Op.1-40 – Difference (2nd movement)

文字数 3,389文字

 福岡県民交流センター・小ホールを大きな拍手が包み込む。

 折本恭子の生徒によるコンサートのプログラムが終わり、その最後を彩る自由即興演奏。その代表に選ばれた3人が提示されたモチーフからその場で自由に創作し、即興で1つの音楽を生み出す。

 そのクリエイティブな空間が最後の高校2年生の女子生徒によって終わりを迎え、彼女たちの演奏と創造性に大きな賞賛を向けられている。

「はい、3人とも素敵な演奏をありがとうございました!」

 マイクを握りしめた折本がステージに立つ。

「それでは皆さん、もう1度大きな拍手を……」

 折本はそう言って3人の方を向き、もう1度惜しみない拍手を彼らに送るよう聴衆たちに求めようとしたその瞬間、会場前方にある固く閉ざされた大きな扉が鈍い音をさせながらゆっくりと、開かれた。

––––そこに立っていたのは当時小学校5年生の結城光。

 光は両手で一生懸命に力を込めてその扉を開き、小ホールにやって来た。

 つい先ほどまで父が急用でいなくなってしまったことがショックで大泣きし、ピアノを演奏することを拒否していた少女が力の込もった瞳で真っ直ぐにステージを見つめていた。

「あら光ちゃ……」

 折本は光に話しかける。「どうしたの?」と尋ねるつもりであったが、折本の中で光から得られる返答は決まりきっていた。

「弾く」

 光はそう短く告げた。一瞬の沈黙。

「ピアノ弾く」

 光はもう1度そう言うとそのままピアノの方へと進んでいった。

「面白くなりそう……」

 折本は、会場中の注目を一身に浴びながら堂々とステージへと上がり、自分の目の前を通り過ぎてステージ中央に置かれたグランドピアノへと向かっていく光の後ろ姿を見ながら小さく呟いた。

 光の集中力は既に最高潮に達しており、何がきっかけとなったのか折本には定かではなかったものの、これからこの、先日11歳になったばかりの少女が何か大きなものを披露するに違いないと確信した折本はそのまま光をピアノへと向かわせ、スタッフたちに目配せし、自分たちは外へと捌けていった。

「先生、光ちゃん戻ってきましたね」

 1人の女性スタッフが小声で折本に話しかける。彼女の方を見ずに折本は黙って頷き、光の姿を見つめていた。
 女性スタッフはそれ以上声をかけることは折本の邪魔になると思い、そのまま黙ってステージの方へと目を向けた。

 光はピアノの椅子の高さを調整した後にちょこんと腰掛けると、譜面台に置かれた今村沙耶によって提示されたモチーフが記された小さな紙に気付き、それを見つめる。

 |シ♭ シ♭ ソ –|シ♭ シ♭ ファ– |

 その小さな紙に書かれたモチーフを確認した後、光は両手を膝の上に置いて目を閉じ、顔を下に向けて静止するいつもの姿勢となって動きを止めた。

––––始まった

 光を知る者たち、講師である折本や舞、明里たち広瀬家の3人、光と同じグループレッスンに属する生徒たちやその保護者を中心として光のルーティーンが終わるのをじっと待つ。

 一方で光の演奏を聴いたことのない者たち、特に毎年プログラムが後半にされている年長の生徒たち (殆どの上の年齢の生徒たちはプログラム後半になってから遅れて会場を訪れる) やその保護者は光のその独特な姿勢を見て困惑する。

「(さっきまで泣いとったのにあの子……。雰囲気が違う)」

 その困惑している側の人間の中に今村沙耶は含まれ、先ほどまでの光とのギャップに大きな困惑を持ってその姿を見つめていた。

––––スッ

 なんの前触れもなく突然、光の両手がピアノの鍵盤へと下ろされた。

「(えっ……?)」

 沙耶は光の弾き始めに対して違和感を持つ。それは会場にいる者たちの殆どが抱いたものである。

 折本の指導によれば、この自由即興演奏においてはまず提示されたモチーフを1度弾くことで観客にその旋律を思い出させて印象付ける。また、更に折本は最初のうちはそのモチーフを使って即興をしていることを示すために何度か分かりやすく演奏しながら徐々にアレンジしていくことを心掛けるように指示している。

 しかし、光は沙耶が書いたモチーフを演奏するどころか最初から違う旋律を奏で始める。

––––暴走?

