二枚の赦し
文字数 2,051文字
俺の人生ってなんだろう。ベッドに寝そべって、ぼんやりと天井を眺める。
薄汚れて黄ばんだ壁紙が所々たわんでいる。窓と桟の間に隙間があって北風が吹きこんでくる。
俺にぴったりの貧相な部屋。繁華街の路地裏の薄汚いアパートの一室、負け犬の住処だ。
小さな頃から何をしてもダメだった。
勉強も運動も人並みに出来た事などなにもない。負けっぱなしだ。じゃんけんでさえ勝った事が無い。
もちろん就職活動も勝ち抜くことなんかできなかった。最低賃金しか払ってくれないバイトでなんとか食いつないでいる、この毎日。
それでも諦める事ができない。俺はいつだって勝ちたい。手を抜いているわけではない。
いつだって力を尽くして、それでダメなのだ。
勉強だって運動だって就職活動だって必死でやった、それなのに。
救いようもない。このまま世界の隅に埋もれている事に対する恐怖が背中を駆けあがり、脳天まで痺れさせる。
焦りが俺に走れと命令する。けれど俺はどこへ向かえばいいのか、知りようもない。
窓から赤い陽がさし込んでいた。明日も晴れるのだろうか。
せめて晴れてくれたら助かる。スニーカーに穴が開いていて、水がしみてくるのだ。けれど買い換えるような金は無い。
実家に帰るわけにはいかない。帰れば家を相続した兄に嫌な顔をされる。負け犬の俺を蔑む目をする出来のいい兄。
兄に頭を下げ、負けを認め、食わせてくださいと取り縋ったらどれだけ楽だろう。
けれど俺の心は痛いほど、勝ちたいと思うのだ。
空腹を水でごまかして早朝に部屋を出る。バイト先まで電車で三駅、歩いていく。
底がすり減ったスニーカーでは衝撃を吸収できず、最近は足の裏が固くなってきた気がする。そのうち裸足で歩けそうだ。
道の先、なにか黒っぽいものが落ちている。
ゴミ袋かと思って近づくと、襤褸を着た人間だった。
伸び放題のヒゲ、垢で黒ずんだ皮膚、目を大きく開いたままぴくりとも動かない。
ぞっとした。俺の末路を見た気がした。
俺は震える手で、浮浪者の体に触れた。その体は、指先が触れただけでずっしりとした重みを感じさせた。死の重みだ。
誰にも看取られずゴミ屑のような死でも、重みは変わらず誰にとっても平等なのだ。
そうだ、俺もこいつも兄も金持ちも貧乏人も皆、死は平等なのだ。
俺はそっと死体の手に触れた。男は何かを握りしめていた。
指を開かせてみると、一万円札が二枚握られていた。俺はその札を自分のジーンズのポケットに突っ込んだ。
周囲を見渡し人目が無い事を確かめると、急ぎ足でその場を離れた。
どうしてそんなことをしたのか分からない。しかし後悔はしていなかった。これは俺の革命だ。
俺はその金でパチンコをして大当たりを出した。十倍に膨らんだ金で宝くじを買い、それも当たった。
ツキが回ってきたのだ。
金回りはどんどん良くなっていった。
部屋を引っ越し、スーツを買い、就職活動をした。一件目の面接で合格し、正社員として働くことになった。
勝ったのだ、俺は人生に勝ったのだ。拳を握りしめ口にあてた。そうしていないと叫びだしそうだった。
笑いが腹の底から湧いて来て、同時に涙も流れてきた。俺は泣きながら笑った。
おかしくなったのは、それから二ヶ月たったころからだ。
最初に気付いたのは爪の汚れだった。爪と皮膚の間に垢が溜まる。何度洗ってもその真っ黒な汚れはとれない。
次に目が黄色く濁って、肌も同じように黄色く、かさつくようになっていた。体がだるくて仕方なく、病院へ行った。
だがどこも悪いところはなかった。体はどんどん重くなり、食欲もなく、体重はあっという間に落ちていった。
思い当たるのは、あの男の事だ。あの二万円、あれが俺に祟っているのではないか?
