第9話 獣人族
文字数 1,576文字
赤い霧のように舞い上がった鮮血の向こうで、片手に大剣を持った男が無表情でエルを見つめていた。そして、気がつくと男の横にまるで寄り添うかのように魔獣が立っていた。
実際、エルには現実感がなかった。主人のゴムザは目の前で残忍に殺され、娘のセシルは下半身だけとなっていた。ゴムザとあの男の会話から察するに、夫人のイザベリアやこの館にいる他の使用人たちも同じように無惨に殺されたのは間違いないのだろう。
現実感などは全くなくて、まるで悪夢の中といったような形容が綺麗に当てはまる状況だった。そして、これからきっと自分も同じように無惨に殺されるのだ。この男と魔獣によって。
死ぬことへの恐怖はあったが、同じ量だけの安堵もエルの中に存在している気がした。終わることがないように思えていた過酷な日々から、これで解放されるのだと。それは喜ばしいことであるような気さえしていた。
片手に大剣を握ったまま、男が無言でエルに近づいてきた。濃い灰色の髪と真紅の瞳……。
その真紅の瞳は彼もエルと同じで純粋な魔族。あるいは魔族の血を引くことを示していた。
男がエルの眼前に立った時だった。彼の背後にいた魔獣がぶるっと体を震わせると眩い金色に発光し始めた。
やがて眩い光の中で人影が形成され始める。金色の光が宙で霧散した後、そこに現れたのは二十代前半に見える均整のとれた体をした全裸の若い女性だった。
……獣人族。
それを見るのは初めてだった。しかし、知識としてはあった。魔獣にその身を変えることができる一族がいると。
だが、獣人族は先の邪神に付き従ったため一族全てが殺され、滅ぼされてしまったとの噂だった。
男は無言で背後を振り返ると、彼女に向けて袋の中から取り出した大きな毛布を投げて寄越した。
「ありがとうございます、ファブリス様」
彼女は礼を言うと、その毛布を纏って均整の取れた裸体を隠す。男は無言で頷くと真紅の瞳を再びエルに向けた。
「その赤い瞳、魔族か?」
「はい……」
「その身なりだと、この家の奴隷といったところか……」
エルは無言で頷いた。エルのそんな様子を見ながら男が少しだけ不思議そうな顔をした。
「お前、この状況が怖くはないのか?」
エルは少しだけ顔を傾げてみせた。
もちろん怖い。だけれども……。
男はそんなエルを見て少しだけ赤色の瞳を細めた。
「ふん、興味が失せたな……」
男はそれだけを言うと唐突に踵を返した。
「……殺さないので、ファブリス様?」
背後から獣人族の女性が不思議そうな声で発した問いに、男が答えることはなかった。
男がその場から立ち去るのを無言で見つめていた彼女は、やがてエルに視線を向けた。金色の髪に深緑色の瞳。浅黒い肌をしている。
美しい顔だった。先程まで獰猛な魔獣にその身を変えていたとは思えない。
そうなのだとエルはようやく気がついた。片腕の男ではなくてこの女性に自分はこれから殺されるのだと。きっと魔獣にその身を変えられて、自分は頭から喰い千切られてしまうのだろう。あのセシルと同じように……。
「おい、魔族の娘」
そんなエルに向かって彼女が唐突に口を開いた。
「……はい」
「貴様、食事は作れるのか?」
エルにとっては予想外の問いかけだった。一瞬、何を言われたのかが分からずエルが返答に窮していると、彼女は苛立たしげにその美しい顔を歪めた。
「何だ? 貴様は馬鹿なのか? だから奴隷なのか? 私は貴様が食事を作れるのかと訊いている」
「い、いえ。は、はい、食事は作れますけど……」
「ならば、貴様は一緒に来い。この旅の食事にはもはや我慢できない」
……貴様は一緒に来いと彼女が言う。
ならば、予想に反してこの場で殺されることにはないらしい。ただ、それから先のことは分からないのだけれども……。
