どこまでも透明な青を見た
文字数 1,594文字
気がつくと、空を見上げていた。
体の下にはやわらかな草の感覚がある。
そっと首をもたげて見ると、辺り一面の花畑だった。あたたかな陽光に花たちがきらめくように揺れていた。
ゆっくりと体を起こして、ゆっくりと立ち上がる。首を振って手足を振ってみる。どこにも痛みは無いことを確かめると、ゆっくりゆっくりと歩き出した。
何もかもがゆったりとしていた。頬をくすぐる風さえも心の底まで通り抜け、爽やかに軽やかに栄養になっていくようだ。
歩くべき方角は、はっきりとわかった。そこに行くのだと産まれた時から知っていた。
花畑はどこまでも続く。
ふとしゃがみ込んでひとつの花の一枚の花びらに触れてみた。指先にふわりとあたたかさが伝わってくる。それだけで満足して花は摘まずに先へ進む。
バラの生け垣が見えてきた。美しい庭園だ。近づくごとに、人々の明るいざわめきが聞こえてくる。
バラのアーチ門をくぐって庭園に足を踏み入れる。
きれいに刈りそろえられた芝生、広いテーブルにまっ白なテーブルクロス、多くの人が席につき、喋りさざめき笑い合っている。
ふと不安になった。ここに招かれずに入ってきてしまったけれど、追い返されたりしないだろうか。
透明な水を吹く噴水から水がひかれ、小さな小川が作られている。その小川の向こうに足を伸ばすことは躊躇われた。
『どうぞこちらへ来て、あなたの話を聞かせてちょうだい』
小川の向こう、優しい微笑みの美しい女性が語りかけた。笑顔になって一歩踏み出そうとする。女性は言葉を続けた。
『あなたは何を為してきたの?』
何を為して?
結婚もしていない、子供を育て上げたわけでもない、仕事で成功もしていない、何もない、何も為していない。
振り返って駆けだした。もどらなければ、あそこへ。何かを為さねば、懸命になにかを為さねば、あの優しい人たちに話せる事が何もない。
どこまでも続く花畑を駆け続ける。花畑はだんだん空に向かい、走り続けて空の中に駆けこんだ。どこまでも青い空に吸い込まれ
気がつくと、空を見あげていた。
「大丈夫ですか!?」
かけられた声にそちらを向くと、救急隊員が私の顔をのぞき込んでいた。
「自分の名前を言えますか?」
口を開いても、声はまったく出てこない。
胸が締め付けられ呼吸はぜいぜいと音高いのに、酸素はちっとも入ってこない。ストレッチャーで救急車に乗せられる。
けたたましいサイレンの中、救急隊員が一生懸命搬送先の病院を探している声が聞こえる。
目の前が暗くなり、次第に目が見えなくなってきた。手も足も動かせない。それでもサイレンは聞こえ続ける。
何時間も過ぎたように感じる苦しい十分間のあと、病院に搬送されたところで意識を失った。
次に気がついた時には枕元に母が立っていた。泣きそうな、怒っているような顔で私を見ていた。
「肺の血管に血の塊が詰まったそうよ。もう少しで死ぬところだったって」
酸素マスクが付けられた今でも、胸は苦しく呼吸がつらい。それでも手足は動く、目は見える。
私が寝ているのは集中治療室のようで、何台も並べられたベッドと忙しく立ち働く何人もの看護師で室内はざわついていた。私の腕には点滴の管が刺さっていて、ぽつりぽつりと液体が落ち続けている。
私は噴水のことを思い出す。とうとうと流れていた水のことを思い出す。そしてどこまでも青い空のことを思い出す。
あの場所へ行きたかった。けれど私には、まだそこへ行く資格がないのだ。
「夕食が来ていますが、食べられますか?」
病院食が乗ったお盆を持った看護師が声をかけてきた。あいかわらず呼吸はろくにできていなくて、酸素マスクを外すことは恐かった。けれど、私は。
「食べます」
酸素マスクを外し、ベッドの背を高くして食事と向き合った。
今はまだ分からない何かを為す、その時のために。
