夢なるは夢のまた夢
文字数 1,939文字
休日、その娘はカーテンを開けない。電気もつけない。薄暗い部屋の中、布団を被ったまま出てこない。
うつらうつらと薬のせいでおとずれない夢と苦しめられるだけの現に揺られながら、真っ黒な眠りに落ちるまでのひととき、己の肌に爪を立てる。
肘の内側から手首まで真っ直ぐな線を引く。
手首から肘の内側まで線を引く。
その娘の腕にはもうすでに無数の線が刻まれていて、新たな線が加わって幾何学模様を描き出す。
丹念に何度も爪で傷をつける。満足いくと反対の腕も同じように。
そして少し微笑む。
その娘はいつでも長袖のシャツを着る。誰もその娘の傷を知らない。その娘の休日の薄暗い儀式を知らない。
その娘は傷をうっとりと撫でる。そして少し微睡む。
現実はその娘にとって何の微風でも味でもない。ただ徒にその娘を傷つけるだけだ。魂を傷つけるだけだ。
だからその娘は傷をつける。体の痛みが魂の軋みをまぎらせてくれるから。その娘の両腕に引かれた線は、その娘と現実をかろうじて繋ぐ細い糸だ。
その娘はカーテンを開けない。電気もつけない。薄暗い部屋の中、傷だらけの腕を抱き、安らかに眠る。
くすくすくすくすくすくす。
なんて馬鹿ななんて醜いなんて臭い。
くすくすくすくすくすくす。
その娘は飛び起きる。窓の外から嘲笑が聞こえる。耳をふさぐ。壁を見上げる。出社時刻が迫っている。耳をふさぐ。くすくすくすくすくす。嘲笑が。出社時刻が。くすくすくすくすくす。目を覆う。くすくす。
乱れた髪のまま飛び出していく。くすくす。電車に乗る。くすくすくす。スーツの皺を伸ばそうとする。くすくすくすくす。辺りを見回す、みんながその娘の醜態に注目している。くすくすくすくすくす。なんて醜い。なんてだらしない。なんてどんくさい娘だろう。そんな娘は誰にも愛されやしないよ。くすくすくすくすくすくす。笑う。笑うな。笑え。
その娘は幾何学模様を握りしめる。
「無夢朝」という薬があると知った。睡眠薬だ。
今まで飲んでいた処方薬より断然強い薬だという。その娘は薬売りに金を払い家に帰る。
休日前の一番気が重い日をなんとかやり過ごし、処方薬を飲んでも効かず安らかな夢も得られない現をかなぐり捨て、その娘は「無夢朝」を酒で飲み下した。
それはすぐにやってきた。
酒が与えてくれる酩酊の底から暖かい毛布のような安心感が湧きおこり、その娘を眠りに誘った。
ふわりと体が浮くような感覚を最後にその娘の意識は闇に落ちた。
目が覚めるとその娘は重だるい体を引き起こし空っぽの胃の中の苦く酸っぱい胃液を吐いた。喉がひりつく。その痛みがその娘に微笑をくれた。その娘は毎夜毎夜「無夢朝」と酒を飲んだ。
「無夢朝」を飲んで眠りがやってくるまでの間、その娘は腕に傷をつける。うっとりと傷を見つめる。赤く腫れた爪の痕。やがて白くなりレースのようにその娘を飾る。その娘は毎夜レースをまとって街明かりに汚された薄暗い部屋の中、夢のない眠りの中に舞い下りる。
目が覚め、胃液を吐く。部屋は変わらず薄暗い。
おかしい。
いつもならとっくに朝が来ているはずなのに。
その娘は壁の時計を見上げる。
眠ってからまだ三時間しかたっていない。
もう一度「無夢朝」と酒を飲む。
ゆっくりと横たわり、目を閉じる。
目が覚め、吐く胃液さえもなく唇はかさかさに乾いている。
壁の時計を見上げる。
眠ってからまだ一時間。
恐怖が背筋を駆け上る。
眠れない。
眠れない。眠れない眠れないねむれない眠れない眠れない眠れない眠れない眠れない眠れない眠れない眠れないねむれない眠れない眠れない眠れないねむれない眠れない眠れないねむれない眠れない眠れない眠れないねむれない
眠れない。
腕に爪をたて血が流れる。
顔に爪をたて血が流れる。
肩に爪をたて血が流れる。
その娘はありったけの「無夢朝」と酒を飲みほした。
その娘はカーテンを開ける。月がのぼっている。街の明かりが部屋の中を照らす。
その娘は外の景色を見渡してそっとカーテンを閉める。
その娘はゆったりと横たわる。流れ出る血を指で取り、うっとりと見つめる。
その娘はふわりと浮かぶような感覚を味わう。まるで水に沈んでいくような。
その娘はゆっくり目をつぶる。薄暗い瞼の奥からだんだん漆黒が立ち上る。
その娘は暗い黒に身をゆだね眠りの中に落ちていく。
その娘はもう現の影におびえない。現の痛みに耐える事もない。
休日、その娘はカーテンを開けない。電気もつけない。薄暗い部屋の中、布団を被ったまま出てこない。
もう二度と、出て来ない。
夢の無い朝に彼女は眠りを手に入れる。
