第27話 ウェーク術と百姓手の極意

文字数 2,775文字

 翌朝はまだ暗いうちに起床して、マチューが漁に出る準備を手伝う。
 マチューが家を出るのを見送ったら、午前中は洗濯や掃除など、家事一切をやらねばならない。午前中に用事を済ませておかないと、稽古時間が作れないからだ。

 てきぱきと働くその様子を、近所の女房衆も微笑ましい眼差しで見てくれていた。

「チルー、正直言うとさ、あんた町の子だからここでやっていけるのかって疑ってたの。でもあんたなら大丈夫。立派な漁師の女房になれるわ」 

「ありがとうございます」
 ナビーにも太鼓判を押してもらった。

 昨晩の残り物の冷飯で簡単な昼食を済ませると、チルーはうたた寝をした。昨晩はマチューへの警戒心で、あまり熟睡できなかったからである。しかし実際にはマチューはチルーに指一本触れようとはしなかった。

 うたた寝の夢の中で、チルーは井戸の周りで赤子を背負い、近所の女房たちと笑いあいながら水仕事をしている自分の姿を見た。

「男衆が戻って来たよ」

 外で女房衆が叫ぶ声で目を覚ました。
 チルーは慌てて身支度をする。

(私、すっかりここに馴染んじゃいそう。いいんだろうか)

 意外なほど漁師の女房に自分は向いているような気がしてきたのである。
 しかし目的を失ってはいけない。チルーは気を引き締めた。

「チルー来たか。水揚げを手伝ってくれ」
 浜に出迎えに来たチルーの姿を見たマチューが笑顔で言った。それを見た周りの漁師がマチューを冷やかす。

「おお、ええのう。べっぴんの新妻がお出迎えか」
「古女房で悪かったね。さあさっさと仕事しな」
 案の定女房に叱られていた。辺りに笑い声が広がる。チルーも笑いながらマチューの舟から今日の収穫を運び出す。

 マチューが収穫を仲買人に引き渡すと、次は舟の清掃だ。漁師の女房は忙しいが、初めて知る充実感があった。

「チルー、ご苦労だったな。漁師の家はきついだろう」

「いいえ、意外に楽しいです」

「そうか。じゃあ本当に俺ん家に嫁に来るか」

「えっ・・」

 チルーは言葉に詰まった。

「冗談だよ。ひと休みしたら稽古に入ろう」

 マチューは手拭いで汗を拭うと、舟から櫂を一本持ち出した。

「いいかチルー、糸満マギーの百姓手の基本はこのウェーク(櫂)術だ。手を組む場合もウェークの動きが土台になる」

 ちなみにマチューの言う『手を組む』とは琉球独特の言い回しで『素手で格闘する』というような意味だ。古式の沖縄相撲を手組と称したのは前述したが、現在の空手における対戦形式の稽古や試合を『組手』と称するのも、これが語源という説がある。

「チルー、よく見ていろ」

 ウェークを手に立ち上がったマチューは、それを両手で軽々と振り回した。
 それはマチューの身体を中心に、縦横無尽に動き回り、一体どの方向から攻撃が繰り出されるのかわからない恐ろしさがある。しばらくして動きを止めたマチューが言った。

「見たか。ウェークの操作には基本の動きはあるのだがね、決まった型は無い。むしろ型にはまっちゃいけないんだ」

「型が無い・・ですか」

「そうだ。俺の見るにトーデの最大の特徴であり弱点でもあるのは、型稽古に偏り過ぎて自由闊達を失い勝ちなところだな。百姓手は武士のお作法武術とは違って、生き残るための武術だ。型通りに動いてたんじゃ生き残れない。臨機応変、状況に応じて自然に変化できなきゃだめだ」

「はい」

「じゃあ、ウェークの持ち方と基本動作を教える。櫂を持って」

 マチューはチルーにウェークを持たせると、背後から抱き抱えるように手を伸ばして操作を教える。
 チルーの背中にマチューのたくましい胸が触れる感触があった。
 その様子を見て漁師たちが、また冷やかしはじめる。

「おいおい、またこんなところで乳繰り合うかマチュー」

「新妻はうちに帰ってからゆっくり可愛がってやれよ」

 下司な笑い声を上げるがマチューはまったく気にも止めず、チルーに基本動作を指導し続けた。

「じゃあチルー、今度は自由に振り回してみろ」

 マチューに手を離されたチルーは、そこからは自然の流れと自分のイメージに従ってウェークを振り回した。

「よし、チルーその調子だ。流れをとめるな。敵を倒すまで絶対に動きを止めないのが百姓手の極意だ」

 なるほど、これは松村宗棍が武樽と闘ったとき、じっと動かずに期を伺っていたのとは対極にある武術である。

「よーし、そこまでだ。さすがだなチルー。普通は最初はウェークに振り回されちまうもんだが、見事に操っている。この調子なら十日もあればモノになるだろう。よし帰るか」

 家に帰ってからは昨日と同じ作業のルーティンワークである。水桶を持って井戸に行くと、女房衆が次々とチルーに話し掛けてくる。

「お疲れ~どうだい、マチューは優しくしてくれるかい」

「はい、とっても」

「マチューは死に別れた嫁も、とても大切にしていたからねえ。あらごめんなさい」

「いえ、いいんです」

「昨晩アッチの方はどうだった?十年も男やもめだったから、それはもう凄かっただろう」

「あ、いえ、それは・・」

 開けっ広げな漁村の女房衆には、さすがの女武士チルーも、しどろもどろになってしまう。

「あんたたち、若い子をあんまりからかうんじゃないよ。逃げられちゃったらどうすんだい。チルー、田舎者は遠慮が無いけどみんな悪気はないんだ。勘弁してね」

 ナビーが話しに割って入ってくれた。

「でもチルー、マチューは当たりだよ。あんな真面目で働き者は、この村中探しても他に居ないから。酒好きだけど決して酒に飲まれないしね」

「はい」

 チルーはそれ以外、何と返事してよいものやらわからない。もうすっかり近所の新妻扱いである。

「大きな声じゃ言えないが、マチューの親父は大酒飲みの暴れん坊だったけどね、まさにトンビが鷹を生んだようなもんさ。だから絶対にマチューを離しちゃダメだよ」

 ますますチルーは返事のしようが無くなってきた。水を汲んだら早々に引き上げることにする。

 昨晩と同じように、晩御飯を一緒に食べて、他愛ない話題で笑い合って、交代で風呂に入ってから就寝する。まるでもう何年もこんな生活をしているような錯覚すら覚えた。

 その夜、夢を見た。チルーはこの家で、三歳の息子に着物を着せてあげていた。
 遠くから祭り囃子が聞こえる。今日は本場の糸満大綱引き祭だ。

「ちょっと、こっちは準備できたよ。早く行かないと綱引きが始まっちゃう」

 チルーが奥の部屋に声を掛ける。

「おーい。今いく」

 男の声が応える。チルーはそわそわしている息子をなだめる、

「お父ちゃん遅いねえ。あ、やっと来た」

「おまたせ」

 祭り装束を着て、奥の部屋から出て来た男は・・松村宗棍であった。

 チルーは飛び起きた。暗い室内の隣の布団には、マチューがいびきをかいて眠っている。チルーは心臓が高鳴っていた。

(なんなの今の夢は?なんで松村宗棍が・・)
 
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