語る賽の目など真に受ける価値もないが、端から勝利を信じて縋る俺を弄び、あざ笑うためだけにあつらえられた代物だったということだ。俺を救うためとはいえ、まんまとその企てに乗せられたことに気付いたベルカは、顔色を失い唇を噛んでいる。
 
 ラーン=テゴスだったものの足元に広がる黒い体液が、根のような形状に変化している。門に飲み込まれまいと、グロースから神気を吸い上げているものらしい。だとすればこの門は、妖星そのものを混沌の玉座に送り返すまで開いたままだというのか?

 ぎちぎちと異音を立て、飲み込まれながら再生を続けるそれは、次第に大きさを増して行く。ラーン=テゴスはグロースと同一化し神威を得ている。見上げるほどの高さにまで育つと、完全に動きを止めた。


 二つの力が拮抗しているのか。生き残った誰もが息を潜め見守る中、異形の塔は形を変え始めた。再び殻を外部に、組織は内部へと。
 現れたのは、その身を擬足で支える、黒い殻を持つ二枚貝の姿。閉じ切らない門が、薄く開いた殻の合間から伺える。混沌の玉座へと続くその黒々とした闇の中で、何者かがこちらに気付き、意識を向ける気配が伝わった。

「……ザーダ=ホーグラー……」

 笑みを浮かべたままの表情でこと切れたジゼルが残したのは、祈りの言葉か、それの名か。
 闇の中から、先端にポリプ状の付属肢を付けた、節を持つ巨大な円柱状の腕が伸ばされる。幾本もの異形の腕が殻をこじ開けようとする間から、眼窩だけを穿たれた顔が覗いた。

 おぞましい。
 瘴気と共に溢れ出すのは、諦め。悲しみ。妬み。憎しみ。痛み。苦しみ。
 質量を持つ瘴気で形作られたそれの髪が、様々な負の感情をまとって溢れ出す。

 隙間から伸びる髪に触れてしまった騎士の一人が、それだけで狂死した。岩も屍体も区別なく、触れた物全てを瘴気に変え髪は伸び続ける。
 中のものが殻をこじ開け這い出してきたなら、恐らくここで世界が終わる。俺は本能でそう悟った。

「俺が……混沌を呼び覚ましたのか……?」

 ベルカは焦燥し切った表情で呟きを漏らした。
 俺は初めて見る義兄の絶望の表情に虚を突かれ、同時に心のどこかで期待していた己に気付かされた。
 ベルカを越えるべく修練を積んでいた俺が、ベルカに頼ってどうする。何者にも負けない強さを追い求めていたんじゃないのか、俺は?
 この期に及んで雛神様の生に救いを求める甘さと弱さが、騎士として主を守り切れなかった最大の理由だと、今更ながらに思い知らされた。
 開きつつある混沌の門を前に、俺の心は絶望に黒く塗り潰されて行く。

 絶望?
 ふと俺は、胸の奥に燻る熾火を感じ取った。
 今の俺なら、あるいは。

 俺はベルカに、輝くトラペゾヘドロンが産み出した剣を振るい、ザーダ=ホーグラーをグロースから切り離せるかを問うた。
 詮のない自責から呼び戻されたベルカは、素早く視線を走らせ戦況を読み直す。 

「やれる。今度こそやって見せる。だが、あの瘴気をかわしながらは少々厄介だな」

 それは俺が引き受ける。
 決意と共に、俺の左手に炎が灯った。

「クトゥグァの灯芯!? アイン……正気か?」

 一目で外法を見切ったベルカが、驚愕の表情で叫んだ。

 敗北を受け入れ座して死ぬのと、最後まで悪足掻きして見せるのと。お前ならどちらを選ぶ?

 ベルカの返答は聞くまでもなかった。

 クトゥグァの炎でなら瘴気の髪を焼き払うことができる。俺はザーダ=ホーグラーへの道を作りながら走った。
 燃える左手にはツァトゥグァの骨剣。半ばで折れたそれは自ら形を変え、小振りながら刀身を再生している。
 この神器は炎の魔術師アルタイグと戦った際にも、焼け落ちず耐え切って見せた。俺自身が燃え尽きる前に焼失する恐れはない。

 わずかに生き残った怪我人を下がらせ、二人の神聖騎士を率いたベルカが俺に続く。
 巨大な黒い殻の隙間から一本の腕が伸ばされ、ゆっくり地に下ろされようとしている。

 俺はその下へ走り込み、炎をまとう骨剣でそれを受け止めた。通常ならそのまま圧し潰されてしまう質量だが、クトゥグァの炎は腕が下ろされる端から焼き尽くし、炎の柱へと変える。クトゥグァは振るう力に比例して灯芯を焦がすのか、既に俺の左の肩口までが炎に包まれている。
 混沌そのものであるザーダ=ホーグラーは、燃え移った炎に構う様子はない。どうやら痛みも恐怖も感じないらしい。蒸発し、いつまで経っても地面に付けられない腕に代え、もう一本の腕と、二つの穴の穿たれた顔を外に伸ばそうとしている。

 これが外に出てしまえば、そこから世界は裏返り混沌に満たされる。
 直感で理解した。それがゴウザンゼの言っていた世界の瞬きか。

 俺は伸ばされる腕に斬り付け、クトゥグァの炎を燃え移らせながら、炎に包まれた腕を駆け上る。
 そのまま殻から覗かせつつある顔に、炎をまとった骨剣を突き入れた。
 殻に掛けた付属肢が焼け落ち、バランスを失ったザーダ=ボーグラの巨体が傾ぐ。
 もはや俺には痛みも恐怖も存在しない。この身に焼けずに残ったのは、ただ勝利への執念だけ。
 指が焼け、取り落とした骨剣が門の中に消えるのに構わず、燃える身体ごとぶつかりザーダ=ボーグラを殻の中へと押し返す。

 お前が起きるにはまだ早い。もう少し眠っていろ!

 首からもげ落ち、燃え上がるザーダ=ホーグラーの頭部と共に、炎に包まれた俺は混沌の中心へと落ちて行った。
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