Op.1-9 – F Blues

文字数 3,655文字

––––チンッ

 13階に到着したエレベーターの扉が開く。

 明里はコントラバスを入れたソフトケースのネック部分を自分の肩にかけて底の部分を前に押し出す体勢になる。底の部分にはコントラバス専用のキャスターである『ベースバギー』が取り付けられており、その車輪で持ち運びが簡単になるようにされている。ソフトケースもベースバギーも昼頃に来た祖父が置いていってくれたようだ。
 
 聞けば、長年ジャズバーを経営していた祖父の古くからの友人が先月に店を畳んだ際、貸出し用に置いておいたコントラバスの処分に困っていたという事情もあってベースを習っているという明里に譲ってくれたらしい。

「あら? お出迎え?」

 エレベーターの外で立っていたのは、赤いタートルネックニットとベージュのデニムに身を包んだ光。寒いのか襟で口元を覆っている。

「うん。アコベ大っきいから大変だと思って」

 光はそう言うと右手で開閉ボタンを押しながらエレベーターを開扉(かいひ)した状態にし、左手でベースの底の部分を支えて明里を手伝う。明里は「ありがとう」と言いながらベースを押してゆっくりと滑らせてエレベーターから降りる。

「あ、エレベ持って来とらんけん」
「良いよ。今日の主役はそっちやろ?」

 光は顎で軽くコントラバスの方を指しながら告げる。

「それにもう6時やけん、あんまり音出せんし」
「あー、そうやね。お祖父ちゃんたちと話よったら長くなった、ごめんごめん」
「良いよ。別に今日だけやないしね」

 月曜日は6限授業で15時半に終了する。部活に入っていない2人はその後のHRなどで下校時刻は大体16時過ぎくらいになるが、今日は放課後の文化祭に関する話し合いやその後のグダグダした時間もあったために帰宅した時間は17時を過ぎていた。

「明里ちゃんいらっしゃい」

 1307号室の扉を開けると既に玄関で待っていた光の母・舞が2人を出迎える。

「おばさん、やっほー」

 明里はベースを一旦、壁に立てかけながら舞に親しげに挨拶する。

「あら、大っきいね。持ち運ぶの大変だったでしょ?」

 間近でコントラバスを見た舞はその大きさに目を丸くしながら明里に話しかける。

「まぁ、下から上がってくるだけやったけん。もっと長い距離やと大変かも」

 そう言うと明里は靴を脱いで段差を上がり、ベースケースに付いている左右のストラップを両肩にかけてリュックサックのように背負い、少し屈む体勢になって天井などにぶつからないように注意を払う。

「ちょっ、重くない?」

 舞は少し慌てた様子でベースケースに手を添えながら明里に心配そうに声をかける。

「うん。引きずって床、傷つけちゃうと良くないし」

 その言葉を聞いて舞はわざとらしく光の方を振り向いて話しかける。

「あら、どっかの誰かさんと違って気遣い屋さんだね〜」
「私、ベース運ぶことないし」
「いや、そういうことじゃなくて」
「え?」

 どこか噛み合っていない親子の会話を無視して明里はそのまま直進し、アップライトピアノの置かれている練習部屋へと向かう。

「後でココアでも持って行くね」
「お構いなく〜」

 明里はそう言ってベースを肩から下ろし、「私、ベース弾かないけどな〜」とぶつくさ呟いている光を横目にケースのチャックを下ろしてコントラバスを取り出す。

「おぉ〜」

 光はケースから取り出されたコントラバスを見て思わず感嘆の声を上げる。

「これで家でも練習できるね。レッスンでは借りるっちゃろ? 言うても運ぶの大変やし」

 明里がコントラバスのボディを嬉しそうに撫でている様子を見ながら光が続ける。

「うん。まぁレッスンではそうなるんかな? 分からん。なるべく自分のでやりたいけどね」

 2人が通うハヤマ中井センターは『どりーむ鈴』から徒歩15分ほどの所にある。キャスターで動かし易くなったとはいえ、163cmほどの女子高校生が運ぶのに苦労を強いられるのは想像に難くない。ましてや明里の母・祐美は車の免許を持っていない。

 舞が練習部屋に入って一番奥に設置してある小さな机にココアを置き、「楽器とかカーペットにこぼさんようにね」と2人に告げてすぐに出ていく。

 明里はココアを「あっつ」と言いながら一口飲んだ後にコントラバスの横に直立、ネック部分を左手で持って構える。その後、右手で最も太い弦であるE弦を弾いて音を鳴らす。

「思ったより大丈夫そうやね」
「お祖父ちゃんの知り合いの人のやったんだっけ?」
「うん。ジャズバー経営しとった時に貸出し用に置いとったやつだって。メンテナンスとか色々終わらせてくれとったみたいやけど結構古いもんみたいで」

