第23話 一撃必殺
文字数 3,053文字
泊の武樽は両手を高く掲げた熊の手の構えのまま静止した。
怒りに狂っているように見えても、松村宗棍の構えに秘められた恐るべき威力を敏感に感じ取るあたりは、さすが一流の拳法家である。
一方の松村宗棍も構えたまま微動だにしない。
ふたりの男がお互い向かい合ってただ構えたまま、しずかに時間だけが流れる。
見物人がざわつき始めた。
・・・どうしたんだ?ふたりとも睨み合ったままで。
・・・まったく、あいつら寝てるんじゃねえか。
・・・いや、まて。よく見ろ、あの松村とかいう若造の姿を。
日が陰りはじめ、薄暗くなってきたウガンジュの広場に立つ松村宗棍の姿は、うっすらと光って見えたのだ。
このときまで、琉球の誰もが松村宗棍のカラテという武術の正体を知らなかった。カラテとは公相君が伝え、佐久川が流行らせたトーデ(中国拳法)に似ていて、しかしまったく趣を異にする独特の武術なのだ。
松村宗棍は師であるトーデ佐久川と、さらに佐久川の師である北京の武術教官イワーより学んだ中国拳法に、薩摩で学んだ示現流剣術の戦闘思想を取り込んでいた。それこそが今日の空手にも脈々と受け継がれることになる、空手が空手であり得る要件と言っても良い『一撃必殺』の思想である。
今や武樽と立ち合っている松村宗棍にとって、八加二帰八も有無手も三角飛びも、その他の秘技、極意の類も、すべてが無用な虚飾に過ぎなかった。色も無い、音も聞こえない世界に松村宗棍は居た。
ただ一拳の打突あるのみ。
その極限までの集中力が霊妙な力を松村宗棍に宿し、あたりの者の目にその姿を光らせて見せていたのであろう。
(・・はっ、ここは?)
「チルー、目が覚めたか」
「お父様、私はいったい?」
そう言いながらもチルーはあたりに漂う濃密な闘気に気付き、いそいで状況を理解しようとした。
(ここはウガンジュの広場、あれは・・泊の武樽と松村宗棍?どうして、それは私の闘い)
チルーは鉛のように重く、動くたびに激痛の走る身体をなんとか奮い立たせようとした。
そのチルーの肩にそっと手を置く者が居た。
「チルー、お前の闘いは終わったのだ。お前の勝ちじゃ」
「・・せ、先生?」
それはまさに大島クルウであった。
「先生、ご無事だったのですか?」
「ああ、うん。まあな。武樽には完敗じゃったが、気を失っただけで済んだ」
「よかった・・・私はてっきり・・・」
チルーは涙ぐんでいた。
「心配かけたな。しかしお前が泣く顔を見るのは初めてじゃ」
大島クルウの言葉どおり、チルーが泣くのはいつのこと以来であったろうか。
「ごめんなさい先生。でもいつまでも泣いてはいられません。武樽は私が倒さねば」
「いや、お前の闘いはもう終わったのじゃ。あのふたりの姿を見なさい」
じっと身構えたまま動かないふたりの男の姿が、ぼんやりと光っている。
「あれはいったい?」
「あれはケンカじゃ。何千年、何万年、いやもっと古くから繰り返されている、ひとりの女を巡っての男と男のケンカじゃ。お前はもうただ見守るしかない」
もう日がほとんど沈みかけている。この逢魔が時に、ふたりの男のうちどちらが先に動いたのかは誰にもわからなかった。
ただふたつの影が一瞬の間に交差したあと、ひとつの影が倒れ、もうひとつの影は立っていた。
倒れたのは泊の武樽であった。
立っている松村宗棍はそれでも構えを解かず、倒れている武樽をあたかもまだ戦闘が続行しているごとく見据えていた。これも松村宗棍が薩摩の剣術から学び、自らのカラテに取り入れた『残心』の心得である。
しばらくの後、松村宗棍はようやく構えを解き声を発した。
「早く武樽に縄をかけてください」
「殺してはいないのか?」
