Introduction
文字数 3,093文字
「これが同じピアノなの……?」
7歳になったばかりの幼い少女が食い入るようにテレビの画面を見ている。
テレビ画面の中では既に全てのセットリストを終えたピアニスト、ベーシスト、ドラマーの姿はなく、ただ楽器と様々な機材の置かれたステージが映っているだけである。しかしながら観客はその演者のいないステージに向けて総立ちで割れんばかりの拍手を送り続けている。丁度チャンネルを切り替えてこの様子を見た視聴者はこのバンドが凄まじい演奏を披露したことを容易に感じ取ることが出来るだろう。
手を弾 く音1つ1つが熱を帯び、3200人の収容人数を誇る「東京・インターナショナル・ホール」を包み込む。それはまるでたった今紡ぎ出されたハーモニーを、そしてその熱さを少しも逃がすまいと意思を持っているかの如く––––。
しばらくするとその拍手は一定のリズムを刻み始め、バンドの再登場を会場全体が促す。3人の圧倒的なリズム感が観客に乗り移ったのだろうか、はたまたその醒めぬ興奮によって魔法にかけられたのか、正確なパルスで拍手が刻まれる。
「来る!」
リビングのテレビを占領する少女が呟く。
下手 側から赤いノースリーブのドレスに身を包んだ華奢な色白の女性が弾けんばかりの笑顔を浮かべながらステージ中央へと向かう。ステージ中央に辿り着いたその女性は深々と頭を下げる。
再び鼓膜が割れんばかりの拍手が響き渡る。
「ありがとうございます!」
女性は少しハニカミながら、しかし、力強く言葉を発する。159cmと決して高身長ではないもののその立ち姿は堂々としており、より大きく見える。
「オン・ベース、ハリー・ウォルトン!!」
女性がコールすると同じく下手側から帽子を被った背の高い細身の白人男性が現れる。
ネイビー色のテーラードジャケットを着用し、その胸元からは白地のシンプルなTシャツにプリントされた英文が僅かに覗く。黒いジーンズのバックポケットに左手を突っ込み、右手を観客席に向けて挙げ、歓声に応えながらウィンクをする。
ハリーは歩 を止めることなく女性の後ろ側を回り込み、スタンドに立ててある6弦ベースを手に取った。その後、ヘッド部分にあるペグを弄りながらベースアンプに耳を澄ましてチューニングを始める。
「オン・ドラムス、レイモンド・ジャクソン!!」
今度は下手 側から坊主頭で筋肉質な白人男性が現れる。
着ているグレーのTシャツは演奏された曲目の激しさを示すかのように汗で変色し、レイモンドはTシャツをパタパタとはたつかせながら歩く。笑みをこぼしながら軽く会釈をした後、ドラムセットの前に座ると置いてあったスティックを持って感触を確かめる。
「ピアノは私、山内 穂乃果 です!」
観客の拍手と歓声はより一層大きくなる。
「へへへ、自分で自分の名前をコールしちゃった」
ピアニストの山内はお茶目に笑い、その様子に観客席から笑いが起こる。会場が静まるのを待ってから彼女は再び話し始める。
「今日はこんなに沢山のお客さん、ありがとうございます! こうやって日本に帰って来れたこと、そして"ホノカ・ヤマウチ・トリオ"で演奏出来たこと、とても幸せに感じてます!」
またしても会場を盛大な拍手が包み込む。ところどころ観客席から「良いぞ!」「お帰りー!」と言った掛け声が耳に入る。
「楽しい時間はあっという間ですね。アンコールは私のデビューアルバムからタイトル曲、"Entrance "をお贈りしたいと思います。今日は本当にありがとうございました!」
大きな拍手が鳴り響く中、山内はマイクを置いてピアノへと向かう。
彼女はピアノの前に座ると両手を膝の上に置き、顔を下に向けたまま動きを止める。
––––会場が一気に静まり返る。
山内のファンであればこの姿勢が演奏前に必ず行うルーティーンであることを理解している。
観客の視線全てが山内に注がれる。ほんの数秒前まで騒 ついていた空間が嘘のように緊張感に包まれ、彼女が動き始めるのをひたすら待ち続けた。
––––スゥーッ
山内は深く息を吸い、顔を上げると目を閉じて上を見上げたまま両手が静かにピアノの高音部分に着地する。
そこから紡がれ始めた音はまるで印象派の画家が描いた湖面のように静かに美しく、そして繊細に響き渡る。
右手から僅かな16分音符の塊が奏でられ、それに左手がアルペジオで呼応する。
少しでも音の選択を間違えれば一気に瓦解する。そんな不安を余所に山内は一音一音に感情を込めて、しかし丁寧に音を繋ぐ。
––––その時、一石が湖面に投じられる。
