2 それぞれの ⅱ

文字数 5,845文字

 一か月後、マイロンへ帰るというリフェールはアリーシア社のメンバーに食事に連れ出された。ルイスとの関係は、すでに周知のこととなっている。まるで家族のように社長を構いつける社員たちにリフェールが面白くなさそうな様子でいるのを大いに揶揄われて、ふたりはようやく帰途についていた。
 人通りの少ない、すっかり日が暮れてオレンジのあかりが灯る石畳の小道を、手をつないでのんびり歩く。いつかの夜と同じ、町をぶらぶらとアパートメントまで遠回りコースだ。あのときと違って、今は夏だ。暑さの落ち着いた夜の空気が、酔いに火照った身体を冷ましていくのが気持ちいい。
「ルイス」
 と呼ぶ声がこの穏やかな空気とはやや違ったような気がして、ルイスは隣を振り返った。
「どうした?」
「お前に、まだ言っていないことがある」
 低い声で告げられじっと見返され、ルイスの心臓がどきりと跳ねた。何を言われるのかと身構えたその手を、リフェールがぎゅっと強く握る。
「大使館勤務に戻る。2週間後には、出発する」
「大使館? またティエラに戻るのか」
 ルイスが目を丸くした。ティエラ勤務は、いわば急場しのぎだったと聞いている。それが、ようやく解けて帰ってきたのではなかったか。
「いや、ティエラではない」
 ルイスをまっすぐに見つめ、リフェールは申し訳なさそうに眉を寄せた。
「今、大陸西部のカミングと北のサンガリアにある大使館から声がかかっている。カミングは大国だが、それより今、この国と関係が弱いサンガリアで、国同士のつながりを強くする仕事をしたい。一昨年のあの国際会議から2回目のティエラ勤務を経て、俺は国内で政策をどうこうするよりも、国と国の間で走り回るのが性に合っていると思った。だから、ずっとそばにいてやることができない。すまない」
 つないだ手から緊張が伝わってきたが、ルイスは、ほう、と息を吐き出した。
「何か悪いことを言われるかと思って、どきどきしたじゃないか。びっくりさせるな」
「怒らないのか」
 ますます眉間に深いシワを作るリフェールを、ルイスが笑い飛ばす。
「どうしてそうなるんだ。すごくいいよ。お前は自分のやりたいことがあって、それをしに行く。いいじゃないか。思い切りやってこいよ。オレのために、お前がやりたいことを我慢するのは違うだろう。行ってこいよ。オレはここにいる」
 リフェールは、ルイスの瞳をじっと覗き込む。
「無理をしていないか」
「うーん。すぐには会えなくなるからな。寂しい、とかは、もちろんある」
 リフェールが急にティエラに行ったときのことを思い出して首を捻ると、ルイスはいつの間にか立ち止まっていた足を動かし、彼の手を引いた。
「けど、そういうのに左右されないで仕事に向き合えるお前が好きだし、誇りに思うし、尊敬する。お前があっという間にティエラに飛んだときも、思ったんだ。いいなって。格好いいよ。オレも、そうありたい」
 あの日、急な呼び出しでリフェールが首都マイロンに戻り、次の連絡ではもうティエラに行くことになったと知らされたとき、オフィスはちょっとした騒ぎになった。
 ニュースは「ティエラでは他国の大使館職員を巻き込む程のテロが起きている」と大々的に報道していた。建物が崩れている現場の様子を目にして、リズが過剰反応を起こした。彼女は隣国と交戦状態にあるムーランの出身で、両親と夫を戦争で亡くしこの国へ子どもと二人逃げてきたのだった。
 パニック状態の彼女に、イワンとアヤが二人がかりで、この国はティエラと戦争状態にあるわけではないこと、今回のテロもターゲットは別にあり運悪く巻き込まれただけだということを言い聞かせた。子どもの安否を気にするリズのためにルイスが学校から息子を連れ帰り、カイルが淹れた茶を口にして何とか落ち着いたとみえたあとは、ルイスに対してリフェールを引き止めろと延々訴える始末だった。
 ルイスには、そういった心配はあまり現実的ではなかった。考えが足りないのかもしれないし、何かがリフェールの身に起こったらと想像すると薄ら寒いものは感じる。それでも、自分のなすべきことを見据えて行動を起こした彼は、ルイスにとって輝いて見えたのだ。
 「それに」とつないだ手を指を絡める形に変えて、ルイスは続けた。
「上手い言い方が思いつかなくて誤解されると困るんだが、お前が実際に隣にいるかどうかは重要じゃないんだ。お前は、なんていうか鏡みたいなもんだから、その生き方がオレには励みになるっていうか…負けられないって気になるっていうか。一緒にいるっていうのは、実体がそこにあるっていうことだけじゃなくて、一緒に生きてるって感じることだと思うんだ。そばにいなくても、そうやって生きてるお前の中にオレがいるって思えることが嬉しいし、オレも、オレの中のお前と生きていくっていうか。いや、オレたちまだどっちも死んでないのに、へんな言い方になったな」