チルーの父親が尋ねる。
「ええ、おそらく死んではいません。またすぐに動き出すでしょう。だから早く」
倒れている武樽に、男たちが数名がかりで縄をかけた。そうしてしばらくすると、松村宗棍の言った通り武樽は目を覚ました。
「気が付いたか、武樽」
「松村宗棍か。お前、なぜ俺を殺さなかった」
「それはお前が頑丈だったからだ。殺しても死なん男だよ、お前は」
その言葉を聞いた武樽は、鼻で笑った。
「嘘だね。お前はあの一撃を俺の秘中(左右の鎖骨の間の急所)に打ち込んだ。しかしそれが人中(鼻の下の急所)であったなら俺は即死していたはずだ。お前は手加減したんだよ。お前はそういう奴だ。男と男の命がけの勝負のはずだったのに台無しにしやがった。まったくお前はチルーには相応しくない。おい、チルー居るか?」
「ここにいるよ」
そう言って足を引きずりながら歩いてくるチルーを見て、松村宗棍が声を上げた。
「だめだ、君は来てはいけない」
「黙れ、見物人」
チルーは冷たくそう言うと、松村宗棍の傍らを通り過ぎ、縄を打たれて座らされている武樽の前に屈みこんだ。
「武樽、なに?」
「チルー、俺は今夜お前を嫁に取るつもりだった。でももうダメみたいなんだ」
そう言うと武樽は、めそめそと泣き出した。
その武樽の頭をチルーはそっと抱き寄せた。
「泣くなんて、あんたらしくもないね。いや、あんたも鬼じゃないってことかしら。そういえば、どうして先生を生かしておいたの?」
「だって大島クルウを殺したら、お前は一生俺を許さないだろう?それは困るからだ」
「ふーん、武樽。いつかあたしがあんたを許すことがあると思っていたの?」
「そのためだったら、どんな償いだってする。お前のためならなんだってするから言ってくれ」
チルーは武樽の前で立ち上がると、静かに言った。
「武樽、もう許したよ」
「・・え?」
「あたしはもうあんたを許した。だからあんたは自分の罪を償いなさい。じゃあね」
武樽は顔を伏せて小刻みに震えていた。
そこにようやくやって来た筑佐事たちが、武樽を引っ立てる。
具志堅親方とその家来ふたりを殺めた罪は重い。おそらくは死をもって償うことになるであろう。
筑佐事に連行されて行く武樽の後ろ姿を、チルーは見えなくなるまで見送った。
あたりはすっかり暗くなっていた。
「松村宗棍!あんたは許さない」
突然チルーが大声で言い放った。
驚いた松村宗棍がチルーの顔を見る。
「あんたは、あたしの復讐を二度も邪魔してくれた。どうしてあんたはいつも他人の人生に中途半端に関わってくるわけ?武樽はこれから晒し者にされて殺されることになるんだよ。どうして真剣勝負の名誉の中で殺してあげなかったの。関わるなら最後まで責任もちなよ。それにいったいどういうつもりであたしに求婚したわけ?暇つぶしかなんか?そういう風に無責任に他人の人生を弄ぶあんたを、あたしは許さない」
松村宗棍は、一瞬目を閉じてから真っすぐにチルーを見つめた。
「返す言葉も無い。私は君や武樽の言う通り常に傍観者だった。単なる見物人だった。それは自分の人生に対してでさえもだ。君に求婚したのは決して暇つぶしなんかじゃない。だが、私は武樽のように無我夢中ではなかった。確かに奴の言った通り、私は君に相応しくないのかもしれない、しかし」
松村宗棍は両手の拳をチルーに突き出して見せた。その拳頭は大きく隆起し、凶器のごとく変形していた。
「私のカラテだけは本物だ。この唯一無二の武術をもってチルー、君に打ち勝ち、君を嫁に取る」
チルーも松村宗棍を真っすぐに見つめて言った。
「そのカラテであたしを殺しなさい。そしてその屍を嫁にしなさい松村宗棍。そうでなければあたしがあんたを殺すから。中途半端なあんたに、その覚悟があるかしら」
