2 気付き ⅳ

文字数 5,524文字

 リフェールはこの冬も、休暇にルイスを実家に誘った。何をしたいわけでもない。誰の目も気にせずに、ただふたりで一緒にいたい。それだけのことが学内では許されず、気を許すこともできない状況に、焦れたのだ。
 その前の春休みと夏休みは実家に帰ったルイスだったが、結局父親とは話にならなかった。夏、ほぼ一年が過ぎメディアの追及は下火になったのか父も実家には帰ってきたが、ルイスがその件を持ち出すと途端に不機嫌になり、会話が続かなかったのだ。
 彼にとってはすでに片付いたことのようだったが、ルイスにはそうではない。何せ今まで、一言も話がないままだったのだ。説明でも弁解でも釈明でも、何かその件について息子に話すことはないのかと問い詰めても、「お前に何の関係がある」と跳ね除けられた。
「謝罪が欲しいのか? しかし私が誰と何をしようと、お前に何かを言われる筋合いはない。お前が社会に出るまでの生活費は、保証する。好きにするがいい。それ以外、お前に責められる理由は何もないし、お前には一切関係のないことだ。余計なことを言って、私を煩わせるな」
 アントワーヌはルイスと目を合わせようともせずに、うんざりしたように額に手を当てた。
 リフェールに誘われたとき、ルイスも全く迷いがなかったわけではない。卒業学年ということで、休みが明けたら大学入学資格取得試験の準備が本格化するのだ。大事な時期ではあるが、だてに5年間成績上位を維持してきたわけではないと、腹を括った。好きにしろとの父の言葉もあることだし、進学についても、どこに進もうが問題はないだろう。大体が、実家で心穏やかに勉強できるとは思わない。
 そんな訳で父と試験と恋人を秤にかけたルイスは、昨年同様コテージを使わせてもらえるならと誘いを受けた。
 年末直前には、リフェールもコテージに移ってきた。年末恒例行事の最中に、ホストたる公爵が、ゲストともども山向こうの海岸沿いにあるマイトナー家の別荘に移ることになったからである。
 リフェールは家長の息子ではあるが、屋敷にいるならまだしも、別荘はこちらほど広くはないし大学入学資格取得試験を控えた身であると理屈をこね、残ることにしたのだ。その結果屋敷には、コテージの面倒を見る最低限の人間だけが残り、ほかは執事や料理人たちも全て別荘へ移っていった。
 ふたりの関係を深めるには、まるでおあつらえ向きである。
 しかしあの日覚えた違和感を、ルイスはまだ綺麗さっぱりとは拭い去ることができないでいる。男同士だからだろうか、とも考えた。男女の恋愛のようにはいかないことに対する違和感なのかと。だから、同性同士はタブーとされるのか、と。
 けれど彼にとって、女性はそもそも鑑賞物でしかない。男子生徒の間で、時々禁止されているはずの雑誌などが行き交い興奮気味に話をしているのが、よくわからない。美しい、綺麗だとは思うものの、好きというような恋愛感情を抱いたり、身体が熱くなったりというようなことは、今までに一度もない。キスをしたいとも考えられない。いわんやそれ以上など、もってのほかだ。
 ルイスとて、一緒にいて楽しく話ができる女友達もいる。それでも「友達」とは明らかに違う意味で好きだと思えたのは、リフェールが初めてなのだ。
 それなのに、キスを気持ちの良いものだと思えなかった。
 今のところ、彼にとってリフェールとの一番心地良い距離は、隣り合って座ること、肩や腕を触れ合わせること、手をつなぐこと、ハグすることだ。体温を感じることそのものは、嫌いではないようだが、それ以上のことに関しては考え始めたら最後、頭を抱えるばかりだ。
 コテージでは、リフェールがルイスの傍にいることが増えた。学院では人目を気にして距離を置いていたのが、今ではどこかが触れていないと落ち着かないとでもいうかのように隣にいて、手をつなぐことも多い。その上、時折思い出したように抱きしめ唇を啄んでいくこともある。そんなリフェールに驚かなくはなったものの、ルイスはどう応えるべきかわからないでいる。そのことがしっくりこないでいるのは、自分だけなのだ。
 やはり、誘いを受けるのではなかったか。ともするとそんな考えが思い浮かんで、ルイスはチェスのコマを手の中で弄びながらため息をついた。なぜ自分は、好きな人と一緒にいるのにこんなにあれこれ頭を悩ませているのだ。
 先ほど夕食を共にしながら、とうとうリフェールは切り出した。今夜、部屋を訪ねていいかと。
 ルイスだって、今のままの中途半端な関係でいいとは思っていない。だから、待ってる、と答えた。
 答えたのは、自分だ。もう考えるのはよそう、とルイスは、彼を待つ間、気を紛らわせるためにテーブルに広げたチェス盤を見つめる。
 よし、と拳を握りしめたルイスの手の中で、パキ、と小さな音がした。


