第35話 余談な最終話 祭の後(参考文献リストあり)
文字数 2,407文字
与那嶺チルーを妻にした松村宗棍は、その後、多くの逸話や武勇伝を残し、今日でも武士松村と称えられるカラテの創始者となった。
チルーは宗棍の妻であると同時にカラテ家・松村宗棍の助手としても働いていたようである。
何度も書いているように空手には信用に足る文献が極端に少ないため、あくまでも伝聞ではあるが、形があまり得意ではなかった松村宗棍を助け、現在も残っている空手の形の開発に大きく関わったらしい。
例えば四種のクーシャンクー(公相君、観空)はチルーの手によるものである可能性がある。
松村宗棍は多くの著名な弟子を残した。
まずはこの物語にも登場した安里安恒。安里は非常に才能に恵まれていたため、宗棍に大変可愛がられた。彼のただひとりの弟子が、現在世界最大の空手流派である松濤館の創始者、富名腰(船越)義珍である。
空手道中興の祖と称えられている、糸洲安恒も宗棍の弟子である。糸洲は安里と違い非常に鈍重であったため宗棍にはあまり期待されていなかったようだが、長年の修行により大変な武力を得た大器晩成の人であった。彼は普通の湯呑みなら軽く握り潰す握力があり、板塀や木製の門に拳大の穴を空けたエピソードは有名である。現在空手を習いに行けば多くの道場で基本形として習う平安(ピンアン)の形は彼の作だ。彼は多くの優秀な弟子を残し、首里手の主流派となった。
屋部賢通は松村家の隣人の息子であり、晩年の宗棍に大変可愛がられたようである。彼の親友であった本部朝基と共にカラテの手解きを受けた。屋部と本部は実戦的な組手稽古を繰り返し、松村宗棍のカラテの実戦性を最も色濃く受け継いだ。屋部は生涯弟子を取らなかったが師範学校などで教え、その技術の一端は旧・全日本空手道連盟の創始者で糸洲の弟子であった遠山寛賢が受け継いだ。本部は関西において糸洲の弟子であった摩文仁賢和らと共にカラテの普及に関わった。本部の弟子で非常に強かったのが、元祖ケンカ空手または人間凶器とも言われる山田辰雄である。フルコンタクト空手の創始者・大山倍達は、船越義珍の三男・義豪の弟子であったが、山田を神様のように尊敬していて大いに影響を受けたという。
彼ら宗棍の門弟たちの多くが、チルーの怪力を目撃している。以前にも紹介した75kgある米俵を片手で吊り上げてその下を掃除していたエピソードは有名であるが、とにかく米俵をまるで枕でも運ぶように軽々と扱っていたらしい。
さて、このように武士松村の妻となったチルーであったが、家に入ったチルーはただ大人しい良妻賢母になったのだろうか?読者諸氏は「そんなはずはない」と思ったであろう。そんなはずはないのである。
チルーも嫁入り後には、さすがに辻に出て強敵を求め掛け試しするようなことは無くなったが、夜歩きの悪癖だけは止められなかった。
ここで宗棍の立場で考えていただきたい。なにしろ新妻は琉球随一の美少女なのである。そんな美少女妻が街灯すら無い時代に、夜道を独りで散歩するのだから心配にならぬわけがない。
そこで宗棍はチルーにお灸をすえることにした。
夜の神社に独りで参るチルーを待ち伏せし、頬被りして暴漢に扮して懲らしめてやろうと考えたのである。
その結果は?