怒りに狂っているように見えても、松村宗棍の構えに秘められた恐るべき威力を敏感に感じ取るあたりは、さすが一流の拳法家である。
一方の松村宗棍も構えたまま微動だにしない。
ふたりの男がお互い向かい合ってただ構えたまま、しずかに時間だけが流れる。
見物人がざわつき始めた。
・・・どうしたんだ?ふたりとも睨み合ったままで。
・・・まったく、あいつら寝てるんじゃねえか。
・・・いや、まて。よく見ろ、あの松村とかいう若造の姿を。
日が陰りはじめ、薄暗くなってきたウガンジュの広場に立つ松村宗棍の姿は、うっすらと光って見えたのだ。
このときまで、琉球の誰もが松村宗棍のカラテという武術の正体を知らなかった。カラテとは公相君が伝え、佐久川が流行らせたトーデ(中国拳法)に似ていて、しかしまったく趣を異にする独特の武術なのだ。
松村宗棍は師であるトーデ佐久川と、さらに佐久川の師である北京の武術教官イワーより学んだ中国拳法に、薩摩で学んだ示現流剣術の戦闘思想を取り込んでいた。それこそが今日の空手にも脈々と受け継がれることになる、空手が空手であり得る要件と言っても良い『一撃必殺』の思想である。
今や武樽と立ち合っている松村宗棍にとって、八加二帰八も有無手も三角飛びも、その他の秘技、極意の類も、すべてが無用な虚飾に過ぎなかった。色も無い、音も聞こえない世界に松村宗棍は居た。
ただ一拳の打突あるのみ。
その極限までの集中力が霊妙な力を松村宗棍に宿し、あたりの者の目にその姿を光らせて見せていたのであろう。
(・・はっ、ここは?)
「チルー、目が覚めたか」
「お父様、私はいったい?」
そう言いながらもチルーはあたりに漂う濃密な闘気に気付き、いそいで状況を理解しようとした。
(ここはウガンジュの広場、あれは・・泊の武樽と松村宗棍?どうして、それは私の闘い)
チルーは鉛のように重く、動くたびに激痛の走る身体をなんとか奮い立たせようとした。
そのチルーの肩にそっと手を置く者が居た。
「チルー、お前の闘いは終わったのだ。お前の勝ちじゃ」
「・・せ、先生?」
それはまさに大島クルウであった。
「先生、ご無事だったのですか?」
「ああ、うん。まあな。武樽には完敗じゃったが、気を失っただけで済んだ」
「よかった・・・私はてっきり・・・」
チルーは涙ぐんでいた。
「心配かけたな。しかしお前が泣く顔を見るのは初めてじゃ」
大島クルウの言葉どおり、チルーが泣くのはいつのこと以来であったろうか。
「ごめんなさい先生。でもいつまでも泣いてはいられません。武樽は私が倒さねば」
「いや、お前の闘いはもう終わったのじゃ。あのふたりの姿を見なさい」
じっと身構えたまま動かないふたりの男の姿が、ぼんやりと光っている。
「あれはいったい?」
「あれはケンカじゃ。何千年、何万年、いやもっと古くから繰り返されている、ひとりの女を巡っての男と男のケンカじゃ。お前はもうただ見守るしかない」
もう日がほとんど沈みかけている。この逢魔が時に、ふたりの男のうちどちらが先に動いたのかは誰にもわからなかった。
ただふたつの影が一瞬の間に交差したあと、ひとつの影が倒れ、もうひとつの影は立っていた。
倒れたのは泊の武樽であった。
立っている松村宗棍はそれでも構えを解かず、倒れている武樽をあたかもまだ戦闘が続行しているごとく見据えていた。これも松村宗棍が薩摩の剣術から学び、自らのカラテに取り入れた『残心』の心得である。
しばらくの後、松村宗棍はようやく構えを解き声を発した。
「早く武樽に縄をかけてください」
「殺してはいないのか?」
チルーの父親が尋ねる。
