第21話 熊の手 対 虎の手
文字数 3,275文字
その日の夕刻である。
ウガンジュの広場には、チルーと具志堅親方の対決を一目見ようとする見物人が大勢集まっていた。
チルーはその中に松村宗棍の姿を見つけ出したが、その表情はいつになく沈んでいる。
「約束の刻限を過ぎたが、具志堅親方はまだ見えんな」
チルーの父親が少し苛立ちはじめている。
そういえば今日は顔を出すと言っていた、大島クルウの姿も見えない。
「具志堅親方は約束の刻限を違える人とは思えませんから、何かやむを得ない事情があるのでしょう。もう少しだけ待ちましょう」
傾いた日が赤みを帯び始めたころ、見物人の間にざわめきが起こった。
・・・来たぞ、具志堅親方だ。
見物人の群れを割って、親方らしい立派な身なりの男がウガンジュの広場に入ろうとしている。
「到着したようですね、お父様」
「ちょっと待て。具志堅親方ではないようだ。あれはどなたかな?」
父親がそう言ったので、近づいてくるその男に目をやったチルーは、心臓が喉から飛び出しそうになった。
服装こそは立派であるが、ぼさぼさに伸びた髪、日に焼けて彫が深いが粗野な顔立ち。
「お前は、泊の武樽!」チルーが叫びながら身構えた。
「何?泊の武樽だと!」チルーの父も驚いている。
武樽はゆっくりとふたりに歩み寄ると、こう言い放った。
「本日は具志堅親方が都合により来れんので、この宗久親雲上武樽が代わって嫁取りさせていただく」
この男は何を言ってるのであろうか?言ってることは訳がわからぬが、とにかくこんな男にチルーを嫁に出すつもりは、もちろんチルーの父にも無い。
「ふざけるな、泊の武樽。三年前にお前ら兄弟が儂の娘たちを辱めようとしたこと、よもや忘れておるまい。どの面を下げてこのような場に現れたのだ」
「三年前の事は俺も大いに悔やんでいるんだ。本当に悪かった、勘弁してくれ」
この言葉はチルーの怒りに火を着けた。
父親の前に進み出て武樽の顔を睨みつける。
「勘弁してくれですって?あんたたち兄弟のせいで、妹のカミーは今も男が怖くて外にも出られなくなったんだ。許せるわけがあるもんか!」
「カミーにも伏して詫びよう。何度でも頭を下げるし償うためならなんでもする。俺は生まれ変わったんだ」
「生まれ変わったですって?いったいどう生まれ変わったのよ」
「俺はあれから一切の女色を断って、ただ一心にトーデの修行に励んだ。それはチルー、お前に本気で惚れたからだ。頼む。俺に嫁取りの掛け試しをさせてくれ」
武樽は懸命に懇願するが、言ってることの歯車がどこか狂っている。
「あんたさっきから何を言ってるの?突然現れてそんな事できるわけがないじゃない。それ以前にあたしはあんたなんかお断りなんだから」
チルーの父も、頷きながら武樽に尋ねた。
「お前は具志堅親方の代理だと言うが、その具志堅親方はどこで何をしておるのだ。お前が正式に具志堅親方の代理人であるという証拠は?委任状でもあるのかね」
「委任状か」
武樽は懐から芭蕉の葉で何かをくるんだものを取り出し、広場の地面に投げ捨てた。
それからは強烈な腐肉の臭いがする。
「うっ・・なんだ、これはいったい」
そう言ってチルーの父は鼻を押さえた。
「具志堅親方の肩の肉だ。奴が嫁取りの権利を譲らんので力でもぎ取ってやったのだ」
チルーの父は眉をひそめた。
「なんと・・まさか武樽、具志堅親方を殺めたのか」
「具志堅親方はチルーに邪な情欲を抱いておったからな。罪を犯さぬうちに往生させてやったのだ」
武樽は悪びれる様子もなく平然として応えた。何を当たり前のことを聞くのだという態度である。
(・・狂っている)
この場にいるすべての者が武樽の平然とした態度に、異形の者を見たような言い知れぬ恐怖を感じていた。ひとり、チルーを除いては。
「武樽、あんた完全におかしいよ。こんなことをしでかして、この先いったいどうするつもりなのさ」
「どうするってチル-、お前を嫁に取るんだ。俺はお前と、俺たちの子供のために身を粉にして働くぞ。そして・・」