レイモンドがライドシンバルを静かにゆっくりと叩き始めたのだ。その甲高い音は山内の奏でる音に徐々に溶け込んでいく。
微かに重い低音が響き始める。
ハリーのベース音が山内とレイモンドの音に輪郭を与え、融合した音に生命 を吹き込む。
山内の創り出した静かな湖面にレイモンドが一石を投じることで波紋を広げ、それをハリーが規則正しく整える。
1つの風景画が完成する。
一瞬の間。
振り上げられた山内の左手がこれまでとは打って変わって重低音に着地し、同時にレイモンドがクラッシュシンバルを叩く。
山内の左手は8分音符と8分休符を織り交ぜ、右手はその僅かに生じた隙間に和音を正確に放つ。両手のコンビネーションで創造されたリフに対してハリーはユニゾンで続く。
レイモンドはハイハットで細かくリズムを刻みながらスネアのリムショットで抜けの良い、乾いた音でアクセントをつける。
––––物語が動き出す。
山内は時折、唸りながらメロディーを奏でる。それを見てハリーとレイモンドは笑みを浮かべながら合わせていく。
インタープレイ
ジャズにおいてはお互いの音を聴いて、お互いに作用し合うことを示す。即興演奏 に入るとそれはより一層色濃くなる。
まるでお喋り好きの子供が両親にドライブの行く先を無邪気に尋ねているかのようにレイモンドはクローズ・ハイハットとオープン・ハイハットのコンビネーションを連続させる。ハリーはそれを優しくあやすかのように少ない音数で均衡を保つ。
––––"今日はこっちに行こうか"
均衡を破った山内のブロック・コードに一瞬ハリーが反応し、大きく笑う。それはコード進行にはない、山内がその場で即興的に行ったリハーモナイズ。そこから彼女はドロップ2、ドロップ3、ドロップ2&4を駆使したオープンヴォイシングを使いながら道を切り拓く。
3人の物語はまるで楽器を通して会話をしているかのように続く。
山内の超絶技巧から繰り出される細かいパッセージも一音一音がハッキリと粒立っており、不思議と聴衆の五感に残り続ける。
ハリーは3フィンガーで複雑に絡み始め、ルート音をしっかりと押さえつつも独自の世界観を織りなす。そこへレイモンドが正確なリズムを刻みつつ、2人のラインに絶妙なタイミングでフィルを入れ込む。
––––3人の世界が1つになる
それが会場全体を一瞬にして飲み込み、世界が広がる。
#####
「私、あんな風になりたい」
演奏を終えて3人が肩を組みながら観客へ向けて深々と頭を下げる様子を見ながら少女は言った。
「それならもっと練習しなきゃね」
少女の母親はエンドロールが流れる画面を見ながらその少女に答える。少女はこくっと静かに頷くと真左にあるアップライトピアノに視線を送る。
––––これは結城 光 の両手から編み出される音の物語。
その音はただの模倣か、それとも新たな世界か。
伝説に魅せられた彼女の物語が今、開幕する。
7歳になったばかりの幼い少女が食い入るようにテレビの画面を見ている。
テレビ画面の中では既に全てのセットリストを終えたピアニスト、ベーシスト、ドラマーの姿はなく、ただ楽器と様々な機材の置かれたステージが映っているだけである。しかしながら観客はその演者のいないステージに向けて総立ちで割れんばかりの拍手を送り続けている。丁度チャンネルを切り替えてこの様子を見た視聴者はこのバンドが凄まじい演奏を披露したことを容易に感じ取ることが出来るだろう。
手を
しばらくするとその拍手は一定のリズムを刻み始め、バンドの再登場を会場全体が促す。3人の圧倒的なリズム感が観客に乗り移ったのだろうか、はたまたその醒めぬ興奮によって魔法にかけられたのか、正確なパルスで拍手が刻まれる。
「来る!」
リビングのテレビを占領する少女が呟く。
再び鼓膜が割れんばかりの拍手が響き渡る。
「ありがとうございます!」
女性は少しハニカミながら、しかし、力強く言葉を発する。159cmと決して高身長ではないもののその立ち姿は堂々としており、より大きく見える。
「オン・ベース、ハリー・ウォルトン!!」
女性がコールすると同じく下手側から帽子を被った背の高い細身の白人男性が現れる。
ネイビー色のテーラードジャケットを着用し、その胸元からは白地のシンプルなTシャツにプリントされた英文が僅かに覗く。黒いジーンズのバックポケットに左手を突っ込み、右手を観客席に向けて挙げ、歓声に応えながらウィンクをする。
ハリーは
「オン・ドラムス、レイモンド・ジャクソン!!」
今度は
着ているグレーのTシャツは演奏された曲目の激しさを示すかのように汗で変色し、レイモンドはTシャツをパタパタとはたつかせながら歩く。笑みをこぼしながら軽く会釈をした後、ドラムセットの前に座ると置いてあったスティックを持って感触を確かめる。
