湧く泉
文字数 1,822文字
まあるい夕陽が沈む。
うすくひろがる雲のすきまから光の帯が垂れていて、天使が舞いおりてきそうだと由佳は思う。
白ユリを手にしたガブリエル。キリストの母、マリアに神の子を宿したことを知らせた精霊。
知らぬ間に孕んだ妻を、夫のヨセフはどう思ったのだろう。
我が子を抱けないと知ったヨセフは?
窓の外で乾いた洗濯ものがゆれている。よく晴れた一日だった。
とはいえ、早春のこと。陽がかたむくまで干しておいては湿ってしまうと思うのだが、なんだか体を動かしたくなくて、ぼうっとしている。
病院通いも最初のころは、こわくてこわくて泣く思いで道を行ったものだ。
それが最近はだんだん苦にならなくなってきている。だが、抗がん剤のつらさには慣れない。だるさ、吐き気、脱毛、それらに耐え続ければ、いつかはまた元の生活に戻れると思っていたのに。
「進行スピードが速すぎるのです。子宮を切除しないと、転移の危険性があります」
主治医の言葉がいまだ耳の表面に張りついて止まっているようで、意識の中にきちんと入ってこない。その言葉をどうやって夫に伝えればいいのかと考えるだけで寒気がする。
見つめているうち夕陽は沈み、美しい赤だけを残し、部屋は薄暗くなっていった。
手術を拒否することもできなくはない。転移の可能性があると言っても、あくまで可能性だ。起こらないかもしれないことだ。
もちろん切除してしまうのが一番安心だ。だが夫はなんと言うだろう。
誰よりも由佳が治ることを願ってくれたのは夫だ。いつも優しい彼が、さらに割れ物を扱うかのように心を配って看病してくれた。苦痛のせいでままならない家事も、夫が率先してやってくれた。
「由佳はゆっくり体を治すことだけを考えてくれたらいいんだよ」
優しい言葉を思い出すのが、今はつらい。
叔母が乳房切除したときのことがつれづれ思い出される。
叔母は子育ても終わり、もうすぐ孫も生まれようというのに、自分の身を抱いて泣きわめいていた。
ふくませる乳も枯れていように、と由佳は陰で呆れていたものだ。友達が流産した時には見舞いにも行かず、同情すらしなかった。
どうしてあんなに優しくなかったのだろうと悔やんでも悔やみきれない。
今なら。そう、今なら誰よりも、彼女たちに同情できるのに。
「……バチがあたったんだわ」
由佳は下腹部を撫でさする。まるでいとし子を孕んでいるかのように。
夫は子ども好きな人だ。いつだったか二人で公園にピクニックに行ったことがある。よく晴れた、まぶしい日曜日だった。
広い公園のあちこちで小さな子ども連れの親子が、思い思いに楽しそうに過ごしていた。夫はそれを、にこやかに見ていた。
芝生に座ってサンドイッチをつまみながら、夫がにやにやして言った。
「オレ、子どもをダースで作って、サッカーチームを作りたいんだ」
「十二人? なんで十一人じゃないの?」
「一人は審判だよ」
くだらない冗談を思い出し、由佳はクスッと笑う。口に当てた左手に、ぽたりと滴が落ちた。
手をやると、いつのまにか目には涙が浮かんでいた。由佳自身はそれほど子どもを望んでいないと思っていた。
それなのに。
「どうしたの? 電気も点けないで」
部屋に入ってきた夫が電気のスイッチを入れるまで、暗くなっていることにも気がつかなかった。夫は由佳の目が赤いことを見つけると、ゆったりと歩み寄り由佳を抱きしめた。
「ごめんな、由佳」
「どうしてあやまるの?」
「君が辛いのに、オレは何もしてやれない」
「そんな……」
「オレが代わってやりたいよ」
「あなた……。あなた、ねえ、このまま私が治らなかったら、どうする?」
夫は由佳の両肩を強く握って、その顔をのぞきこんだ。
「どうやっても治そう。他の医者を探してもいい。外国に良い医者がいると言うなら、そこまで行こう。オレは由佳がいれば何もいらない」
由佳はギュ、と口を引き結んだ。そうしていないと泣いてしまうと思って。
私はなぜわからなかったんだろう。夫は由佳の命だけを心配してくれていたのに。由佳はもう一度、下腹部をさすると夫の顔を見上げた。見慣れた夫の顔。優しい微笑みが、なによりも頼もしく由佳の背を押してくれた。
「私、子宮を摘出します」
あんなに恐れた言葉が、今はするりと口から出てくる。夫は由佳を見つめると、しっかりとうなずいてくれた。
この人と一緒ならば、私はなんだってできる。由佳の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。
うすくひろがる雲のすきまから光の帯が垂れていて、天使が舞いおりてきそうだと由佳は思う。
白ユリを手にしたガブリエル。キリストの母、マリアに神の子を宿したことを知らせた精霊。
知らぬ間に孕んだ妻を、夫のヨセフはどう思ったのだろう。
我が子を抱けないと知ったヨセフは?