「あんたにそんな未来は無い!」
チルーは強い口調で武樽の言葉を遮った。
「受けてやるよ、掛け試し。あんたの妄念を滅ぼしてやる」
言うなりチルーは素早く前進して武樽の胸を両掌で突き飛ばした。単純な技であるが、剛腕のチルーが発したものである。武樽は二間ばかり(3メートル以上)後方に飛ばされた。しかし、武樽は倒れずに両足で地面を削りながら踏みとどまった。チルーの攻撃を受けた武樽の顔はしかし実に満足気であった。
「わかってくれたか、与那嶺チルー。心行くまで手を戦わせよう」
「あんたはかなり勘違いしている。でもこれはあんたの望んだ事と大して違わないのは事実ね。いいでしょう。ここで片を付けましょう」
チル-は掛け試しの作法に則り、右手の拳を目の高さに掲げた。武樽も同じように拳を握り、手を合わせる。掛け試しが始まってしまったからには、チル-の父も黙って見守るより他にない。
チルーは合わせた右手の拳を押し込むようにして武樽の顔面を狙った。しかし武樽はその手を押し返すようにして、チル-の攻撃を遮る。
(武樽、力が強い)
チルーは今だかつて、力で押し返された経験が無かった。
(確かに三年間、ひたすらにトーデの修行をしていたというのは本当のようだ。ならばこれはどう?)
チルーは合わせた手を支点に宙返りするように身体を回転させ、左右の足で武樽の頭部に蹴りを見舞った。
武樽は上体をのけ反らせて、辛くも蹴りを掠めるにとどめた。蹴りがかすった頬が赤くなっている。
「ふう、危ないな。チルーさすがだ。お前の技は恐ろしいが美しい。では今度は俺の技を見せよう」
そう言うと武樽は、両手を手刀に変えて、素早い連続攻撃を仕掛けてきた。
(危ない!)
チルーは慌てて飛び退く。
武樽の手刀が掠めたチル-の着物の数ヶ所が、まるで刀で斬られたように、きれいに切れている。
(武樽の手はまるで刃物だ。これは長引かせると危険ね。ええと)
チル-の目の片隅に、ウガンジュの御神木が映った。
(ちょっと罰当たりかもだけど、神様に助けてもらおう)
チル-は武樽の足元に素早い蹴りを入れて動きを一瞬止めた。そしてそのまま跳躍して二間離れた場所に立っている御神木まで飛び、その幹を蹴る反動でさらに三角に飛んだ。勢いの乗った飛び蹴りが武樽の顔面に伸びる。
しかし武樽は無造作にその蹴り足を片手で掴むと、遠心力を付けてチル-を投げ捨てた。
チル-の身体は地面を弾んで転がった。
その衝撃でチルーは一瞬気を失いそうになったが、気力で意識を保つ。
武樽は追撃を仕掛けてこない。まるでチルーの回復を待っているようであった。
チル-は呼吸法を用いて、痛みを軽減する。
そしてなんとか立ち上がるのを見て、武樽が口を開いた。
「まったく具志堅親方といい、大島クルウといい、お前といい、どいつもこいつも三角飛びさえ使えば俺に勝てるとでも思っているのかね」
その言葉を聞いたチルーの顔から血の気が引いた。
「武樽、今なんと言った?大島クルウといいだと?あんたまさか、先生を」
武樽は平然として応えた。
「ここに来る前に大島クルウに挨拶してきたさ」
「・・殺したのか?」
「まあ、昔の仕返しもしたかったしな。それにお前の先生も俺たちの結婚に反対のようだったし」
チルーの全身が激しく震えだした。
「貴様・・」
チルーは両拳を一本拳(コーサー)に握り直すと、やや腰を落とし、左拳を脇腹に引き右拳をその上に重ねた。
大島クルウ直伝の最終奥技、虎の手の構えだ。
「殺してやる」
チルーの言葉を聞いた武樽の顔は、しかしとても満足気であった。
「うれしいぞチルー。そうだ、全力のお前が見たかった。全力のお前を倒してこそ、俺はお前の夫にふさわしい。そうだろう?」
武樽は脚を肩幅に拡げて腰を落とし、両掌をチルーに向けて高くかざした。その両手の十本の指の第一関節が鉤爪のように曲がっている。
「いくぞチルー、いよいよお前を嫁に取る時が来た」
