Op.1-42 – HR

文字数 2,667文字

「ホッカイロあげる」

 沙耶がぼんやりとしていたのを寒さからくる眠気だと勘違いした光は沙耶にホッカイロを手渡す。沙耶も「ありがとう」と言って否定せずにそのホッカイロを笑顔で受け取った。

 昔に自分が出したモチーフが即興されたこと、そしてその演奏に感動して憧れていると直接光に伝えることの気恥ずかしさが勝ったために沙耶は何も言わなかった。

 そしてもう1つ。

 普通、頭がぼんやりしている人にホッカイロを渡すのだろうか? 逆に眠気を助長してしまいそうだと普通ならば考えるだろうが、その少しのズレがまた面白く、少し可愛いと思ってしまう。
 それでも光の優しさに触れた沙耶は嬉しそうに反応し、信じられないような音の物語を生み出す光の手で握られたホッカイロの温もりを大事そうに握りしめるのだ。

 8時半を回って朝読書が開始された。

 それまでの騒がしかった空気が徐々に失われていき、外の冷気と重なって教室全体が冷めていく。
 朝読書と聞くと学生たちはそのやる意味を見出せなずに騒がしさが残るものだが、そこは流石は進学校と言ったところなのか、直ぐに静寂がもたらされ、落ち着いた時間が学年全体を包み込んでいく。

 勿論、中野や西野といったクラスの中でもお調子者に分類される生徒たちのように居眠りをする者はいるが、クラスを始め、学年全体の静けさを邪魔するような行動を起こすことは決してない。
 結果として教師に小突かれたり、注意されたりしているその様子は周りの生徒から笑われたり、迷惑がられたりしてその沈黙を破ることに繋がり、クラスの雰囲気を壊していることに変わりないのだが。

 あっという間に10分は過ぎ、朝のHRへと移る。25R担任の宇都菜穂子は教卓に立ち、生徒たちの注目を集める。
 彼女は4年前に新任の教師として母校である鶴見高校に着任し、副担任を経験して今年度から初めて担任として勤めることとなった。ちなみに彼女は去年、光と明里がいた13Rの副担任として働いていた。

「はい、今朝、そこの踊り場で怒られとった人がいまーす」

 宇都の言葉に数人の生徒は笑いを堪える。数人の男子生徒が「中野くんでーす」と騒いでいる。
 今年、29歳とまだまだ若い宇都は高校生たちと比較的近い目線で話すことができて信頼も厚い。また、ユーモアあるジョークも交えながら生徒たちの心を掴むため、接しやすい先生として人気がある。

「はい、正解。康太、何で怒られよったん?」
「知っとるくせに〜」

 宇都は受け持ったクラスの生徒たちのことを名前で呼ぶ。勿論、馴れ馴れしくて嫌だという生徒に対しては名字で呼ぶようにしているが、基本的には名前で呼んで生徒たちとの距離を近くし、話しやい関係を構築するように心掛けている。(勿論、その中でも礼儀に関しては生徒たちが正しく振る舞うように注意している)

 中野の一言で少しだけ笑いが起こった後に宇都は「それで?」ともう1度尋ね、中野は「学年章を着け忘れとりました」とその理由を簡潔に伝える。

「そう、皆んな、学年章と校章を必ず制服に着けるようにするんよ〜。クリーニングとかに出して外すことがあるんは分かるけどちゃんと着け直しーね? 普段は外さずにずっと着けとけば良いっちゃけん」

 宇都の言葉を聞いて数名の生徒たちは自分の制服を見て忘れていないかを確認する。沙耶と明里も自分の胸辺りを見て念のために確認した。一方で光は微動だにせず、宇都に視線を送って話を聞いているというアピールをしつつ時折、校庭の方を眺めていた。

 光のその様子には宇都も気付いている。というより、光は周りから目を引きやすい。美人なのは勿論、彼女のその不思議な魅力にはどうしても抗えない。そしてその人の目を引く魅力は教室内でも効力を発揮している。
 
 担任 (または副担任) として普段から毎日同じクラスと関わってくると生徒同士の視線や行動というものに敏感になる。
 
 簡単な例で言えば、学級副委員長の明里は常に光のことを気にしており、それは幼馴染みとしてだけでは無いと宇都は確信している。また、現在、光の後方に座する沙耶も光に惹かれていることは普段の行動から見て取れる。

 クラス内カーストと呼ばれるものはどこにでも存在する。宇都の学生時代にもそれはあり、上位に位置する者はクラスの中心でムードメーカー的な役割を担うことが多い。
 しかし、そのクラス内カーストというものに属さず、マイペースに生活していく者が一定数存在する。それが光であることは一目瞭然である。彼女は群れることをせず、自分の周りに来て話しかけてきた子には対応し、そうでなければ自分から動くことはない。

 学生時代、クラス内で嫌われないように常に人に気を遣って行動してきた宇都にとって、光の周りに流されないその姿勢がとても羨ましい。
 未だに学生の頃の癖が抜けないのか、「生徒に嫌われないように」などと考えてしまう自分が恥ずかしくなってしまう。

 そんなことを考えながら宇都は今朝のHRを進めていく。

「……はい、こんなもんかな。1限目の数学、板書になっとる人は早めに書いとくんよ」

 宇都は数学教師で勿論、25Rの担当をしており、この後5分後に開始される1限目にその授業が行われる。
 基本的に鶴見高校では生徒たちに予習を課しており、その教科の連絡員が座席順に指名して予習箇所の板書を生徒たちにさせている。
 授業が始まれば教師が1つ1つチェックし、場合によっては板書した生徒に発表させながら解答していく。

 これによって積極性や常に問題に取り組む姿勢を育むという狙いが高校側にはあるようだ。

「あ、あと文化祭の団体参加希望の子たちは申請書今日までやけん、忘れんようにね」

 宇都はそう告げると当直に指示し、その号令によってHRが終了する。

「先生」

 宇都が教室から出て歩き始めたところで後ろから呼び止められる。声の主は光。光は右手にプリントを持っており、どうやらそれを渡しに来たようだ。堂々としたその立ち振る舞いは自信に満ち溢れており、宇都は一瞬気圧される。

「これ、申請書です」

 宇都はそれを受け取ると軽く目を通した後に記入に問題ないことを確認し、「OK」と告げてそのまま職員室へと向かった。
 
 換気と称して窓を全開にされた廊下には冷たい風が吹き荒れ、それは動くこと自体が億劫(おっくう)になるほどであるが、恐らくはホッカイロを握っていたであろう光の手の温度がその申請書を通して宇都にも感じられ、その熱気と若さが宇都へと伝染し、原動力となっているかのように彼女の足取りを軽くした。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み