エルはそう思いながら彼女の言葉に無言で頷くのであった。
実際、エルには現実感がなかった。主人のゴムザは目の前で残忍に殺され、娘のセシルは下半身だけとなっていた。ゴムザとあの男の会話から察するに、夫人のイザベリアやこの館にいる他の使用人たちも同じように無惨に殺されたのは間違いないのだろう。
現実感などは全くなくて、まるで悪夢の中といったような形容が綺麗に当てはまる状況だった。そして、これからきっと自分も同じように無惨に殺されるのだ。この男と魔獣によって。
死ぬことへの恐怖はあったが、同じ量だけの安堵もエルの中に存在している気がした。終わることがないように思えていた過酷な日々から、これで解放されるのだと。それは喜ばしいことであるような気さえしていた。
片手に大剣を握ったまま、男が無言でエルに近づいてきた。濃い灰色の髪と真紅の瞳……。
その真紅の瞳は彼もエルと同じで純粋な魔族。あるいは魔族の血を引くことを示していた。
男がエルの眼前に立った時だった。彼の背後にいた魔獣がぶるっと体を震わせると眩い金色に発光し始めた。
やがて眩い光の中で人影が形成され始める。金色の光が宙で霧散した後、そこに現れたのは二十代前半に見える均整のとれた体をした全裸の若い女性だった。
……獣人族。
それを見るのは初めてだった。しかし、知識としてはあった。魔獣にその身を変えることができる一族がいると。
だが、獣人族は先の邪神に付き従ったため一族全てが殺され、滅ぼされてしまったとの噂だった。
男は無言で背後を振り返ると、彼女に向けて袋の中から取り出した大きな毛布を投げて寄越した。
「ありがとうございます、ファブリス様」
彼女は礼を言うと、その毛布を纏って均整の取れた裸体を隠す。男は無言で頷くと真紅の瞳を再びエルに向けた。
「その赤い瞳、魔族か?」
「はい……」
「その身なりだと、この家の奴隷といったところか……」
エルは無言で頷いた。エルのそんな様子を見ながら男が少しだけ不思議そうな顔をした。
「お前、この状況が怖くはないのか?」
エルは少しだけ顔を傾げてみせた。
もちろん怖い。だけれども……。
男はそんなエルを見て少しだけ赤色の瞳を細めた。
「ふん、興味が失せたな……」
男はそれだけを言うと唐突に踵を返した。
「……殺さないので、ファブリス様?」
背後から獣人族の女性が不思議そうな声で発した問いに、男が答えることはなかった。
男がその場から立ち去るのを無言で見つめていた彼女は、やがてエルに視線を向けた。金色の髪に深緑色の瞳。浅黒い肌をしている。
美しい顔だった。先程まで獰猛な魔獣にその身を変えていたとは思えない。
そうなのだとエルはようやく気がついた。片腕の男ではなくてこの女性に自分はこれから殺されるのだと。きっと魔獣にその身を変えられて、自分は頭から喰い千切られてしまうのだろう。あのセシルと同じように……。
「おい、魔族の娘」
そんなエルに向かって彼女が唐突に口を開いた。
「……はい」
「貴様、食事は作れるのか?」
エルにとっては予想外の問いかけだった。一瞬、何を言われたのかが分からずエルが返答に窮していると、彼女は苛立たしげにその美しい顔を歪めた。
「何だ? 貴様は馬鹿なのか? だから奴隷なのか? 私は貴様が食事を作れるのかと訊いている」
「い、いえ。は、はい、食事は作れますけど……」
「ならば、貴様は一緒に来い。この旅の食事にはもはや我慢できない」
……貴様は一緒に来いと彼女が言う。
ならば、予想に反してこの場で殺されることにはないらしい。ただ、それから先のことは分からないのだけれども……。
エルはそう思いながら彼女の言葉に無言で頷くのであった。