瞳をとじて

文字数 1,731文字

 ソナタを聞くときに瞳を閉じたことはある?

 たとえばラフマニノフのチェロソナタ。
 ラフマニノフが産み出した、チェロの声を存分に生かしたロマンティシズム。
 チェロの存在感ある低音が高く響く第三楽章の終わり。

 ふと瞳を閉じると、今まで伴奏かと思うほど控えめだったピアノが奥深く草原のように広がって。
 その上を自由に駆けるチェロはまるで翼を持っているよう。
 大事なのは、瞳を閉じることだけ。あなたにもきっと見えるわ、あの景色が。

 彼女はそう言って、そっとまぶたを落とし、ハミングした。
 歌う彼女の背中にこそ翼がはえているようだと思う。

 僕はいつも彼女の外出に付き合う。
 出かけると決めると、彼女は時間をかけて洋服を選び、丁寧に化粧をし、口紅をぬる。
 僕は飽かず彼女を見つめる。

 どう? きれいかしら?

 彼女はくるりと回って見せる。
 彼女のスカートがふわりと広がる。こんなに美しいものを、僕は他に知らない。

 洋服を買うときも彼女は時間をかけてじっくりと選ぶ。店員に次々質問する。

 今の流行りはどんなもの? 色は?
 この服、着心地はすごく素敵だけど、私に似合っていると思う? 

 大抵の店員は彼女が何を着ても似合うと言う。
 彼女は純粋すぎて、お世辞や嘘に気づかない。僕はそんなとき、彼女の腕をそっと引っ張る。
 彼女はその店で買うのをやめ、次の店に行く。

 だって誉めてもらったらうれしいんだもの

 彼女は美容室選びも下手だ。
 大抵の店員は彼女をよく見もせず、その時の流行りの髪型に仕上げてしまう。
 それでも彼女はしあわせそうに笑う。

 ある日、僕は一軒の美容室の前で思わず足を止めた。
 美容室の中に一頭の立派なレトリバーがいたからだ。

 どうしたの?

 彼女に呼ばれて我にかえった。
 いけない。エスコートしている途中に彼女以外のものに目をとられるなんて。

 いらっしゃいませ

 店の中から感じの良い青年が出てきた。清潔なシャツを着て、笑顔は本物だった。

 カットですか? すぐにご案内できますよ

 いえ、あの……

 彼女は髪に手をあてた。
 朝のラジオのニュースで季節の変わり目の話を聞きながら彼女は、そろそろ髪を切ろうかしらと呟いていた。
 僕は黙って彼女の顔を見つめる。

 じゃあ、お願いしようかしら

 彼女は美容室の椅子に座り、僕は待ち合いに座って待つ。
 すぐそばにレトリバーがやってきて、大人しく座った。

 ダークっていうんですよ。毛の色が黒だから

 青年がいとおしそうにレトリバーを見る。レトリバーは軽く尻尾を振る。

 彼女と青年はどんな髪型にするのか、真剣に話し合った。
 今の流行りの形はどんなものか。彼女の輪郭や瞳の大きさ、形の良い耳を見せるために短くするのか、長い髪を耳にかけるのか。
 色は? パーマは?
 そのたび青年はいくつかの提案をし、彼女が少し考えてから小さくうなずき決めていく。
 僕はそのやりとりに満足して傍らをみた。
 ダークは前足に頭を乗せて安らかな寝息をたてはじめた。

 それから一時間。
 青年が彼女の髪を巻き終えケープをはずす。
襟首の髪の切れ端を払い、彼女の後ろに小さな鏡をさしだす。

 いかがでしょう

 彼女は手のひらで軽く髪を持ち上げてみたり、右を向いたり左を向いたりしてみる。

 どうかしら、似合ってます?

 青年は丁寧に彼女の全体を眺め、誠実に答えた。

 とても美しいです

 彼女はうれしそうに、にっこりと笑う。
 僕は立ち上がり、彼女のそばへ歩いていく。
 ダークが僕の後ろをついてくる。
 青年がダークの首輪をそっと握り、僕から引き離してくれた。

 だめだよ、ダーク。彼は仕事中なんだ。

 僕は彼女の脇、定位置に立つ。
 彼女は僕の胴体につけられたハーネスのハンドルをつかみ、立ち上がる。
 青年が手を貸そうとしたけれど、彼女はやんわりと断った。

 私には、ちゃんと目がありますから

 彼女はそう言って僕を指差す。僕は誇らしさに胸を張り、尻尾を振る。

 青年に見送られ店を出た。彼女は少し進んで立ち止まると、僕に尋ねた。

 綺麗になったでしょう。
 私は世界一の美女でしょう?

 僕は彼女を見つめ、そっと尻尾を振った。
 彼女は満足げに瞳を閉じると、美しい翼を広げ羽ばたくように、明るく自由な一歩を踏み出した
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