1 迷い ⅳ

文字数 5,764文字

 リフェールが部屋を取ったのは、町で十数件目の歴史遺産として申請中の建物を活用した、今話題のホテルだと聞いていた。
 ルイスは、そのホテルのエントランスホールのソファに座っていた。リフェールが帰って来たらわかるようにと、ホテルの入り口が見える位置である。だが顔はぼんやりと、正面にあたる入り口ではなくソファの右手にあるガラスの向こうに広がる夜の街並みを見ている。
「ルイス」
 どのくらい待ったか人のまばらなエントランスで、リフェールの声が、大きくはなかったがまっすぐに響いてルイスに届いた。入り口を振り返るとリフェールが、ルイスがいるのに驚いた様子もなく片手を上げた。
「遅い」
「約束など、した覚えはないな」
 互いに憎まれ口を叩きながら、リフェールがソファに歩み寄るとルイスも立ち上がった。
「エリー、どうしたんだ」
 その場にいたんだろうとリフェールに聞くと、彼はフッと笑った。
「さあな」
 素知らぬふりで話す気はない、と跳ね除けられて、む、とルイスの口がへの字に曲がる。
 そんなことより、と笑いながらリフェールが水を向けた。
「もう一軒、行くか」
「ああ。お前から報酬もらってないと思って、待ってたんだ」
 今回の作業に対する正当な報酬は、きちんと契約書通りにもらっている。その上今夜の食事代も、リフェール持ちである。しかし、それとこれとは別だ。
 ルイスがリフェールを連れてきたのは、店の奥にピアノが置いてあるパブだった。客に自由にピアノを使わせる店で、この店を知ってから、自分は弾けないにも関わらずルイスはよく訪れているのだった。
 いつもは聴くだけのルイスが、どこかうきうきとした様子でピアノを使わせてくれと申し出たのに、顔馴染みの店主は不思議そうな顔をした。しかしその隣の人物に気が付くと、今は誰も弾いてないからちょうどいい、とピアノを指し示す。
 報酬と聞いて何か法外なものでも頼まれるのかと身構えていたリフェールは、拍子抜けしたようにルイスを見た。
「ピアノか。言えば、いつでも弾いてやるものを。リクエストはあるのか」
「お前の好きな曲」
 ルイスはすっかり聞く態勢で、カウンターのスツールに腰掛ける。リフェールはカクテルを頼むと、ステージのつもりか一段高い所にあるピアノに向かった。
 拍子抜けしたのは、ルイスも同じだった。てっきり、嫌がられるかと思っていたのだ。
 そうか頼めば弾いてくれるのか、と彼と同じものを頼んで、ルイスはカウンターに頬杖をついた。
 椅子の高さを調節したあと、リフェールは気負う様子もなくごく自然に鍵盤に指を置いた。その後ほんの少し考える素振りを見せたかと思うと、指慣らしのつもりか国民歌とも言える誰もがよく知る古い民謡を弾き始める。
 こんな曲も弾くのか、と思いながらその姿をルイスは懐かしく眺める。学生時代には、聞いた覚えがない。何せあの頃演奏は、彼のストレス発散の手段だったのだ。だが姿勢よく背筋を伸ばしてやや俯くように鍵盤に目を落とし、肩から先の腕だけが何か別の生き物のように動くさまは、記憶にあるリフェールそのものだ。
 誰かが音楽に気付いて、歌を口ずさむ。次第に手拍子も起こり、短いがこんな場所にふさわしい陽気な曲が終わるとパラパラと拍手が寄せられた。
 しかしすぐに、酔いも覚めるような速さのショパンが始まる。音楽など耳に入らない様子で各々のテーブルで話に花を咲かせていた客たちも、ぎょっとピアノを振り返った。それはまさに彼の定番曲だったので、ルイスは思わず笑ってしまう。
 学院が見えるこの町に、リフェールといる。前回仕事がらみでオフィスに泊めたときは、あまりそのことを考える余裕もなかった。しかし今はこうして二人、ただこの町にいる。
 それだけでも胸が苦しくなるというのに、先程あんなふうに学院時代の話をしたせいで、ルイスはどうにもノスタルジックな気持ちになっていた。
 あのときから今まで、リフェールへの思いは少しもなくなっていない。
 なくなったと、思っていたのだ。再会するまでは。ところがそれは錯覚だったと、わかってしまった。彼を好きなくせに少しも傷つきたくなくて、自分を守るために彼を傷つけた。そんな自分の行為を忘れたくて、無理やり押さえつけていただけだったのだ。
 あの夜リフェールは、互いに悪かったのだと言ったが、ルイスにとってはそうではない。あのときの己の言動は、いつまでも尾を引いている。
 いつの間にか、ルイスの傍にカクテルが置かれていた。2曲目が終わるタイミングを見計らって、リフェールの元へもカクテルが運ばれる。礼を言ってグラスを受け取り喉を潤したリフェールは、それを譜面台の横に置いた。