「ええ、おそらく死んではいません。またすぐに動き出すでしょう。だから早く」
倒れている武樽に、男たちが数名がかりで縄をかけた。そうしてしばらくすると、松村宗棍の言った通り武樽は目を覚ました。
「気が付いたか、武樽」
「松村宗棍か。お前、なぜ俺を殺さなかった」
「それはお前が頑丈だったからだ。殺しても死なん男だよ、お前は」
その言葉を聞いた武樽は、鼻で笑った。
「嘘だね。お前はあの一撃を俺の秘中(左右の鎖骨の間の急所)に打ち込んだ。しかしそれが人中(鼻の下の急所)であったなら俺は即死していたはずだ。お前は手加減したんだよ。お前はそういう奴だ。男と男の命がけの勝負のはずだったのに台無しにしやがった。まったくお前はチルーには相応しくない。おい、チルー居るか?」
「ここにいるよ」
そう言って足を引きずりながら歩いてくるチルーを見て、松村宗棍が声を上げた。
「だめだ、君は来てはいけない」
「黙れ、見物人」
チルーは冷たくそう言うと、松村宗棍の傍らを通り過ぎ、縄を打たれて座らされている武樽の前に屈みこんだ。
「武樽、なに?」
「チルー、俺は今夜お前を嫁に取るつもりだった。でももうダメみたいなんだ」
そう言うと武樽は、めそめそと泣き出した。
その武樽の頭をチルーはそっと抱き寄せた。
「泣くなんて、あんたらしくもないね。いや、あんたも鬼じゃないってことかしら。そういえば、どうして先生を生かしておいたの?」
「だって大島クルウを殺したら、お前は一生俺を許さないだろう?それは困るからだ」
「ふーん、武樽。いつかあたしがあんたを許すことがあると思っていたの?」
「そのためだったら、どんな償いだってする。お前のためならなんだってするから言ってくれ」
チルーは武樽の前で立ち上がると、静かに言った。
「武樽、もう許したよ」
「・・え?」
「あたしはもうあんたを許した。だからあんたは自分の罪を償いなさい。じゃあね」
武樽は顔を伏せて小刻みに震えていた。
そこにようやくやって来た筑佐事たちが、武樽を引っ立てる。
具志堅親方とその家来ふたりを殺めた罪は重い。おそらくは死をもって償うことになるであろう。
筑佐事に連行されて行く武樽の後ろ姿を、チルーは見えなくなるまで見送った。
あたりはすっかり暗くなっていた。
「松村宗棍!あんたは許さない」
突然チルーが大声で言い放った。
驚いた松村宗棍がチルーの顔を見る。
「あんたは、あたしの復讐を二度も邪魔してくれた。どうしてあんたはいつも他人の人生に中途半端に関わってくるわけ?武樽はこれから晒し者にされて殺されることになるんだよ。どうして真剣勝負の名誉の中で殺してあげなかったの。関わるなら最後まで責任もちなよ。それにいったいどういうつもりであたしに求婚したわけ?暇つぶしかなんか?そういう風に無責任に他人の人生を弄ぶあんたを、あたしは許さない」
松村宗棍は、一瞬目を閉じてから真っすぐにチルーを見つめた。
「返す言葉も無い。私は君や武樽の言う通り常に傍観者だった。単なる見物人だった。それは自分の人生に対してでさえもだ。君に求婚したのは決して暇つぶしなんかじゃない。だが、私は武樽のように無我夢中ではなかった。確かに奴の言った通り、私は君に相応しくないのかもしれない、しかし」
松村宗棍は両手の拳をチルーに突き出して見せた。その拳頭は大きく隆起し、凶器のごとく変形していた。
「私のカラテだけは本物だ。この唯一無二の武術をもってチルー、君に打ち勝ち、君を嫁に取る」
チルーも松村宗棍を真っすぐに見つめて言った。
「そのカラテであたしを殺しなさい。そしてその屍を嫁にしなさい松村宗棍。そうでなければあたしがあんたを殺すから。中途半端なあんたに、その覚悟があるかしら」