 明里はそう言うと適当に4ビートのウォーキングベースを奏でる。明里は初め、人差し指と中指を同時に使ってピッキングする2フィンガー奏法で演奏する。その後、途中から2本を交互に弾くオルタネイトピッキングで速いフレーズを弾き始め、適当なところで止めた。

「少し手かじかんどる」

 明里はそう呟くと、ベースを左肩で器用に支えながら右手を振って少しきつそうな表情を浮かべる。

「まぁ寒いし、しょうがないよね」

 光はそう呟きながらアップライトピアノの蓋を開き、赤い鍵盤カバーを取り外して畳み、ピアノの上に置く。
 明里は光の様子を見てFのジャズブルースコードの進行でベースラインを刻み始める。光は1回し半ほどそのラインを聴いた後にバッキングを始め、12小節目の『 G–7 – C7』の『ツーファイブ進行』を終えた後に1小節目から即興でメロディーを紡ぎ始める。

 これまで2人は何度か遊びで一緒に演奏したことはあったもののコントラバスでの演奏は初めて。いつもなら速いフレーズを弾く光も寒くて指が本調子じゃないのか、コントラバスの重厚感に影響されたのか定かではないものの、音数を抑えて演奏し始める。

「(今日はお淑やかスタートやね)」

 明里はアップライトピアノに向かって鍵盤を押し込む光の背中を見ながら微かに笑う。
 光は初めの2小節ではFの音のみで構成。1小節目に8分休符を入れて裏拍スタートにしてリズムに簡単な味付けを施す。
 続く3小節目のF7ではC音を装飾音符にしてノンコードトーンのD音へ。それを経過音に、再びC音に帰って4小節目ではF音を全音符でサステインさせる。
 4小節目はC–7とF7。初めのF音はC–7に11度のテンション感を与えた後にF7のルート音に切り替わる。これによって4拍の間に緊張と安定をもたらす。
 
 光は音数を抑えたままメロディーを即興で奏で、12小節の一回りを終えて1小節目へ戻る。

「(動く……!)」

 明里は12小節目のツーファイブで、光の左手の和音の音量が若干上がったのを感じ取り、2周目では光の指が動き始めることを予想した。

「……!」
 
 しかし、明里の予想とは裏腹に光の右手は8分音符の羅列程度でいつもの超絶技巧は始まらない。
 一方でそれまで全音符ないし2分音符で奏でていた左手にアーティキュレーションを加え、また、ヴォイシングを変えながらリズムと響きに変化を加えていく。

「ヒューッ……!」

 光が技巧ではなく音の微妙な違いのみで世界を変化させたことに明里は思わず声を上げる。
 光は最後の2小節に差し掛かる手前で首だけを明里の方へと向けて合図を送り、直ぐに鍵盤の方へと向き直る。

 2人はそのまま3周目へと突入した。


<用語解説>
・ウォーキングベース : ジャズの4ビート形式のものに多く使われ、スウィング感を生み出す基となる。この際スケールをたどる順次進行的なベース・ラインが多い。

・オルタネイトピッキング : ベースの奏法の1つ。人差し指と中指を交互に使って演奏する。

・ブルース : 米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽の1ジャンルである。19世紀後半ごろに米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー (農作業の際の叫び声)や、ワーク・ソング(労働歌)などから発展したものといわれている。12小節で構成されてコード進行が決められている。ジャズブルースはよりジャズの響きを加えたコード進行となっている。

・ノンコードトーン : 和音 (コード) に乗っていないメロディーラインの装飾音のこと。

・経過音 : 和音の構成音から階段上に同じ方向の次の音に進み、さらに同じ方向に進んで再び和音の構成音になる音を経過音と呼ぶ。

・ツーファイブ進行 : 「自然な響きの変化」と「結びつきの強い音の流れ」をあわせ持つコード進行でⅡ–Ⅴという流れを指し、Ⅰに繋がる。例えばF keyにおいてはGm7–B♭7と続き自然な流れでFコードに繋がる。

・アーティキュレーション : 音楽の演奏技法において、音の形を整え、音と音のつながりに様々な強弱や表情をつけることで旋律などを区分すること。強弱法、スラー、スタッカート、レガートなどの記号やそれによる表現のことを指すこともある。

・ヴォイシング : 楽器法および、和音に含まれるそれぞれの音の垂直的な間隔と並び順を決めることである。



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