Op.1-37 – Other View (1st movement)

文字数 1,171文字

「お父さんすぐ戻るって言っとったのに来とらん!」

 光は母である舞に固く手を握られながら私と母と一緒に会場のロビーへと連れ戻された。

 戻ってきてからというもの光は泣きじゃくり、お父さんが聴きに来ないのならばピアノは弾きたくないと舞さんの言葉に耳を全く貸さない状態となった。

––––こうなってはもう言うことを聞かない。

 幼馴染みの私はよく知っていた。

 光は少し変わり者ではあるが、普段はとても優しくて可愛い女の子だった。また、とても賢い子でもあったから、内心では光のお父さんがその場から離れなければならなくなったことは仕方のないことだと分かっていたはずだ。

 光の父である和真は脳神経内科医として大学病院で働き、普段は病院で忙しくしている。当時も月最終週以外の土曜日は鹿嶋総合病院で外来診療担当医として勤務していた。
 大抵、折本の生徒による発表会は土曜日に開催されて光の父は見に行くことがなかなかできなかったのだが、その年はたまたま月末だったこともあり、光の発表会を見る予定だった。

 そしてこのことを嬉しそうに私に話していた光はいつも以上に張り切っており、毎日一生懸命に練習し、集中を切らさず予定曲であるショパンの『18番 ホ長調 Op.62–2』をミスなく弾ききることを目標に取り組んでいた。

 また、初めての即興演奏者にも選ばれ、しかもそれを父親に見てもらえることから一層気合いが入っており、「どんなモチーフが来てもお父さんをテーマにして弾く!」と私は何度もその即興に付き合わされていた。

 当時、私はまだベースを習い始めておらず、音楽のことはよく分かっていなかった。しかし、光のピアノがいつも以上にキラキラしていて私はより惹きつけられ、じっと彼女が弾くピアノを聴いてはそれに浸っていた。

 光が楽しいなら私も楽しい。光が嬉しいなら私も嬉しい。

 発表会までの毎日の練習、私は楽しそうにピアノを練習する光を眺めながら時には先生のように振る舞い、時には観客のように振る舞ってその音楽を楽しんだ。

 光の順番が回ってくる少し前、光の父に入った病院からの連絡。その内容は大学病院で入院している担当患者が体調不良を訴えたというもの。光の父は「すぐに戻ってくる」と言って福岡県民交流センターを後にした。

 誰もが予想しない展開で誰を責めることもできない。

 そんなことは小学校5年生の光だって心の底では理解していたはずだ。しかし、まだまだ純粋で、また、予想だにしない出来事に動揺してしまった光は「すぐに戻ってくる」という父の言葉を信じ、希望を持ってしまった。

 自分の順番近くになっても父親が戻ってこない焦りと行き場のない怒りが光の中で爆発し、「トイレに行く」と嘘をついて小ホールを抜け出し、交流センターの中にある図書館エリアへと直行、PCルームへと逃げ込んだのだった。
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