Op.1-22 – Entrance

文字数 3,485文字

「花ちゃん、何か演奏してくれる? この子に聴かせたくて」
「はい、もちろん」

 瀧野は折本の問いかけに即答し、鍵盤に手をかける。瀧野が何の曲を披露しようか考えていると後ろで折本と光の会話が聞こえてくる。

「ほら、光ちゃん、お姉さんがピアノ弾いてくれるよ? アメリカで長く活躍するくらい凄いのよ。聴いたら光ちゃんもピアノ弾きたい気分になるよ」
「アメリカ……」

 光は「アメリカ」という言葉に反応し、小さい声で復唱した。会話を聞いていた瀧野はピアノから目を離し、2人の方を向く。

「光ちゃん、アメリカ好きなの?」

 突然話しかけられたことに驚いたのか、光は固まってしまう。隣で折本がフォローに入る。

「光ちゃん、ちょっと前に山内穂乃果さんが演奏してるとこ見てアメリカ行ってみたくなったんだもんね? 山内さんはアメリカに住んでるから」
「うん」

 光は小さい声ではあるが芯のある調子で肯定する。

「穂乃果さんのピアノ好きなの? お姉さん、穂乃果さんとお友達だよ」

 瀧野はLAでの学生生活で初めて山内穂乃果のライブを目の当たりにし、その圧倒的なパフォーマンスに度肝を抜かれた。彼女が起用しているドラマー、レイモンド・ジャクソンはLMIで教鞭を執っており、瀧野は彼のアンサンブルクラスを受講していた繋がりで山内を紹介してもらい、彼女と知り合った。

 卒業後も何度か一緒に食事する機会に恵まれ、LAに山内が来る際には必ず連絡を入れてくれるような仲となった。山内は6つ歳下の瀧野に対しても気さくで、また、1人の音楽人としてリスペクトを持って接してくれる。そんな山内の姿勢に瀧野は尊敬の念を抱いている。

 瀧野の言葉を聞いて先ほどまで機嫌が良くなさそうだった光の顔がみるみる明るくなっていく。その変化は光がどれだけ山内のファンであるかを如実に示しており、瀧野は何だか自分のことのように嬉しくなる。

 折本曰く、今日 (木曜日) の最後の授業が体育で走らされたことに疲れた光はご機嫌斜めだったらしい。ピアノを弾く気分でなく「帰りたい」と半ベソかいているのをレッスンが始まって瀧野が来るまでの20分の間、折本が説得していたらしい。

「(あぁ、それで)」

 瀧野と折本は元々、17時半に会う約束をしていた。しかし、17時前に折本から「今から来れる?」というメッセージを受け取り、慌てて教室へやって来たのだ。
 しかし、受付の女性との会話でレッスンはまだ続いているということが分かったので瀧野は少し不思議に思っていた。

「レッスンに来てくれるだけマシよ。光ちゃんのお母さんが無理やりでも連れてくるから。花ちゃんなんて来なかったもんね」

 折本に不意に小学生の頃の自分のワガママぶりを暴露され、瀧野は焦る。光の方をチラッと見るとそのことに光は興味が無さそうで瀧野とピアノを交互に見て明らかに「早くピアノを弾いてくれ!」と望んでいるようだった。

 その様子を見て瀧野はクスクスと笑いながら椅子に座り直し、鍵盤に指を置いた。

 瀧野が選んだ曲は山内穂乃果のデビューアルバムのタイトル曲であり、代表曲である『Entrance』。
 この曲は4拍子と3拍子を織り交ぜながらテーマが構成され、インプロ部分からは18/16拍子の複合拍子に突然切り替わる。インプロの大部分は山内の左手とハリーのベースは複雑なリフをユニゾンし、その上に山内の右手が自由自在に演奏する。更にレイモンドのドラムが様々なトリックで絡んでくる。
 山内は18/16という複雑な拍子であっても彼女はこの拍子が2でも3でも割り切れる特性を利用して右手を15拍子にしたり、12拍子にしたりして難解なポリリズムを使う。

 山内の華奢な身体から奏でられるエネルギッシュな演奏に彼女の圧倒的タイム感の上で成り立つ超絶技巧に当時、世界は驚愕した。その後も彼女はその圧倒的な音楽で観衆を熱狂させ、自身の地位を確立した。

––––瀧野が演奏を開始する

 この曲はいきなり技巧的に始まる。左手をC2から上行、右手をC7から下行して鍵盤を幅広く使う。両手が鍵盤中央まで来たらもう一度開始位置へと戻って同じフレーズへ。これを3回繰り返した後に鍵盤中央からブロックコードで左手は下行、右手は上行する。
 最初のフレーズをまた3回繰り返した後は少し滑らかな動きと共に両手は動き出し、強烈な音圧で和音を押さえつけてキメを見せる。