 最後の方は何やら困惑したような口調のルイスに、リフェールも口元を緩めた。
「昔から、お前も俺の目標だぞ」
 似たようなことを考えている、とリフェールが言うと、ルイスはなぜかぎょっと身をのけぞらせた。
 正直なところ、リフェールは迷ったのだ。しかし今、外交という仕事に意義と魅力を感じている自分が働く場所は、シャンブルにはない。ならば、国内にとどまる理由もなかった。ルイスのそばにいられないということであれば、どこで何をしていても同じで、それならば己は己の仕事をすべきだと考えた。ただひとつ、一緒にいたい、そばにいてやると言ったにも関わらず自らそれを反故にすることに、後ろめたさと申し訳なさを感じないではいられなかったのだ。
「もう一つ、頼みがある」
「頼み?」
「今の官舎は、引き払う。今度帰国するときは、お前のアパートメントに帰ってきたいと思っているのだが、いいか」
「え?」
 ルイスが、ぴたりと足を止めてリフェールを見返した。
「…実家じゃなくて、いいのか」
 先ほどよりもよほどおぼつかない声で、ぽかんと口が開いている。
「何を今更。実家に帰るくらいなら、官舎を借りる。そうではない。お前のいるところに、帰りたいのだ」
 ルイスの発想にリフェールは呆れたが、すぐにふ、と笑った。
「ここに来た日、お前、おかえりと言ってくれたろう。あれが、嬉しくてな」
 リフェールの笑顔がいつになく可愛らしく見えて、ルイスが「嬉しかったのか」とぼんやり繰り返す。
「それで、オレのところに、帰ってくるのか」
 噛み締めるように呟いたルイスの顔が次第に緩んでいく様子に、リフェールの心も、ほ、と綻んだ。
「年中一緒にいてやることはできないが、お前が俺の家だ。そう思うことを、許してくれ」
 言い終える前に絡めた指を解かれたかと思うと、リフェールの首にルイスが腕を回して抱き寄せられた。
「許す。オレ以外のところには帰るな」
「約束する」
 耳元で力強く囁かれて、リフェールもルイスの身体に腕を回した。どのくらいそうしていたか、やがて身体を離してルイスが笑う。
「ランランには、聞かせられないな。きっとまた、大騒ぎだ」
 ついさっきまで賑やかに​テーブルを​囲んでいた連中を思い出せば、リフェールも笑うしかない。
「あの場で、言ってもよかったのだが」
 格好の肴にされたふたりだったが、ランランがぽつりと心配そうに呟いたのだ。
「でも、そしたらルイス、会社はマイロンに移しちゃいますか?」
 え、と皆がランランに注目した。
 会社が遠くなったら通うのが大変だ、と続ける彼女に、「移さないけど、どういうことかな」とルイスが聞くと、ランランは目を丸くしてから慌てて言った。
「だって、移さないならルイスがマイロンからシャンブルに通うの? それともリフェールがシャンブルに引っ越してくる? ふたり、一緒に住むんでしょう? 特急で2時間もかかるんだよ、行き来するの大変でしょ?」
「ああ。一緒に住むならって話? まあ、そしたらどっちかは遠距離通勤でしょうけど、会社まで引っ越しされたらあたしも困るわ。一緒に住むの?」
 ランランの話を受けて、リズがふたりに尋ねた。
「いや、そんな話はしてない」
「そうだな、当分現状維持だな」
 な、とルイスとリフェールが顔を見合わせて頷いたが、それはどうやらランランが思い描いていたのとは違ったらしい。散々「そんなの、普通の恋人同士って言えない!」と言われてしまった。
 恋人ならああしてこうして、と続いた話に次第にルイスが困惑してきたのを察して、その手をリフェールがぎゅっと握りしめた。そして口を開こうとして、先にイワンが言ったのだ。
 珍しく、真顔で。
「ランラン、お前の普通は、お前だけの普通でしかないぞ。人と同じときもあるが、違うときも多い。自分の視野を狭めることにもなるから、普通という言葉は、あまり使わない方がいいな」
 それからすぐに気恥ずかしくなったのか、「便所」と席を立って行ったのが、その場の笑いを誘ったものだった。
「イワンは、話がわかるな」
 見直した、とリフェールが言うと、ルイスに軽く小突かれた。もう一度手をつなぎ直して、ふたりはのんびり歩き出す。
 この先には噴水があることを、ルイスはふと思い出した。十年近くもこの町に住んでいて彼がその存在に気付いたのは、以前の冬にふたりで町をただ歩き回った、あのときだった。大きくはないが花籠をモチーフに作られているその噴水は、あの冬の夜は水が止められていて寂しそうに佇んでいるだけだった。
「あいつ、見かけがゴツいから誤解されやすいんだ」