非現実的な想像は、払おうとしても頭から払う事が出来ず、俺から眠りを奪っていった。
一人でいるのが恐くて、俺は夜明けまで飲み歩いた。べろべろに酔ったまま仕事に行く。解雇されるのはすぐだった。
元の生活に、いや、それよりもひどい最底辺まで転がり落ちた。住むところも食べるものも無く、着の身着のまま街をうろつく者になっていった。
気付いた時には道端に倒れていた。
手にはなけなしの一万円札が二枚。俺が持っているのは、もうそれだけだった。
ぎゅっと握りしめようとして、力が入らない事に気付いた。
足音が聞こえ、俺の目の前に薄汚れたスニーカーが現れた。そのスニーカーの主はしゃがみ込むと俺の手から二枚の札を取り上げ歩いていった。
ああ、お前、お前も俺なんだな。俺は去っていった負け犬を憐れんだ。
生まれて初めて俺は誰かを憐れんだ。それは勝ち負けではなく、俺とあいつと、あの時の浮浪者と、すべての命を平等に慈しむ思いだった。
俺は静かに目を瞑る。
誰かあいつを助けてやってくれ。俺の命はもうすぐ終わる。勝ち負けに関係ない世界に行く。
だから誰か、あいつを勝たせてやってくれ。俺の二万円を持って行ったやつを、赦してやってくれ。
誰か―――。
薄汚れて黄ばんだ壁紙が所々たわんでいる。窓と桟の間に隙間があって北風が吹きこんでくる。
俺にぴったりの貧相な部屋。繁華街の路地裏の薄汚いアパートの一室、負け犬の住処だ。
小さな頃から何をしてもダメだった。
勉強も運動も人並みに出来た事などなにもない。負けっぱなしだ。じゃんけんでさえ勝った事が無い。
もちろん就職活動も勝ち抜くことなんかできなかった。最低賃金しか払ってくれないバイトでなんとか食いつないでいる、この毎日。
それでも諦める事ができない。俺はいつだって勝ちたい。手を抜いているわけではない。
いつだって力を尽くして、それでダメなのだ。
勉強だって運動だって就職活動だって必死でやった、それなのに。
救いようもない。このまま世界の隅に埋もれている事に対する恐怖が背中を駆けあがり、脳天まで痺れさせる。
焦りが俺に走れと命令する。けれど俺はどこへ向かえばいいのか、知りようもない。
窓から赤い陽がさし込んでいた。明日も晴れるのだろうか。
せめて晴れてくれたら助かる。スニーカーに穴が開いていて、水がしみてくるのだ。けれど買い換えるような金は無い。
実家に帰るわけにはいかない。帰れば家を相続した兄に嫌な顔をされる。負け犬の俺を蔑む目をする出来のいい兄。
兄に頭を下げ、負けを認め、食わせてくださいと取り縋ったらどれだけ楽だろう。
けれど俺の心は痛いほど、勝ちたいと思うのだ。
空腹を水でごまかして早朝に部屋を出る。バイト先まで電車で三駅、歩いていく。
底がすり減ったスニーカーでは衝撃を吸収できず、最近は足の裏が固くなってきた気がする。そのうち裸足で歩けそうだ。
道の先、なにか黒っぽいものが落ちている。
ゴミ袋かと思って近づくと、襤褸を着た人間だった。
伸び放題のヒゲ、垢で黒ずんだ皮膚、目を大きく開いたままぴくりとも動かない。
ぞっとした。俺の末路を見た気がした。
俺は震える手で、浮浪者の体に触れた。その体は、指先が触れただけでずっしりとした重みを感じさせた。死の重みだ。
誰にも看取られずゴミ屑のような死でも、重みは変わらず誰にとっても平等なのだ。
そうだ、俺もこいつも兄も金持ちも貧乏人も皆、死は平等なのだ。
俺はそっと死体の手に触れた。男は何かを握りしめていた。
指を開かせてみると、一万円札が二枚握られていた。俺はその札を自分のジーンズのポケットに突っ込んだ。
周囲を見渡し人目が無い事を確かめると、急ぎ足でその場を離れた。
どうしてそんなことをしたのか分からない。しかし後悔はしていなかった。これは俺の革命だ。
俺はその金でパチンコをして大当たりを出した。十倍に膨らんだ金で宝くじを買い、それも当たった。
ツキが回ってきたのだ。
金回りはどんどん良くなっていった。
部屋を引っ越し、スーツを買い、就職活動をした。一件目の面接で合格し、正社員として働くことになった。
勝ったのだ、俺は人生に勝ったのだ。拳を握りしめ口にあてた。そうしていないと叫びだしそうだった。
笑いが腹の底から湧いて来て、同時に涙も流れてきた。俺は泣きながら笑った。
おかしくなったのは、それから二ヶ月たったころからだ。
最初に気付いたのは爪の汚れだった。爪と皮膚の間に垢が溜まる。何度洗ってもその真っ黒な汚れはとれない。
次に目が黄色く濁って、肌も同じように黄色く、かさつくようになっていた。体がだるくて仕方なく、病院へ行った。
だがどこも悪いところはなかった。体はどんどん重くなり、食欲もなく、体重はあっという間に落ちていった。
思い当たるのは、あの男の事だ。あの二万円、あれが俺に祟っているのではないか?
非現実的な想像は、払おうとしても頭から払う事が出来ず、俺から眠りを奪っていった。
一人でいるのが恐くて、俺は夜明けまで飲み歩いた。べろべろに酔ったまま仕事に行く。解雇されるのはすぐだった。
元の生活に、いや、それよりもひどい最底辺まで転がり落ちた。住むところも食べるものも無く、着の身着のまま街をうろつく者になっていった。
気付いた時には道端に倒れていた。
手にはなけなしの一万円札が二枚。俺が持っているのは、もうそれだけだった。
ぎゅっと握りしめようとして、力が入らない事に気付いた。
足音が聞こえ、俺の目の前に薄汚れたスニーカーが現れた。そのスニーカーの主はしゃがみ込むと俺の手から二枚の札を取り上げ歩いていった。
ああ、お前、お前も俺なんだな。俺は去っていった負け犬を憐れんだ。
生まれて初めて俺は誰かを憐れんだ。それは勝ち負けではなく、俺とあいつと、あの時の浮浪者と、すべての命を平等に慈しむ思いだった。
俺は静かに目を瞑る。
誰かあいつを助けてやってくれ。俺の命はもうすぐ終わる。勝ち負けに関係ない世界に行く。
だから誰か、あいつを勝たせてやってくれ。俺の二万円を持って行ったやつを、赦してやってくれ。
誰か―――。