空も飛べるはず
文字数 1,863文字
「目覚めよ」
その看板に気付いたのは四日前。ビルの屋上にある巨大なパネル。
白地に黒の角ゴシックで、その一言だけが書いてある。
いったい誰に向けた言葉なのか、何に目覚めればいいのかさっぱりわからない。
「起きろ」という意味ならば、看板に書いてみたところで寝ている人に読めはしない。
会社の行き帰りに立ち止まっては看板を見上げ、首をひねった。
「宗教よ、きっと」
昼休み、同期の花ちゃんはさらりと答えた。
「そんな名前の小冊子を配ってる人たちを見たことあるわ」
花ちゃんが言うならそうなのだろう。花ちゃんはなんでも知っている。
疑問に一応の解決はついた。けれど、やはり通りかかると看板を見上げてしまう。
「アニメは好きですか」
突然、話しかけられた。振り返ると紳士然とした白髪の男性が立っていた。
「アニメは好きですか」
繰り返された質問に首をひねる。小さい頃は好きだったけれど、今は好きかどうかわからない。そもそもアニメを見ることがない。
「アニメはいいものですよ」
言うと紳士は看板を指差した。看板に目をとられている隙に紳士の姿は消えていた。
アニメに目覚めよという意味なのだろうか。
「そういうタイトルのアニメが始まるんじゃない? その宣伝なのよ」
昼休み、花ちゃんが言った。
花ちゃんが言うならそうなのだろう。花ちゃんはなんでも知っている。
夕焼けの真っ赤な空に白と黒の看板が映える。そこから何かが始まりそうな心踊る力を感じる。
「アニメは好きですか」
いつの間にか隣に立っていた紳士が問う。
さてどうだろう。はたしてアニメを好きと言えるだろうか。
考えていると紳士は言葉をついだ。
「アニメは良いものです。すべてがある。夢、希望、愛、未来、そしてあなたがいる」
なぜそこで自分が出てきたか分からず、首をひねる。
「あなたに絶望はない。なぜならこのアニメの主人公だからです」
そう言うと紳士は看板を指差した。看板に目をとられている隙に紳士は消えていた。
「誰でも人生という名のドラマの主人公なのよ」
昼休み、花ちゃんが言った。花ちゃんが言うならそうなのだろう。良い言葉だ。
「でもそのドラマがアニメなら」
花ちゃんはお弁当から顔をあげると、はっきりと私の目を見て断言する。
「空だって飛べるはずよ」
久しぶりにアニメを見た。深夜に放送されている、今流行しているらしいアニメ。
主人公は苦悩し、友人に叱咤され、突然現れる助言者の言葉に戸惑う。
主人公は思い悩む。進むべきか戻るべきか。まるでシェークスピアの台詞のようではないか。
高校生の主人公は人生の岐路に立つ。
また、アニメを見た。深夜に放送されている、コアな人気を誇る作品らしい。
主人公は特殊な能力を持つ青年で、行く先々で怪奇現象に立ちあい、自らの能力で解決していく。
主人公は泰然としている。まるでシェークスピアの道化師のようではないか。
人間に興味のない主人公は人生の重みも知らぬげに歩み去る。
また、アニメを見た。深夜に放送されている、誰にもかえりみられないアニメ。
主人公は奇跡の出会いを信じ、旅を続ける。運命の人を探して。
粗い絵、粗い構図、粗いストーリー。まるでシェークスピアの台本の文字のようではないか。
主人公はどこまでもさ迷う。
私は看板を見上げる。
「目覚めよ」
看板は私に囁きかける。あるいは全人類に。
何から? あるいは何に?
看板はただ、囁き続ける。
また、別れを知った。深夜に営業しているバーのカウンターで。
主人公はただ無言でラバーズドリームのグラスを見つめた。
その人は主人公とは違う、大切な人に出会ったのだと席を立った。
主人公はノンアルコールカクテルで酔いもできないまま、ふらりと夜の街に歩き出した。
ビルの屋上に上った。街の明かりで逆光になった看板はいつもより暗い。
黒い文字はさらに黒々と説得力を持っている。
「アニメは好きですか」
隣に立った紳士が問う。
「空を飛びたいんでしょ?」
花ちゃんが問う。
「目覚めよ」
看板が黒々と説く。
ビルのふち、手すりを乗り越え下をのぞきこむ。
車がおもちゃのようだ。
人がマッチ棒のようだ。
まるでクレイアニメのようだ。
背中に羽が生えたようだ。
一歩を踏み出した。
「アニメは好きですか」
背中で紳士の声がする。
「アニメにはなんでもある。赤ん坊も老人も青春も諦念も生も奇跡も。もちろん、死も」
落ちる瞬間、振り返った私の目に看板が囁く。
「目覚めよ」
なにから? あるいはなにに?
私の体は静かに落ちていった。
そして。