獲物を襲う熊の様に、武樽は猛然とチルーに飛び掛かった。
ウガンジュの広場には、チルーと具志堅親方の対決を一目見ようとする見物人が大勢集まっていた。
チルーはその中に松村宗棍の姿を見つけ出したが、その表情はいつになく沈んでいる。
「約束の刻限を過ぎたが、具志堅親方はまだ見えんな」
チルーの父親が少し苛立ちはじめている。
そういえば今日は顔を出すと言っていた、大島クルウの姿も見えない。
「具志堅親方は約束の刻限を違える人とは思えませんから、何かやむを得ない事情があるのでしょう。もう少しだけ待ちましょう」
傾いた日が赤みを帯び始めたころ、見物人の間にざわめきが起こった。
・・・来たぞ、具志堅親方だ。
見物人の群れを割って、親方らしい立派な身なりの男がウガンジュの広場に入ろうとしている。
「到着したようですね、お父様」
「ちょっと待て。具志堅親方ではないようだ。あれはどなたかな?」
父親がそう言ったので、近づいてくるその男に目をやったチルーは、心臓が喉から飛び出しそうになった。
服装こそは立派であるが、ぼさぼさに伸びた髪、日に焼けて彫が深いが粗野な顔立ち。
「お前は、泊の武樽!」チルーが叫びながら身構えた。
「何?泊の武樽だと!」チルーの父も驚いている。
武樽はゆっくりとふたりに歩み寄ると、こう言い放った。
「本日は具志堅親方が都合により来れんので、この宗久親雲上武樽が代わって嫁取りさせていただく」
この男は何を言ってるのであろうか?言ってることは訳がわからぬが、とにかくこんな男にチルーを嫁に出すつもりは、もちろんチルーの父にも無い。
「ふざけるな、泊の武樽。三年前にお前ら兄弟が儂の娘たちを辱めようとしたこと、よもや忘れておるまい。どの面を下げてこのような場に現れたのだ」
「三年前の事は俺も大いに悔やんでいるんだ。本当に悪かった、勘弁してくれ」
この言葉はチルーの怒りに火を着けた。
父親の前に進み出て武樽の顔を睨みつける。
「勘弁してくれですって?あんたたち兄弟のせいで、妹のカミーは今も男が怖くて外にも出られなくなったんだ。許せるわけがあるもんか!」
「カミーにも伏して詫びよう。何度でも頭を下げるし償うためならなんでもする。俺は生まれ変わったんだ」
「生まれ変わったですって?いったいどう生まれ変わったのよ」
「俺はあれから一切の女色を断って、ただ一心にトーデの修行に励んだ。それはチルー、お前に本気で惚れたからだ。頼む。俺に嫁取りの掛け試しをさせてくれ」
武樽は懸命に懇願するが、言ってることの歯車がどこか狂っている。
「あんたさっきから何を言ってるの?突然現れてそんな事できるわけがないじゃない。それ以前にあたしはあんたなんかお断りなんだから」
チルーの父も、頷きながら武樽に尋ねた。
「お前は具志堅親方の代理だと言うが、その具志堅親方はどこで何をしておるのだ。お前が正式に具志堅親方の代理人であるという証拠は?委任状でもあるのかね」
「委任状か」
武樽は懐から芭蕉の葉で何かをくるんだものを取り出し、広場の地面に投げ捨てた。
それからは強烈な腐肉の臭いがする。
「うっ・・なんだ、これはいったい」
そう言ってチルーの父は鼻を押さえた。
「具志堅親方の肩の肉だ。奴が嫁取りの権利を譲らんので力でもぎ取ってやったのだ」
チルーの父は眉をひそめた。
「なんと・・まさか武樽、具志堅親方を殺めたのか」
「具志堅親方はチルーに邪な情欲を抱いておったからな。罪を犯さぬうちに往生させてやったのだ」
武樽は悪びれる様子もなく平然として応えた。何を当たり前のことを聞くのだという態度である。
(・・狂っている)
この場にいるすべての者が武樽の平然とした態度に、異形の者を見たような言い知れぬ恐怖を感じていた。ひとり、チルーを除いては。
「武樽、あんた完全におかしいよ。こんなことをしでかして、この先いったいどうするつもりなのさ」
「どうするってチル-、お前を嫁に取るんだ。俺はお前と、俺たちの子供のために身を粉にして働くぞ。そして・・」
