第8話 娘の用事で半日終わる

文字数 3,497文字

 娘が乗った自転車は畦道を走る。
 その後ろを、僕は駆けて行く。

 高校の球技大会が差し迫っているらしい。この1か月ほど、土曜日の午前中に公園でバレーの練習をしている。今日も10時から家を出て公園へ向かっているのだ。

 容赦ないスピードでペダルを漕ぐ娘に声をかける。

「日記にお前を出すとしたら、どんな名前が良い? カタカナな」
「えっ。……ギューゴ、かな」
「ギューゴって何だよ」
「牛後。牛の尻」
「はいブー。もっと、こう、何だろう。カッコ良い名を付けたいなぁ」
「じゃあね、えっと、モッケイ」
「それ、何」
「木鶏。最強の鶏。全然動じないって意味だった気がするよ」
「お前の性質と真逆な言葉じゃん」

 だがモッケイに決定。ここから娘をモッケイ・ギューゴと呼ぶ。
 ……モッさんでいいか。



 公園に着いて、ストレッチもせずにバレーの練習を始める。どっちもバレーのルールさえ微妙なものだから、適当に打ち合って、トスしたりレシーブしたり、追いかけっこしてボールをぶつけ合ったりした。途中で放し飼いの犬に追われてワンワンギャーギャーと逃げ惑ったりもした。

 帰り道も、モッさんは自転車、僕はランニングだ。大体2キロくらいの田んぼ道を、喋ったり歌ったりしながら走る。なんか寒いと思ったら、チラチラと雪が舞い始めた。3月の雪は、ここら辺では珍しい。

「ハァ……球技大会、休みたい。陰キャには辛いイベントだから」
「いやいや、練習のためにわざわざバレーボール買ったんですが。5,000円もしたんですが。2月中ずぅっと土曜日午前を潰して練習してきたんですが」
「うっさいなぁ。パパには分かんないんだよ。だって高校にほとんど行ってなかったんでしょ」
「行ってましたけどぉ。一日中寝てただけですけど。宿題も勉強もしなくて立たされまくってただけですけど」
「こっちは色々気ぃ使ってんの。陰キャは陰キャで大変なの。アウトサイダーは気楽でいいよねホント。あたしはちゃんと生きる。パパみたいにはならないようにね」
「そうですか……頑張ってください」

 叱られながら家に帰り、昼食後、矯正歯科へ。モッさんは1年前から歯列矯正を受けている。今日は治療の方針を聞きに行く日だ。

「娘さんの、下の前歯がかなりイビツな形です。噛み合わせが悪かった時に上の歯が当たって削れてしまったんでしょう。綺麗に見えるように、少し平らに削ることを考えています。これは必須ではありません。あくまでも見た目を良くするための治療です」
「見た目……」

 診療台に寝かせられたモッさんの顔を見る。どうやら歯を削るというワードに恐怖を感じているようで、目をカッと見開いて何かを訴えかけてきていた。

「……多分、本人は削ることを望んでないと思います。まぁ見た目を気にするような人間でもないですし、削るのはやめておきます」

 話が終わり、シメシメ本屋に寄って帰ろう。と思ったら本日の治療後にまだ話があるそうで、それから20分ほど待合室で待つこととなった。ヒゲ付き配管工が活躍する大ヒットCGアクション映画を虚ろな眼で眺めて過ごす。

「奥歯が傾いているので、初めて奥歯までワイヤーを通しました。明日あたり、かなり痛むかもしれません。歯が動くとワイヤーがズレて、もし歯ぐきや頬の肉に刺さればすごく痛むので、その場合はすぐに来てください」
「分かりました。ちなみにそろそろ1年経ちますけど、治療はあとどのくらいかかりそうですか?」
「まだイニシャル……細いワイヤーを使ってますから、序盤ですね」
「序盤?! 矯正ってそんなに長くかかるんですか」
「歯は揃ってきているので、ここからだんだん太いワイヤーを使うようにして、しっかり固定していきます。まだしばらくかかりますね」
「なるほどぉ……。今後ともよろしくお願いします」

 帰りにオフハウスへ寄った。モッさんが冬物のコートと春物のシャツを欲しがったからだ。久しぶりに訪れたオフハウスは、相変わらずのピーピロポッポーと軽快な店内BGMで出迎えてくれた。古着や古物から発される独特な匂いも変わらない。おばあちゃん家のような安心感。