––––刹那の静寂

 この休止は拍はたったの3拍。しかもエントランスの速いテンポを考えれば時間にして2秒ない。しかし、テーマに圧倒された聴き手はこの休止を永遠に感じる。

「(ハハ、可愛い)」

 瀧野はこの短い休符の間に隣のピアノに移動してきた光の顔を見て微笑む。

 光は瀧野の演奏が始まってエントランスであることに気付くと、すぐに折本の側を離れて右隣にあるもう1台のピアノの椅子に座って身を乗り出し、瀧野の両手を食い入るように見つめていた。自分の好きな曲が始まったことに歓喜し、その表情は輝いている。

––––再び時が動き出す

 両手のコンビネーションで複雑なリフが繰り出される。右手は高速アルペジオ、左手もアルペジオしつつも最低音がしっかりと浮かび上がりそれがモチーフとなる。
 Fマイナーコードの音だけで動いていた音が徐々に移動していき、コードに変化が生じる。これによってそれまでの1コードの一辺倒さが壊され、ハーモニーが加わっていく。

 高音に上がりきったところでリフが止まり、鍵盤中央から両手ともにオクターヴを使いながら左手は低音域へ下行、右手は高音域上行し、キメに入る。

––––インプロヴィゼーションが開始される。

 左手をいっぱいに広げながらのリフが始まり、それを数回繰り返した後に瀧野の右手が即興を始める。
 左手を大きく広げながらの高速リフを正確なテンポでキープするのは至難の技でピアニストの腕の持久力と脳の集中力が試される。また、そのリフを続けながら右手でアドリブを取るのは非常に困難。瀧野もこれができるようになるのにかなりの時間を要した。

 瀧野は正確に18/16拍子を取りつつ右手でソロを取っていく。流石の彼女も作曲者である山内のように自由自在にポリリズムを駆使しながらの演奏は難しく、常に頭でカウントしながら演奏する。
 
 基本的に瀧野のピアノは優しく、滑らかに奏でる。それでも速弾きといった超絶技巧やその場で即興的に使う和音の美しさは山内にも引けを取らない。

 ふと隣に視線を移すと光は瀧野の指を見ずに自分のピアノの鍵盤の上に指を置いて音を鳴らさずに動かしている。

「(弾きたいのかな? 難しい曲だけど)」

 そう思った瀧野が光に向かって「弾く?」と尋ねる。光は見向きもせずに黙って頷く。「OK、おいで」と瀧野も笑顔で応じる。

「(左手はキープしといてあげるか)」

 手を大きく使う左手のリフは幼い光 (当時小学5年生) には無理と判断し、左手だけを残し、光の演奏を待つ。

「!」

 隣の光を見た瞬間、その姿が山内穂乃果と重なる。

 目を閉じて両手を膝の上に置き、顔を下に向けたまま動きを止めるその姿勢は山内が演奏前に必ず行うルーティーン。
 話を聞く限り、目の前の少女は山内穂乃果の熱烈なファン。小学生であることからも山内の動きを真似ることは何ら不思議なことではない。

「(明らかに違う……!)」

 しかし、その姿を見た瀧野のミュージシャンとしての本能が、精神が、目の前の少女はそれとは明らかに異質であることを告げていた。

––––9歳の小さな指が鍵盤に降り立つ


<用語解説>
・単純拍子:シンプルな拍子。2拍子、3拍子、4拍子の3種類が存在。

・複合拍子:単純拍子を複数個組み合わせた拍子で、その多くは8分の3拍子をベースとするものが中心。厳密には単純拍子の2拍子・3拍子・4拍子の各拍が3分割された拍子のこと。また、3拍子・4拍子の各拍が6分割された18拍子・24拍子も複合拍子である。

・変拍子:上記の拍子を足して組み合わせた拍子のことで、混合拍子や特殊拍子と呼ばれることもある。変拍子には5拍子・7拍子・8拍子・9拍子・11拍子があり、それぞれ様々な組み合わせで成り立っている。

※ただし、ミュージシャン間では単純拍子以外のものを変拍子として扱い (ただし、6/8拍子は変拍子として扱わない)、会話することがほとんどである。

・ポリリズム:リズムの異なる声部が同時に奏されること。拍の一致しないリズムが同時に演奏されることにより、独特のリズム感が生まれる。アクセントや拍子がずれているときはポリメトリックとも言う。


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