本当の、安らかな、眠りを。
その娘は時間をかけて編んだレースに包まれ安らかに眠る。
うつらうつらと薬のせいでおとずれない夢と苦しめられるだけの現に揺られながら、真っ黒な眠りに落ちるまでのひととき、己の肌に爪を立てる。
肘の内側から手首まで真っ直ぐな線を引く。
手首から肘の内側まで線を引く。
その娘の腕にはもうすでに無数の線が刻まれていて、新たな線が加わって幾何学模様を描き出す。
丹念に何度も爪で傷をつける。満足いくと反対の腕も同じように。
そして少し微笑む。
その娘はいつでも長袖のシャツを着る。誰もその娘の傷を知らない。その娘の休日の薄暗い儀式を知らない。
その娘は傷をうっとりと撫でる。そして少し微睡む。
現実はその娘にとって何の微風でも味でもない。ただ徒にその娘を傷つけるだけだ。魂を傷つけるだけだ。
だからその娘は傷をつける。体の痛みが魂の軋みをまぎらせてくれるから。その娘の両腕に引かれた線は、その娘と現実をかろうじて繋ぐ細い糸だ。
その娘はカーテンを開けない。電気もつけない。薄暗い部屋の中、傷だらけの腕を抱き、安らかに眠る。
くすくすくすくすくすくす。
なんて馬鹿ななんて醜いなんて臭い。
くすくすくすくすくすくす。
その娘は飛び起きる。窓の外から嘲笑が聞こえる。耳をふさぐ。壁を見上げる。出社時刻が迫っている。耳をふさぐ。くすくすくすくすくす。嘲笑が。出社時刻が。くすくすくすくすくす。目を覆う。くすくす。
乱れた髪のまま飛び出していく。くすくす。電車に乗る。くすくすくす。スーツの皺を伸ばそうとする。くすくすくすくす。辺りを見回す、みんながその娘の醜態に注目している。くすくすくすくすくす。なんて醜い。なんてだらしない。なんてどんくさい娘だろう。そんな娘は誰にも愛されやしないよ。くすくすくすくすくすくす。笑う。笑うな。笑え。
その娘は幾何学模様を握りしめる。
「無夢朝」という薬があると知った。睡眠薬だ。
今まで飲んでいた処方薬より断然強い薬だという。その娘は薬売りに金を払い家に帰る。
休日前の一番気が重い日をなんとかやり過ごし、処方薬を飲んでも効かず安らかな夢も得られない現をかなぐり捨て、その娘は「無夢朝」を酒で飲み下した。
それはすぐにやってきた。
酒が与えてくれる酩酊の底から暖かい毛布のような安心感が湧きおこり、その娘を眠りに誘った。
ふわりと体が浮くような感覚を最後にその娘の意識は闇に落ちた。
目が覚めるとその娘は重だるい体を引き起こし空っぽの胃の中の苦く酸っぱい胃液を吐いた。喉がひりつく。その痛みがその娘に微笑をくれた。その娘は毎夜毎夜「無夢朝」と酒を飲んだ。
「無夢朝」を飲んで眠りがやってくるまでの間、その娘は腕に傷をつける。うっとりと傷を見つめる。赤く腫れた爪の痕。やがて白くなりレースのようにその娘を飾る。その娘は毎夜レースをまとって街明かりに汚された薄暗い部屋の中、夢のない眠りの中に舞い下りる。
目が覚め、胃液を吐く。部屋は変わらず薄暗い。
おかしい。
いつもならとっくに朝が来ているはずなのに。
その娘は壁の時計を見上げる。
眠ってからまだ三時間しかたっていない。
もう一度「無夢朝」と酒を飲む。
ゆっくりと横たわり、目を閉じる。
目が覚め、吐く胃液さえもなく唇はかさかさに乾いている。
壁の時計を見上げる。
眠ってからまだ一時間。
恐怖が背筋を駆け上る。
眠れない。
眠れない。眠れない眠れないねむれない眠れない眠れない眠れない眠れない眠れない眠れない眠れない眠れないねむれない眠れない眠れない眠れないねむれない眠れない眠れないねむれない眠れない眠れない眠れないねむれない
眠れない。
腕に爪をたて血が流れる。
顔に爪をたて血が流れる。
肩に爪をたて血が流れる。
その娘はありったけの「無夢朝」と酒を飲みほした。
その娘はカーテンを開ける。月がのぼっている。街の明かりが部屋の中を照らす。
その娘は外の景色を見渡してそっとカーテンを閉める。
その娘はゆったりと横たわる。流れ出る血を指で取り、うっとりと見つめる。
その娘はふわりと浮かぶような感覚を味わう。まるで水に沈んでいくような。
その娘はゆっくり目をつぶる。薄暗い瞼の奥からだんだん漆黒が立ち上る。
その娘は暗い黒に身をゆだね眠りの中に落ちていく。
その娘はもう現の影におびえない。現の痛みに耐える事もない。
休日、その娘はカーテンを開けない。電気もつけない。薄暗い部屋の中、布団を被ったまま出てこない。
もう二度と、出て来ない。
夢の無い朝に彼女は眠りを手に入れる。
本当の、安らかな、眠りを。
その娘は時間をかけて編んだレースに包まれ安らかに眠る。