 今度は何を、と自分もカクテルを口に運んで見つめていると、リフェールは何かを確かめるようにポン、と人差し指で鍵盤を鳴らした。その後続けてポン、ポン、ポン、と階段を降りるように鳴らすことを何度か繰り返したかと思うと、その音に優しげな旋律を乗せていく。そうして出来上がった一つのメロディが、ゆっくりと少しずつ高みを目指して何度も繰り返された。
 まるで太陽を目指して飛んでいるような、空を悠々と泳いでいるような、そんな気分でルイスは俯き目を閉じた。知らない曲ではあったが、なぜか懐かしさを感じる。こんな風に明るく優しい曲も、意外に彼に似合うのだ。
 ゆったり音楽に身を委ねていると、わっと拍手が起こった。どうやら静かに静かに、曲は終わったらしい。
 顔をあげると、グラスを手に戻ってこようとするリフェールが、ピアノの近くの席に座っていた女性二人組に声をかけられているのが目に入った。
 ルイスはスツールをくるりと回してカウンターに向き直り、​飲みかけ​のカクテルに口をつけた。たった今までの優しい感じとは違うさっぱりとしたジンとレモンの炭酸割りを、何か大きなものを飲み下しでもするかのように流し込む。
 ルイスがグラスを戻すのと同時に、隣の席にリフェールが戻ってきてグラスを置いた。
「あれくらいで、足りるか」
 そう言いながらスツールに座り、ルイスの手元のナッツをつまんでいく。すかさず店主が、リフェールの元へもつまみの乗った皿をよこした。こちらにはナッツだけでなく、チーズも乗っている。
「よかったよ」
 そう言いながら親指を立てて戻っていく店主にリフェールは礼を言うと、二人の皿を入れ替えた。
「報酬だ」
「お前な」
 思わず笑い出しながら、しかし遠慮なくルイスもチーズをつまむ。
「声かけられてたの、相手にしなくてよかったのか」
 カウンターの正面にずらりと並ぶ酒瓶の列を眺めてそう言うと、リフェールは気にした風もなくナッツを口に運んだ。
「リクエストされただけだ。断った。お前のなら、弾いてやるぞ」
 ルイスは苦笑して、隣に座る男を見やる。
「急に言って困らせてやろうと思ったのに、全然効果なしだな」
 リフェールも横目でルイスを見て、ふん、と笑う。
「ないな。今でも、ピアノがあればどこででも弾くからな」
 ついでに仕事のときは、憂さ晴らしと接待を兼ねることができて一石二鳥だ、とリフェールが言うのに、ルイスは感心するやら呆れるやらだ。そういえばこの男は、そういう教養を叩き込まれてきた貴族だった、と今更ながら思い出す。
「最後のあれ、なんて曲なんだ。気持ちよかった」
 ルイスが聞くと、リフェールは不意をつかれたように彼を見返し、すぐにほっとして柔らかな笑みを浮かべた。
「そうか。黒い鷲という」
「へえ。黒い鷲。いい曲だな。また聴きたい」
「任せろ。もう一杯飲んだら、弾いてやる」
 空になったグラスを掲げ、新しいカクテルを頼むリフェールを、ルイスは頬杖をついて見やる。
「お前、優しくなったな」
 ぽろりと溢れたルイスの言葉に、リフェールが目を剥く。
「変わらんが?」
「うん、そうだな。そうなんだろうけど、今はもっと」
 首を傾げて笑いながら言いかけたルイスは、その先を続けられず口を開けたまま固まった。
 今はもっと。
 その先が出てこないルイスに、リフェールが不満げに眉を寄せる。
「なんだ、今はもっと? 前より、と言いたいのか? 非常に心外だが、お前が気付かなかっただけだ」
 そうかもしれない、とルイスも思う。彼は、ずっと前から優しかった。その優しさを、受け取らないで突き返してきたのだ、いつも。あのときも。わかっていながら、最後は許されると信じて疑わず、それを振り払ってきた。
 それなのにリフェールは、それでも今も、ルイスに優しい。なぜ。
 気付いてなお、自分はその優しさを払いのけていくのか。なぜ。
 急に空気が薄くなったような気がして、ルイスは胸に手を当てて大きく息を吸い込んだ。
「ルイス?」
 様子が変わった彼を、苦しいのか、と心配顔のリフェールが顔を覗き込む。
 もう一度、告げてみてもいいだろうか、とルイスは魔が差したように考えて、慎重に深呼吸するとゆっくり顔を上げた。
「ごめん、なんかちょっと、お前の言葉がショックで」
「何だと?」
「冗談だけど」
「貴…様は! 青い顔をして面白くもない冗談を言うな、バカ者!」
 バシン、と頭を遠慮なく叩かれた勢いで、ルイスはカウンターに両手をついた。
「い…っ、お前、乱暴な」
 抗議の声はあっけなく無視され、リフェールはこのときちょうど差し出された新しいカクテルを味わいもせずに一気に飲み干す。
「知るか、酔っ払いめ。今日はもうお開きだ。帰るぞ」
 そう言ってさっさと支払いに席を立ったリフェールの背を、ルイスが慌てて追いかける。
「待てよ。さっきの曲、もう一回」