 会場内にいる観客の大半がそう思った中でただ1人、光の意図を完全に理解している者がいた。

 その1人とは光の幼馴染みであり、最大の理解者である広瀬明里である。

 一聴すると全く違う旋律を演奏しているように聴こえるその光のメロディーは彼女の意思を持って明確にどこかへ向かっている。ただ適当に演奏しているのではなく、光はある目的地に向かって進んでいるのだ。

 ゆっくりと動くそのメロディーは小学5年生が奏でているとは思えない美しい響きをその和音でもって音に生命を吹き込む。そして徐々に光の意図が溶け込んだ音が即興という大海原の表面へと浮上する。

 |シ♭ シ♭ ソ –|

 会場の者たちは一斉に息を飲む。

 いつの間にか沙耶が書いたモチーフの1小節目が響き渡った。そう、それはまるで最初から予定されていたかのように、誰もが既に知っていたかのように自然とそのテーマは現れた。

 |シ♭ シ♭ ファ– |

 元はと言えば、光と同じ小学5年生が適当に書いた簡単なテーマ。そして光がそれを奏でた瞬間も決して難しいことをしていた訳ではない。
 しかし、この時の光による即興演奏は、その瞬間に創っているとは信じ難いほどに、また、何か有名な曲を弾いているのではないかと錯覚してしまうくらいに完成度の高い音楽となってその小さな指から紡ぎ出されていく。

 折本の「モチーフを印象付けるために最初は何度か分かりやすく弾きなさい」という指導の目的は、出されたテーマを観客の記憶に、感情に訴えかけることである。

 それ故に普通の生徒は、沙耶の兄・裕一郎のように少し大げさにモチーフを弾き過ぎて独立させ過ぎてしまい、その世界観に上手く入り込めない、最悪の場合、まとまりのない即興になってしまう。

 しかし、光は折本が言うような「モチーフの繰り返し」を行うことなく、聴衆に沙耶のモチーフを印象付けてしまった。
 
 その大きな役割を担ったのは光が最初に演奏したイントロ。

 即興においてイントロを美しくまとめることは特にこの年代では非常に難しい。自然にそのテーマに繋げるには相当な技術とセンスが必要不可欠であり、相応の経験を必要とするからだ。

 光はその足りない経験を彼女のセンスで補い、1つの世界を生み出してしまった。

「(あの子の底が見えない……!)」

 折本はこれまで何度も光の才能に驚かされてきたが、まだまだ底を見せない彼女の潜在能力に素直に感嘆する。

 恐らくこれは生まれながらに持った天性のもので、その才能はこれまで折本が受け持ってきた生徒の中でも圧倒的な才能を誇った瀧野花をも凌駕するとこの瞬間に折本は確信した。

「(花ちゃんもモチーフの繰り返しなどせずにイントロを作ってテーマへと繋げていく手法を取っていたけど、それは大概お決まりのパターンや多くのミュージシャンを勉強してきた中で培われたものだとすぐに分かるものだった。ここまでの完成度、そしてオリジナリティーを示せてはいなかった)」

 光は沙耶の示したモチーフを拡張したテーマを創出し、それをAセクションとして完成させる。そしてそのまま彼女の中で"サビ"としみなしたBセクションに移っていった。 

 小学5年生、そして光の性格というものも考慮して折本は光には自由を与え続けてきた。そしてその自由が光の中で本物だと感じられた瞬間l、その力は大いに発揮される。

 光がBセクションで使うその和音はどこで覚えたのか分からないが緻密な構造を持ち合わせて繊細な響きで会場全体を包み込んだ。

 恐らくは彼女が好きで何度も聴いた音楽や興味を持った音楽、また、レッスンの中で様々な演奏家たちの名作を消化していくことで光の中で感覚的に解釈し、吸収、再構築していったのだろう。
 
「天才……」

 会場の誰かが思わず呟いた言葉。会場を掌握するほどの圧倒的な即興演奏を披露しする少女を表すのにこれほど、シンプルに表せる言葉はあるだろうか。

 もはや在り来たりな言葉で彼女のことを表現する他に選択肢がないのだった。

 光は創り出したテーマから更なる自由を求めてインプロヴィゼーションを始めた。

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