宗棍は返り討ちにあった。チルーは自らの帯を解いて、それで暴漢(宗棍)を木に縛り付けてそのまま帰宅した。
早朝に近所の住民に発見され救出された宗棍が帰宅するとチルーが待っていた。
「朝帰りとは珍しいですね」
「うん、最近この辺りに暴漢が出没すると聞いてね、見廻っていたんだ。それからこれ、君のじゃないか?」
宗棍はチルーに帯を手渡した。
「あら、ありがとう。探していたんですよ」
チルーは何食わぬ顔をして、その帯を受け取ったのである。
松村宗棍は91歳という長命を得たが、70歳くらいまでは挑まれれば誰とでも勝負した。しかし、いずれの勝負も危うかったことは一度も無く、苦戦した経験が無かった。それほど琉球では図抜けた強さだったのである。
この事実からも、チルーの強さがどれほどのものであったかが、窺い知れるであろう。
松村宗棍は妻であるチルーに先立たれた。それがいつのことであったのか詳細な記録は無い。
ただ宗棍はチルーの枕元で、動かなくなったチルーの手をいつまでも握り続けた。そしてつぶやいた。
「君は私のことを一生許さないと言っていたが、まさかこんな方法で復讐されるとは思ってもみなかった。私は結局、君に一度も勝つことができなかったじゃないか」
チルーの拳 琉球美少女拳士の闘いと恋の物語(了)
・参考文献
琉球昔噺集-喜納緑村・著(三元社)
琉球拳法唐手-富名腰義珍・著(武侠社)
沖縄拳法唐手術 組手編-本部朝基・著(唐手術普及会)
空手入門-船越義珍・著(國防武道協會)
攻防自在護身拳法空手道入門-摩文仁賢和 中曽根源和・著(京文社)
奥技秘術空手道-遠山寛賢・著(田中書店)
空手の習い方-大家礼吉・著(金園社)
本部朝基と琉球カラテ-岩井虎伯・著(愛隆堂)
・参考ウェブサイト
Yonamine Chiru - Wikipedia(英文)
https://en.wikipedia.org/wiki/Yonamine_Chiru
YONAMINE CHIRU - okinawa Karate-do(ポーランド語)
http://karate-do.pl/bez/yonamine-chiru-tsuruok-1800/
松村宗棍 part.1-沖縄チャンネル!okinawaBBtv(日本語)
https://www.okinawabbtv.com/desc/3-%E6%9D%BE%E6%9D%91%E5%AE%97%E6%A3%8D-part-1/
松村宗棍の上段蹴り本部流のブログ
https://ameblo.jp/motoburyu/entry-12236129566.html
チルーは宗棍の妻であると同時にカラテ家・松村宗棍の助手としても働いていたようである。
何度も書いているように空手には信用に足る文献が極端に少ないため、あくまでも伝聞ではあるが、形があまり得意ではなかった松村宗棍を助け、現在も残っている空手の形の開発に大きく関わったらしい。
例えば四種のクーシャンクー(公相君、観空)はチルーの手によるものである可能性がある。
松村宗棍は多くの著名な弟子を残した。
まずはこの物語にも登場した安里安恒。安里は非常に才能に恵まれていたため、宗棍に大変可愛がられた。彼のただひとりの弟子が、現在世界最大の空手流派である松濤館の創始者、富名腰(船越)義珍である。
空手道中興の祖と称えられている、糸洲安恒も宗棍の弟子である。糸洲は安里と違い非常に鈍重であったため宗棍にはあまり期待されていなかったようだが、長年の修行により大変な武力を得た大器晩成の人であった。彼は普通の湯呑みなら軽く握り潰す握力があり、板塀や木製の門に拳大の穴を空けたエピソードは有名である。現在空手を習いに行けば多くの道場で基本形として習う平安(ピンアン)の形は彼の作だ。彼は多くの優秀な弟子を残し、首里手の主流派となった。