私は両手をあわせて箸を手に取った。
体の下にはやわらかな草の感覚がある。
そっと首をもたげて見ると、辺り一面の花畑だった。あたたかな陽光に花たちがきらめくように揺れていた。
ゆっくりと体を起こして、ゆっくりと立ち上がる。首を振って手足を振ってみる。どこにも痛みは無いことを確かめると、ゆっくりゆっくりと歩き出した。
何もかもがゆったりとしていた。頬をくすぐる風さえも心の底まで通り抜け、爽やかに軽やかに栄養になっていくようだ。
歩くべき方角は、はっきりとわかった。そこに行くのだと産まれた時から知っていた。
花畑はどこまでも続く。
ふとしゃがみ込んでひとつの花の一枚の花びらに触れてみた。指先にふわりとあたたかさが伝わってくる。それだけで満足して花は摘まずに先へ進む。
バラの生け垣が見えてきた。美しい庭園だ。近づくごとに、人々の明るいざわめきが聞こえてくる。
バラのアーチ門をくぐって庭園に足を踏み入れる。
きれいに刈りそろえられた芝生、広いテーブルにまっ白なテーブルクロス、多くの人が席につき、喋りさざめき笑い合っている。
ふと不安になった。ここに招かれずに入ってきてしまったけれど、追い返されたりしないだろうか。
透明な水を吹く噴水から水がひかれ、小さな小川が作られている。その小川の向こうに足を伸ばすことは躊躇われた。
『どうぞこちらへ来て、あなたの話を聞かせてちょうだい』
小川の向こう、優しい微笑みの美しい女性が語りかけた。笑顔になって一歩踏み出そうとする。女性は言葉を続けた。
『あなたは何を為してきたの?』
何を為して?
結婚もしていない、子供を育て上げたわけでもない、仕事で成功もしていない、何もない、何も為していない。
振り返って駆けだした。もどらなければ、あそこへ。何かを為さねば、懸命になにかを為さねば、あの優しい人たちに話せる事が何もない。
どこまでも続く花畑を駆け続ける。花畑はだんだん空に向かい、走り続けて空の中に駆けこんだ。どこまでも青い空に吸い込まれ
気がつくと、空を見あげていた。
「大丈夫ですか!?」
かけられた声にそちらを向くと、救急隊員が私の顔をのぞき込んでいた。
「自分の名前を言えますか?」
口を開いても、声はまったく出てこない。
胸が締め付けられ呼吸はぜいぜいと音高いのに、酸素はちっとも入ってこない。ストレッチャーで救急車に乗せられる。
けたたましいサイレンの中、救急隊員が一生懸命搬送先の病院を探している声が聞こえる。
目の前が暗くなり、次第に目が見えなくなってきた。手も足も動かせない。それでもサイレンは聞こえ続ける。
何時間も過ぎたように感じる苦しい十分間のあと、病院に搬送されたところで意識を失った。
次に気がついた時には枕元に母が立っていた。泣きそうな、怒っているような顔で私を見ていた。
「肺の血管に血の塊が詰まったそうよ。もう少しで死ぬところだったって」
酸素マスクが付けられた今でも、胸は苦しく呼吸がつらい。それでも手足は動く、目は見える。
私が寝ているのは集中治療室のようで、何台も並べられたベッドと忙しく立ち働く何人もの看護師で室内はざわついていた。私の腕には点滴の管が刺さっていて、ぽつりぽつりと液体が落ち続けている。
私は噴水のことを思い出す。とうとうと流れていた水のことを思い出す。そしてどこまでも青い空のことを思い出す。
あの場所へ行きたかった。けれど私には、まだそこへ行く資格がないのだ。
「夕食が来ていますが、食べられますか?」
病院食が乗ったお盆を持った看護師が声をかけてきた。あいかわらず呼吸はろくにできていなくて、酸素マスクを外すことは恐かった。けれど、私は。
「食べます」
酸素マスクを外し、ベッドの背を高くして食事と向き合った。
今はまだ分からない何かを為す、その時のために。
私は両手をあわせて箸を手に取った。