第5話 奴隷

文字数 1,730文字

 今日、何回目の怒声だったのだろうかとエルは思う。
 
 申し訳ございません。申し訳ございませんと言いながら、エルは床に這いつくばって即座に身を固くする。殴打された時に備えるために。

 予想通り最初は背中、次いで腹部に衝撃があった。手加減はされているのだろう。その場で動けなくなってしまうほどの痛みではない。だけれども、それでも痛みのためにエルの目尻には涙が浮かんでくる。

「まったく、いつまで経っても鈍臭い娘だね。本当にどうしようもない!」

 エルを殴打しながら金切声の怒声を張り上げているのは、この館の夫人であるイザベリアだった。

「申し訳ございません。申し訳ございません」

 それだけを繰り返して、エルはこの嵐が過ぎ去るのを待っていた。エルの目の前には先程、エルが床に落としてしまった料理と器が転がっている。

「今日の食事はないからね。床に散らばった物でも食べときな!」

 イザベリアの言葉にエルは黙って頷く。

「えーっ? 汚いんだー!」

 そう楽しげな声を上げたのは今年で十歳になるイザベリアの娘、セシルだった。
 そう言われても流石に床に落ちた物を食べることはできないので、エルは黙々と床に落ちた物を片づける。

「えー? なんだ、食べないんだ。つまんないの」

 セシルは口を尖らせて不満げな顔をしている。

「イザベリア、セシル、もういいだろう。折角の食事が不味くなる」

 そう口を挟んできたのはこの館の主、ゴムザだった。ゴムザがそう言ったのは別にエルの身を案じてのことではない。元料理人だというゴムザは何よりも食事の時間を大切にする人間だった。

「えー? だって……」

 反論しようとするセシルに向かってゴムザは人差し指を立てて見せた。

「セシル、いつも言うように食事は静かにするのが礼儀だ。勇者様であるアズラルト様も……」
「あーもう、分かってるわよ、勇者様の話は。もう何度も聞いているし。お父さんはしつこいのよ」
「お父さんではない。お父さまだぞ、セシル」

 そんな父と娘の会話を横目で見ながら、エルは必死で床の後片付けをしていた。また愚図愚図していると何をされるか分かったものではない。

 この館にいる他の使用人から聞いた話によると、ゴムザは勇者一行と共に邪神討伐の旅をしたとのことだった。無事に勇者が邪神を討伐した後、その功績によってゴムザも貴族の地位を与えられて今の豪勢な暮らしをしているとの話だ。

 もっともゴムザは勇者と共に戦っていたのではなくて、その一行の食事係をしていたとのことだったが。

 勇者一行の食事係にどのような苦労があったのか、エルには知る由もない。でも、その功績が認められて自分のような奴隷や幾人もの使用人を抱えることができるのだから、やはりそれなりの苦労があったのだろうとエルは思う。ただ一方で、所詮は奴隷でしかない自分には、勇者だの邪神だのは関係のない話だとも思っていた。

「ほらっ、早くしなさい。本当にいつも鈍臭い子だね!」

 そんなことを考えていたエルの頭上からイザベリアの怒声が飛んでくるのであった。




 その日、大きな溜息を吐きながらエルは粗末な寝台に倒れ込んだ。辺境にあるような魔族の村では、借金の肩代わりとしてエルのように子供が奴隷として売られることはそれほど珍しい話ではなかった。

 今年、十六歳になるエルは十一歳の時に奴隷として売られた。その年に植える種籾もなくてそれを得るために、農夫だった両親に口減らしも兼ねてエルは奴隷として売られたのだった。

 奴隷として最初に買われた貴族のお屋敷はまだよかったとエルは思っていた。歳が近い奴隷もいて、お屋敷の人たちもそれほど酷にエルたち奴隷を扱ったりすることはなかった。エルたち奴隷の扱いは普通の使用人とほぼ扱いが変わらないと言ってよかった。

 しかし二年前、この館に売られてきてからは奴隷としての境遇が激変した。この館で奴隷は自分一人だけであったし、数名いる他の使用人とは明らかにエルの扱いは違った。

 罵声を浴びせられることなどはまだよくて、叱責と共に殴打されることは日常化していた。そして……。

 エルがそこまで考えた時、部屋の扉が静かに叩かれた。ほぼ同時に扉が開くと館の主人、ゴムザが滑り込むように室内へと入ってきた。
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