「このコート、550円。新品だぞ。あと1か月もすれば春なんだしこれでいいんじゃね」

 元服飾雑貨店員である僕は、安売り服の元の価格というか仕入れ値が大体分かる。多分このコートは最初の売値が4,000円くらいと推察した。最終半額セールでも2,000円。だとすればかなりお得ということだ。ピーコート風のベージュ色。パッと見はイケてるし、数回使えば十分に元が取れる価格である。
 試着したモッさんも満足気だ。

「これ、良いかも。ホントーは軍用ジャケットみたいなのが着たいんだけど。ほら、『踊る大捜査線』で青島が着てたみたいなやつ」
「モッズコートか。中古でそれは……メンズならあるかも」

 メンズならモッズコートも、MA-1みたいなフライトジャケットもたくさんある。ごっつい黒のジャケットを選んで、娘はそれを羽織った。

「ねぇ、カッコ良くない?! ……でも暑いなぁ」
「そりゃフライトジャケットだから、防寒に優れてるわな。もうすぐ春だからそれを買うには時期が悪いと思うよ。来年の冬に着るなら買えばいい」
「やめとく。春物見るわ」

 なぜかメンズコーナーをウロウロするモッさん。しばらくフラフラしていたが、壁際の高い所に掛かった白黒で奇抜なデザインのシャツに目を止めた。

「パパ、あれ。アレ取って」
「メンズだぞ」
「カッコ良ければ何でもいいよ。取って」
「あ、はい……」

 脚立を持ってきて、そのシャツを取る。カッケェ……。
 娘にそのシャツを渡しつつ念押しする。

「これメンズだぞ」
「だから、いいんだってば。あたしにレディースは似合わないから」

 ふむ。制服以外でスカートを履いたことがないこやつが言うと、なんだか納得させられる。顔は残念ながら僕に似ていて男顔、僕より短いショートヘアだ。警察ドラマに傾倒していて警察官(しかもネゴシエイター的なやつ)になりたいらしく、確かに警官姿は映えそうな雰囲気を持つ。

 安売り冬用コートとデザインシャツを買い、ようやく家に戻ったらもう16時。陽が傾いてきている。今日は娘にまつわる事しかしていない。何か自分にとっての休日らしき事をしたい欲が湧いてくる。

 そこで近所のスーパー銭湯にて1時間半、リラックスしてみた。
 1週間か2週間に1回のペースで銭湯に来ている。最近、自分流「ととのう」方法が確立されつつある。

 サウナでなくとも少し熱めの風呂に20分ほど浸かれば、サウナに10分くらい入ったのと同じように深部体温が上がる。明らかにポカポカしてきたら、シャワーを浴びて外へ出る。3月上旬の大気はしっかり冷えていて、プラスチックの椅子に座って天を仰いでいれば……ホラ来た来た。

 浮遊感に多幸感。のぼせている状態と似ていて、でものぼせているのとは決定的に違う、宇宙の真理に近付いているような感覚。僕はこれを「ととのい」だと思っている。何も考えられない、周りの音がクリアーに聴こえる、ただそれだけの時間。ヒゲ付き配管工がスターを取った時のような無敵タイム。ずっと続くわけじゃないけど、それがヨイ。

 高熱ドライサウナ室はびっちり混んでいて、座る場所にもひと苦労。だから空いている塩サウナ室やウェットなミストサウナ室、ぬるい風呂、寝湯なんかを楽しんで、外が暗くなってきた頃に帰宅。



 夕食後、日本酒の瓶を開けて晩酌しながらコーヒー系YouTuberの動画を観る。小説で書きたくて喫茶店の経営・運営について調べている。コーヒーの世界は広くて深くて、例えばエスプレッソマシンを使う描写をするのであれば「調整」についても書かないとそれっぽくならない。エスプレッソマシンに「調整」が必要だと知ったのは今日、ついさっきのこと。喫茶店の運営側の話を書くには知識が全然足りてない。

 それはさておき大吟醸「ひやしぼり」は美味しい。大吟醸は原料米をしっかり削って五割以下の精米歩合であるため、雑味少ないスッキリした味わいが特徴だ。それに加えて強めのフルーティな香りが、飲んでる間中ずっと嗅覚と味覚を楽しませてくれる。

 で、21時ごろに日本酒を飲み終え歯を磨きベッドに入りスヤァ。
 そういや1日徹夜してたんだった……。

【本日の出費】(歯科矯正の定期診療代を除く)

 オフハウスにて
 ピーコート風安物コート
 550円
 メンズデザインシャツ
 1100円
 スーパー銭湯入浴のみ
 850円
 入浴後の瓶売りコーヒー牛乳
 150円
 ドラッグストアにて
 日本酒大吟醸「ひやしぼり」
 540円

 計3,190円
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み