屋部賢通は松村家の隣人の息子であり、晩年の宗棍に大変可愛がられたようである。彼の親友であった本部朝基と共にカラテの手解きを受けた。屋部と本部は実戦的な組手稽古を繰り返し、松村宗棍のカラテの実戦性を最も色濃く受け継いだ。屋部は生涯弟子を取らなかったが師範学校などで教え、その技術の一端は旧・全日本空手道連盟の創始者で糸洲の弟子であった遠山寛賢が受け継いだ。本部は関西において糸洲の弟子であった摩文仁賢和らと共にカラテの普及に関わった。本部の弟子で非常に強かったのが、元祖ケンカ空手または人間凶器とも言われる山田辰雄である。フルコンタクト空手の創始者・大山倍達は、船越義珍の三男・義豪の弟子であったが、山田を神様のように尊敬していて大いに影響を受けたという。
彼ら宗棍の門弟たちの多くが、チルーの怪力を目撃している。以前にも紹介した75kgある米俵を片手で吊り上げてその下を掃除していたエピソードは有名であるが、とにかく米俵をまるで枕でも運ぶように軽々と扱っていたらしい。
さて、このように武士松村の妻となったチルーであったが、家に入ったチルーはただ大人しい良妻賢母になったのだろうか?読者諸氏は「そんなはずはない」と思ったであろう。そんなはずはないのである。
チルーも嫁入り後には、さすがに辻に出て強敵を求め掛け試しするようなことは無くなったが、夜歩きの悪癖だけは止められなかった。
ここで宗棍の立場で考えていただきたい。なにしろ新妻は琉球随一の美少女なのである。そんな美少女妻が街灯すら無い時代に、夜道を独りで散歩するのだから心配にならぬわけがない。
そこで宗棍はチルーにお灸をすえることにした。
夜の神社に独りで参るチルーを待ち伏せし、頬被りして暴漢に扮して懲らしめてやろうと考えたのである。
その結果は?
宗棍は返り討ちにあった。チルーは自らの帯を解いて、それで暴漢(宗棍)を木に縛り付けてそのまま帰宅した。
早朝に近所の住民に発見され救出された宗棍が帰宅するとチルーが待っていた。
「朝帰りとは珍しいですね」
「うん、最近この辺りに暴漢が出没すると聞いてね、見廻っていたんだ。それからこれ、君のじゃないか?」
宗棍はチルーに帯を手渡した。
「あら、ありがとう。探していたんですよ」
チルーは何食わぬ顔をして、その帯を受け取ったのである。
松村宗棍は91歳という長命を得たが、70歳くらいまでは挑まれれば誰とでも勝負した。しかし、いずれの勝負も危うかったことは一度も無く、苦戦した経験が無かった。それほど琉球では図抜けた強さだったのである。
この事実からも、チルーの強さがどれほどのものであったかが、窺い知れるであろう。
松村宗棍は妻であるチルーに先立たれた。それがいつのことであったのか詳細な記録は無い。
ただ宗棍はチルーの枕元で、動かなくなったチルーの手をいつまでも握り続けた。そしてつぶやいた。
「君は私のことを一生許さないと言っていたが、まさかこんな方法で復讐されるとは思ってもみなかった。私は結局、君に一度も勝つことができなかったじゃないか」
チルーの拳 琉球美少女拳士の闘いと恋の物語(了)
・参考文献
琉球昔噺集-喜納緑村・著(三元社)
琉球拳法唐手-富名腰義珍・著(武侠社)
沖縄拳法唐手術 組手編-本部朝基・著(唐手術普及会)
空手入門-船越義珍・著(國防武道協會)
攻防自在護身拳法空手道入門-摩文仁賢和 中曽根源和・著(京文社)
奥技秘術空手道-遠山寛賢・著(田中書店)
空手の習い方-大家礼吉・著(金園社)
本部朝基と琉球カラテ-岩井虎伯・著(愛隆堂)
・参考ウェブサイト
Yonamine Chiru - Wikipedia(英文)
https://en.wikipedia.org/wiki/Yonamine_Chiru
YONAMINE CHIRU - okinawa Karate-do(ポーランド語)
http://karate-do.pl/bez/yonamine-chiru-tsuruok-1800/
松村宗棍 part.1-沖縄チャンネル!okinawaBBtv(日本語)
https://www.okinawabbtv.com/desc/3-%E6%9D%BE%E6%9D%91%E5%AE%97%E6%A3%8D-part-1/
松村宗棍の上段蹴り
https://ameblo.jp/motoburyu/entry-12236129566.html