「あんたにそんな未来は無い!」
チルーは強い口調で武樽の言葉を遮った。
「受けてやるよ、掛け試し。あんたの妄念を滅ぼしてやる」
言うなりチルーは素早く前進して武樽の胸を両掌で突き飛ばした。単純な技であるが、剛腕のチルーが発したものである。武樽は二間ばかり(3メートル以上)後方に飛ばされた。しかし、武樽は倒れずに両足で地面を削りながら踏みとどまった。チルーの攻撃を受けた武樽の顔はしかし実に満足気であった。
「わかってくれたか、与那嶺チルー。心行くまで手を戦わせよう」
「あんたはかなり勘違いしている。でもこれはあんたの望んだ事と大して違わないのは事実ね。いいでしょう。ここで片を付けましょう」
チル-は掛け試しの作法に則り、右手の拳を目の高さに掲げた。武樽も同じように拳を握り、手を合わせる。掛け試しが始まってしまったからには、チル-の父も黙って見守るより他にない。
チルーは合わせた右手の拳を押し込むようにして武樽の顔面を狙った。しかし武樽はその手を押し返すようにして、チル-の攻撃を遮る。
(武樽、力が強い)
チルーは今だかつて、力で押し返された経験が無かった。
(確かに三年間、ひたすらにトーデの修行をしていたというのは本当のようだ。ならばこれはどう?)
チルーは合わせた手を支点に宙返りするように身体を回転させ、左右の足で武樽の頭部に蹴りを見舞った。
武樽は上体をのけ反らせて、辛くも蹴りを掠めるにとどめた。蹴りがかすった頬が赤くなっている。
「ふう、危ないな。チルーさすがだ。お前の技は恐ろしいが美しい。では今度は俺の技を見せよう」
そう言うと武樽は、両手を手刀に変えて、素早い連続攻撃を仕掛けてきた。
(危ない!)
チルーは慌てて飛び退く。
武樽の手刀が掠めたチル-の着物の数ヶ所が、まるで刀で斬られたように、きれいに切れている。
(武樽の手はまるで刃物だ。これは長引かせると危険ね。ええと)
チル-の目の片隅に、ウガンジュの御神木が映った。
(ちょっと罰当たりかもだけど、神様に助けてもらおう)
チル-は武樽の足元に素早い蹴りを入れて動きを一瞬止めた。そしてそのまま跳躍して二間離れた場所に立っている御神木まで飛び、その幹を蹴る反動でさらに三角に飛んだ。勢いの乗った飛び蹴りが武樽の顔面に伸びる。
しかし武樽は無造作にその蹴り足を片手で掴むと、遠心力を付けてチル-を投げ捨てた。
チル-の身体は地面を弾んで転がった。
その衝撃でチルーは一瞬気を失いそうになったが、気力で意識を保つ。
武樽は追撃を仕掛けてこない。まるでチルーの回復を待っているようであった。
チル-は呼吸法を用いて、痛みを軽減する。
そしてなんとか立ち上がるのを見て、武樽が口を開いた。
「まったく具志堅親方といい、大島クルウといい、お前といい、どいつもこいつも三角飛びさえ使えば俺に勝てるとでも思っているのかね」
その言葉を聞いたチルーの顔から血の気が引いた。
「武樽、今なんと言った?大島クルウといいだと?あんたまさか、先生を」
武樽は平然として応えた。
「ここに来る前に大島クルウに挨拶してきたさ」
「・・殺したのか?」
「まあ、昔の仕返しもしたかったしな。それにお前の先生も俺たちの結婚に反対のようだったし」
チルーの全身が激しく震えだした。
「貴様・・」
チルーは両拳を一本拳(コーサー)に握り直すと、やや腰を落とし、左拳を脇腹に引き右拳をその上に重ねた。
大島クルウ直伝の最終奥技、虎の手の構えだ。
「殺してやる」
チルーの言葉を聞いた武樽の顔は、しかしとても満足気であった。
「うれしいぞチルー。そうだ、全力のお前が見たかった。全力のお前を倒してこそ、俺はお前の夫にふさわしい。そうだろう?」
武樽は脚を肩幅に拡げて腰を落とし、両掌をチルーに向けて高くかざした。その両手の十本の指の第一関節が鉤爪のように曲がっている。
「いくぞチルー、いよいよお前を嫁に取る時が来た」
獲物を襲う熊の様に、武樽は猛然とチルーに飛び掛かった。