窓の外で乾いた洗濯ものがゆれている。よく晴れた一日だった。
とはいえ、早春のこと。陽がかたむくまで干しておいては湿ってしまうと思うのだが、なんだか体を動かしたくなくて、ぼうっとしている。
病院通いも最初のころは、こわくてこわくて泣く思いで道を行ったものだ。
それが最近はだんだん苦にならなくなってきている。だが、抗がん剤のつらさには慣れない。だるさ、吐き気、脱毛、それらに耐え続ければ、いつかはまた元の生活に戻れると思っていたのに。
「進行スピードが速すぎるのです。子宮を切除しないと、転移の危険性があります」
主治医の言葉がいまだ耳の表面に張りついて止まっているようで、意識の中にきちんと入ってこない。その言葉をどうやって夫に伝えればいいのかと考えるだけで寒気がする。
見つめているうち夕陽は沈み、美しい赤だけを残し、部屋は薄暗くなっていった。
手術を拒否することもできなくはない。転移の可能性があると言っても、あくまで可能性だ。起こらないかもしれないことだ。
もちろん切除してしまうのが一番安心だ。だが夫はなんと言うだろう。
誰よりも由佳が治ることを願ってくれたのは夫だ。いつも優しい彼が、さらに割れ物を扱うかのように心を配って看病してくれた。苦痛のせいでままならない家事も、夫が率先してやってくれた。
「由佳はゆっくり体を治すことだけを考えてくれたらいいんだよ」
優しい言葉を思い出すのが、今はつらい。
叔母が乳房切除したときのことがつれづれ思い出される。
叔母は子育ても終わり、もうすぐ孫も生まれようというのに、自分の身を抱いて泣きわめいていた。
ふくませる乳も枯れていように、と由佳は陰で呆れていたものだ。友達が流産した時には見舞いにも行かず、同情すらしなかった。
どうしてあんなに優しくなかったのだろうと悔やんでも悔やみきれない。
今なら。そう、今なら誰よりも、彼女たちに同情できるのに。
「……バチがあたったんだわ」
由佳は下腹部を撫でさする。まるでいとし子を孕んでいるかのように。
夫は子ども好きな人だ。いつだったか二人で公園にピクニックに行ったことがある。よく晴れた、まぶしい日曜日だった。
広い公園のあちこちで小さな子ども連れの親子が、思い思いに楽しそうに過ごしていた。夫はそれを、にこやかに見ていた。
芝生に座ってサンドイッチをつまみながら、夫がにやにやして言った。
「オレ、子どもをダースで作って、サッカーチームを作りたいんだ」
「十二人? なんで十一人じゃないの?」
「一人は審判だよ」
くだらない冗談を思い出し、由佳はクスッと笑う。口に当てた左手に、ぽたりと滴が落ちた。
手をやると、いつのまにか目には涙が浮かんでいた。由佳自身はそれほど子どもを望んでいないと思っていた。
それなのに。
「どうしたの? 電気も点けないで」
部屋に入ってきた夫が電気のスイッチを入れるまで、暗くなっていることにも気がつかなかった。夫は由佳の目が赤いことを見つけると、ゆったりと歩み寄り由佳を抱きしめた。
「ごめんな、由佳」
「どうしてあやまるの?」
「君が辛いのに、オレは何もしてやれない」
「そんな……」
「オレが代わってやりたいよ」
「あなた……。あなた、ねえ、このまま私が治らなかったら、どうする?」
夫は由佳の両肩を強く握って、その顔をのぞきこんだ。
「どうやっても治そう。他の医者を探してもいい。外国に良い医者がいると言うなら、そこまで行こう。オレは由佳がいれば何もいらない」
由佳はギュ、と口を引き結んだ。そうしていないと泣いてしまうと思って。
私はなぜわからなかったんだろう。夫は由佳の命だけを心配してくれていたのに。由佳はもう一度、下腹部をさすると夫の顔を見上げた。見慣れた夫の顔。優しい微笑みが、なによりも頼もしく由佳の背を押してくれた。
「私、子宮を摘出します」
あんなに恐れた言葉が、今はするりと口から出てくる。夫は由佳を見つめると、しっかりとうなずいてくれた。
この人と一緒ならば、私はなんだってできる。由佳の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。