 イワンは高校時代に、親しい友人を自殺で亡くしている。その友人は世間一般の恋愛という形に沿うことができず、責められ、悩みを募らせ、孤独の中にその身を散らしてしまったのだという。彼を助けられなかったことで、イワンは自分を責めた。なぜ気付いてやれなかったのか、どうすればよかったのかと本を読み漁った。実際にさまざまな集会やイベントなどにも足を運び、そこで​ルイスと出会うことになったのだ。​
「それで気が合って、よく助けてもらったんだ。オレがフラれるたびに心配して、こまめに様子見に来てくれたりあちこち気晴らしに連れ回してくれたりしてさ」
「フラれるたび?」
 何、とリフェールが思わず口を挟むが、ルイスはさらりと笑った。
「オレ、付き合ってもキスどころか手も握れなかったから」
 どこから追及してくれようか、とリフェールがつないだ手を思わずきつく握りしめる。
 それを感じてルイスが、声を出さずに笑う。手をつなぐようになって、前よりずっと彼の考えがわかる気がするのだ。
「言っとくけど、あいつは男は対象外だから。余計な詮索はするなよ」
 ひとつだけ正確に牽制したあと、不意にルイスは不思議そうにリフェールを見た。
「お前はさ、どうやってそういうの受け入れてきたんだ。いつ頃気付いた?」
「そういうの、とは?」
 何のことだ、とリフェールが首をかしげると、ルイスが言いにくそうに口ごもった。
「いや、その…あんまり人を好きにならないとか、しなくていいとか……」
「それは、そうなったときではないのか? 誰に好きだと言われても、人に対する興味もセックスに対する興味も、少しも沸かなかった。まあ、俺の場合、あまり好き嫌いという感覚そのものが強くなくてな。それが恋愛となると覿面(てきめん)で、お前のときとは明らかに違った。だからお前限定かと思った。それだけだ」
 それがどうした、と言われて、ルイスはどんな顔をしたらいいか分からない。リフェールにそういう意図はないのかもしれないが、彼がさらっと口にすることが、ルイスには時折ひどく気恥ずかしく思えるときがある。
 ルイスは気を取り直し、深く息を吸い込んだ。
「オレは、まだ諦められない。お前はいいって言ってくれるけど、オレだって、お前と普通の人みたいに付き合いたい。だってお前は、オレとなら」
 胸が苦しい、と思った途端、ルイスはぎゅうときつく抱きしめられた。それはすぐには終わらず、締め上げられてミシミシ音がしそうなくらいになってルイスは、かろうじて手をバタバタさせた。
「痛い!」
 たまらず声を上げると、すぐにリフェールは腕を緩めて離れ、じっとルイスを見つめた。
「お前がしたいと思ったときには、いつでもしよう。お前のペースで、少しずつ試してみよう。しかし本当のことを言うと俺は、好きだから反応して当たり前だとお前に思わせる自分の身体を、良いものだとは思えないのだ。だから、あまり思いつめてくれるな」
 その言葉に胸を突かれて、一瞬ルイスの息が止まった。彼が自分の身体のことをそんな風に捉えているなど、何かひどくそぐわないことのように思えたのだ。言葉が出てこないまま、こくん、と頷くと、リフェールはほっとしたように目元を緩めてルイスの肩に腕を回した。
「帰ろう。こんなところでのんびりしていると、夜が終わる」
 翌日には、またふたりはそれぞれの生活に戻るのだ。結局1日も滞在しなかった前回の休みどころか、気持ちが通い合ったのに最後までは一緒にいられなかったいつかの冬休みを取り戻すような、そんな日々とはまたしばらく疎遠になる。
 それでも、ふたりは「ふたり」だ。今のふたりにできる形で、「一緒」にいることを決めた。その形が世間一般の恋人同士とも友人同士とも全く違っていようと、互いが唯一の存在であることに変わりはない。
 ルイスは、リフェールを盗み見る。学院に入学して、初めて出会ったときから変わらない、大きくも鋭く青い瞳。その強い印象を和らげるように、不思議に温かみの増した髪の色。いつも不満そうな口元は、見た目とはかけ離れてとことん甘い言葉を紡ぐ。
 昔はそうじゃなかった、と思い返していると、リフェールが間近で振り返る。
「どうした」
 ルイスは笑って首を振った。
「何でもない。この先の噴水だけ、見ていこう。前に来たときは、止まってたから」
「夜だぞ。今日も止まっているのではないか」
「それを確かめたい」
 リフェールは肩をすくめたが、何も言わなかった。その肩に、ルイスも腕を回す。
 ほかの誰にもわからないだろうがリフェールが好きだ、と強く思う。どんなに、ほかと違う形をしていようとも。
 オレンジ色の暖かいあかりが、ふたりのほかは誰も歩いていない深夜の石畳を灯し続けている。やがてシャラシャラと水の流れる音が聞こえてきて、ふたりは顔を見合わせた。

<Fin>
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