「ピアノは私、
観客の拍手と歓声はより一層大きくなる。
「へへへ、自分で自分の名前をコールしちゃった」
ピアニストの山内はお茶目に笑い、その様子に観客席から笑いが起こる。会場が静まるのを待ってから彼女は再び話し始める。
「今日はこんなに沢山のお客さん、ありがとうございます! こうやって日本に帰って来れたこと、そして"ホノカ・ヤマウチ・トリオ"で演奏出来たこと、とても幸せに感じてます!」
またしても会場を盛大な拍手が包み込む。ところどころ観客席から「良いぞ!」「お帰りー!」と言った掛け声が耳に入る。
「楽しい時間はあっという間ですね。アンコールは私のデビューアルバムからタイトル曲、"
大きな拍手が鳴り響く中、山内はマイクを置いてピアノへと向かう。
彼女はピアノの前に座ると両手を膝の上に置き、顔を下に向けたまま動きを止める。
––––会場が一気に静まり返る。
山内のファンであればこの姿勢が演奏前に必ず行うルーティーンであることを理解している。
観客の視線全てが山内に注がれる。ほんの数秒前まで
––––スゥーッ
山内は深く息を吸い、顔を上げると目を閉じて上を見上げたまま両手が静かにピアノの高音部分に着地する。
そこから紡がれ始めた音はまるで印象派の画家が描いた湖面のように静かに美しく、そして繊細に響き渡る。
右手から僅かな16分音符の塊が奏でられ、それに左手がアルペジオで呼応する。
少しでも音の選択を間違えれば一気に瓦解する。そんな不安を余所に山内は一音一音に感情を込めて、しかし丁寧に音を繋ぐ。
––––その時、一石が湖面に投じられる。
レイモンドがライドシンバルを静かにゆっくりと叩き始めたのだ。その甲高い音は山内の奏でる音に徐々に溶け込んでいく。
微かに重い低音が響き始める。
ハリーのベース音が山内とレイモンドの音に輪郭を与え、融合した音に
山内の創り出した静かな湖面にレイモンドが一石を投じることで波紋を広げ、それをハリーが規則正しく整える。
1つの風景画が完成する。
一瞬の間。
振り上げられた山内の左手がこれまでとは打って変わって重低音に着地し、同時にレイモンドがクラッシュシンバルを叩く。
山内の左手は8分音符と8分休符を織り交ぜ、右手はその僅かに生じた隙間に和音を正確に放つ。両手のコンビネーションで創造されたリフに対してハリーはユニゾンで続く。
レイモンドはハイハットで細かくリズムを刻みながらスネアのリムショットで抜けの良い、乾いた音でアクセントをつける。
––––物語が動き出す。
山内は時折、唸りながらメロディーを奏でる。それを見てハリーとレイモンドは笑みを浮かべながら合わせていく。
インタープレイ
ジャズにおいてはお互いの音を聴いて、お互いに作用し合うことを示す。
まるでお喋り好きの子供が両親にドライブの行く先を無邪気に尋ねているかのようにレイモンドはクローズ・ハイハットとオープン・ハイハットのコンビネーションを連続させる。ハリーはそれを優しくあやすかのように少ない音数で均衡を保つ。
––––"今日はこっちに行こうか"
均衡を破った山内のブロック・コードに一瞬ハリーが反応し、大きく笑う。それはコード進行にはない、山内がその場で即興的に行ったリハーモナイズ。そこから彼女はドロップ2、ドロップ3、ドロップ2&4を駆使したオープンヴォイシングを使いながら道を切り拓く。
3人の物語はまるで楽器を通して会話をしているかのように続く。
山内の超絶技巧から繰り出される細かいパッセージも一音一音がハッキリと粒立っており、不思議と聴衆の五感に残り続ける。
ハリーは3フィンガーで複雑に絡み始め、ルート音をしっかりと押さえつつも独自の世界観を織りなす。そこへレイモンドが正確なリズムを刻みつつ、2人のラインに絶妙なタイミングでフィルを入れ込む。
––––3人の世界が1つになる
それが会場全体を一瞬にして飲み込み、世界が広がる。
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「私、あんな風になりたい」
演奏を終えて3人が肩を組みながら観客へ向けて深々と頭を下げる様子を見ながら少女は言った。
「それならもっと練習しなきゃね」
少女の母親はエンドロールが流れる画面を見ながらその少女に答える。少女はこくっと静かに頷くと真左にあるアップライトピアノに視線を送る。
––––これは
その音はただの模倣か、それとも新たな世界か。
伝説に魅せられた彼女の物語が今、開幕する。