「言っただろう、いつでも弾いてやる」
 リフェールは手早く二人分の会計を済ませてしまうと、ルイスの手首を掴んで外へ出た。
 まだそこかしこの店は明るく、店内の賑やかな様子もうかがえるが、歩く人影は多くない。車の通らない石畳にぶん、と腕を引いて投げ出され、離れていく手をルイスは「あ」と見送った。
 いつ雪が降ってもおかしくないほどに冷えた空気で、夜だというのに息が白いのがわかる。
「ほら、外の方が息ができるだろう。お前は、自分のことは何でもかんでも内に溜め込みすぎなのだ。遠慮はいらん、言いたいことを言えばいい。自分のことだけを考えろ。他人のことなどどうでもいい」
 そう言ってリフェールがどこへともなく歩き出すので、ルイスは焦ってその背に駆け寄った。
「それは…無理だ。自分のことだけ考えるとか、できる訳ないだろう。人に、迷惑はかけられない」
「お前の言う、人とは誰だ」
 ふん、と鼻を鳴らしてそう言うリフェールに、ルイスが息を飲む。答えを探すうちに歩みは遅くなり、視線も落ちた。
「いるのか、ここに。お前が、迷惑をかけるかもしれないと思う人間が」
 数歩先を行くリフェールが、立ち止まって後ろを振り返った。ルイスも足を止めて顔を上げると、じっと自分を見つめるリフェールと目が合う。二人の間を、オレンジの灯りがほんのりと照らし出す。
「先に、言っておく」
 どのくらいそうして見つめあったか、やがてリフェールが静かに切り出した。
「俺は、お前が好きだ。だからこれからずっと、お前が嫌だと言っても、俺はお前を甘やかす。お前が何かをしたいと言えばできるようにしてやるし、したくないと思うことはしないで済むようにしてやる。だがこれはお前のためではなく、俺が自分のためにそうするのだ。俺が、それを願うのだ。お前に、何にも煩わされないでいてほしいと。いわば、俺のわがままだ。だからお前も、お前の好きなようにするがいい。誰に何を言われようと、お前がそうしたくないのならしなくていい。無理はするな」
 たちまちルイスの顔が、夜目にも赤くなる。
「ば……っ」
 言葉に詰まったルイスを首を傾げて少しばかり待ってみせてから、リフェールはふっと小さく笑った。
「バカで構わん。お前が俺から離れないようにするためなら、なんでもする」
「そ…んな、風に、甘やかされるのが嫌だと言ったら、どうするんだ」
「さあな。そのときは、対応を考える。何せ、また連絡が途切れるのはごめんだからな」
 だが、と続けてリフェールはにやりと笑った。
「本当に嫌か?」
 この野郎、とルイスは内心で呻いて拳を握った。外にいるのに、顔が熱くて仕方がない。
「オレは」
 冗談めかしながらも真摯に見つめてくるリフェールから、目を逸らす。息が苦しい。きんと冷えた空気をなんとか肺に吸い込んで、ルイスは言った。
「お前にそんな風に優しくされると、苦しい」
「なぜ」
 落ち着いた低い声で聞き返されて、その顔を見ることができずにルイスは俯く。
「オレは昔、お前に酷いことを言った。あんなこと言っておいて今でもまだ好きだなんて、調子がよすぎるだろう。自分勝手だ。だから、あんまり優しくするな」
「まだ好きか、俺を」
「言うな」
 思わず確かめずにはいられなかったリフェールだが、なぜかルイスが嫌そうに言うので肩をすくめる。
「晴れて両想いの気がするが、なぜダメなのだ」
「…一緒に、いて欲しくなる」
「いてやるさ。少しも迷惑ではないぞ」
 ほら、と差し伸べられたその手の形の良い指先が、下を向いたルイスの視界に入った。その無造作な仕草に、つい顔を上げて手を重ねそうになる。
「でも」
「なんだ」
 リフェールは、それきりためらったまま動かないルイスの手を再度掴み、今度は指を絡めて手をつなぐと、それを引いて歩き出した。
 温かい手のひらの感触に心臓が飛び出そうなほど強く胸を打つのを感じ、苦しげに息をしてルイスは足をもつれさせる。
「アパートメントまで、送っていこう」
 送るのは自分のはずだ、と思うものの、ルイスは手を引かれるままにリフェールのあとをついていくのが精一杯だ。その上送ると言いながら、彼の向かう先がアパートメントでもホテルでもないことにも気が付かない。
 今だけ、なら。
 ルイスはつながれた手にそっと目をやり、おずおずと指先に力を込めてみる。が、リフェールがちら、と頭を動かしてそれを見るので、咄嗟に手を開いてしまう。
 リフェールは、逃げ出しそうなその手を引き止めるようにぎゅっと握りしめた。
「このまま」
 そうしてふたりは、オレンジのあかりが灯る石畳の路地を手をつないだまま歩き続けた。
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