 世話係は、すでに主屋に引き上げた。火の落ちた厨房からワインとグラス、つまみのナッツとチーズを探し出して持って来たリフェールは、ルイスの部屋の前でしばし逡巡した。
 正直なところ、リフェールがコテージに移ることをルイスが承諾するとは、リフェール本人でさえ思っていなかった。
 リフェールは、ルイスと気持ちが通じ合った今でも、いつぞや前生徒会長が言ったような「その先」について、どうしてもしたい、とは、実は今も思わない。彼を思うと不意に身体が反応することもあるが、だから彼と、とは、あまり考えられないのだ。
 しかし、付き合うからにはすべきことがある、ということくらいは知っている。それに、触れ合うことそのものは嫌いではない。だから「その先」については、できたらしてみてもいい、くらいに思っていた。
 けれど、身を寄せると時々ルイスが緊張して身体をこわばらせることに、リフェールは気が付いた。それは特にキスをするときだったり、抱きしめた腕が腰回りを撫でるときだったりした。
 「その先」を警戒しているのか、と考えるのは自然なことだった。そのこともあり、ゲストたちがいなくなることを告げた際には、お前も山向こうに行けと言われるか、そうでなければ実家に帰ると言い出すかもしれないと予想していたのだ。
 コテージに移って三日目の今夜、わざわざ部屋を訪ねてもいいかと確認をしたのは、ルイスの気持ちを聞いてみたいと思ったからだ。
 自分と付き合うことに、無理をしていないか。もしかして、キスや「その先」の行為が、嫌なのではないのか。そうであれば、しなくてもいい。触るなと言うなら、触らない。だから、一緒にいることを許してほしい。場合によっては、そう告げるつもりでもいた。
 話をするだけなら昼間いくらでも時間はあるのだが、明るい中でするにはこんな話は何となく気が引ける。そう思って今夜、改めて部屋を訪ねてきたのだが、これはこれで何か選択を誤ったような気がしなくもない。
 それで今、彼は素足にスリッパを引っ掛けパジャマにガウン姿のまま、ドアの前で立ち尽くしていたのだ。右手に持ったワインボトル、つまみとグラスの乗った左手のトレーが、心なしかとても重く感じる。
 なるようになれ、とリフェールは一つ息を吸い込み、ボトルを持った手でドアをノックした。
「ルイス! 起きているか」
 声をかけると、何やら焦ったような声とガラガラとブロックをかき混ぜているような音がした。
 寝てはいないようだが一体何をしているのか、と訝りつつ、ドアノブに手をかける。
「開けるぞ、いいか」
『あー……、どうぞ』
 地を這うような声に、首を傾げながらドアを開ける。すると目に入ったのは、同じようにパジャマ姿のルイスが中腰になり、ドアの左手にあるローテーブルでチェスボードに倒れたコマを慌てて片付けているところだった。
 リフェールは、ドアを背で支えて呆れたようにそれを見下ろす。
「焦らんでもいいのだが、焦る理由があるのか」
 ルイスははたと動きを止め、気まずそうにリフェールを見上げた。それから力が抜けたようにソファに腰を下ろすと、片付けるより先に彼の手にあるものを置く場所を作り、神妙に頭を下げた。
「…ごめん。クイーンの杖、折った」
「は?」
 何のことだ、と構わずに向かい側のソファに座る。テーブルにワインのボトルを置いて皿とグラスを並べると、チェスのコマが静々と差し出された。白のクイーンが手にする杖が、途中で折れていた。リフェールはぽかんと小さく口を開けてそれを見つめていたかと思うと、堪えきれずにプッと吹き出した。
「本当に申し訳ない。これも、大事なコレクションなんだろう」
 この家にあるものは全て高級品、と大雑把な認識をしているルイスが、困ったようにクイーンと折れた杖をテーブルに置いて姿勢を正すが、リフェールは笑いが止まらない。苦しそうに顔を上げて、彼はひらひらと手を振った。
「いや、悪い。これは、お前のせいではない。俺が子どもの頃に折って、接着剤で付け直したのだ」
「ええ?」
 そう言われてコマを手に取り、しげしげと折れ口を見るルイスに、リフェールはほかのコマも取り上げて見せた​。​
 ほら、と渡された黒のナイトは前脚を上げて後ろ脚で立つ馬で表されていたが、なるほどよく見ると尻尾に継ぎ目がある。
「子どもの頃、癇癪を起こしてな」
 子どものリフェールがゲームに負けて癇癪を起こす姿は想像に難くなく、ほかにも継ぎ目のあるコマをいくつか見つけてとうとうルイスも笑い出した。
「お前、こんなにたくさん」
「一つ折ったら、このセットしか触らせてもらえなくなった。案の定、その後も次々と」
「相手は?」
「母上だ」
 散々大笑いして腹を抱える羽目になったふたりは、息苦しくなってワインのボトルに手を伸ばす。指先が触れ合う直前に、ふ、と我に返ったルイスが手を止めた。リフェールは、気にした様子もない。さっさとボトルを取りあげ、栓を抜いてそれぞれのグラスにつぎ分けた。
「懐かしいのを見たからには、ひと勝負だ」
 え、と顔を上げたルイスにグラスを差し出し自分もひと口喉に流し込むと、リフェールが皿とチェス盤の場所を入れ替えてさっさとコマを並べていく。
「最近は、俺が勝ち越していたな?」
 得意げに口の端を上げるリフェールと目が合うと、ルイスは戸惑いを隠して小さく笑った。
「次も当たり前に勝てるとは、思うなよ」


 結局、ゲームはなかなか勝敗が決まらず、何回目かのステルメイトになってようやくふたりは勝負を諦めた。時刻はすでに、真夜中を過ぎている。
 疲れた頭で盤上から視線を上げたリフェールは、その向こうで同じようにぐったりした表情のルイスを見て苦笑した。最後に、グラスに一口だけ残っていたワインを飲み干す。
「今日はここまでだ。寝る」
「…え?」
 テーブルの上を片付け始めたリフェールを見て、夢から覚めたかのようにルイスがぱちぱちと瞬きをする。
「部屋に戻るんじゃ、ないだろう?」
 一度は落ち着いた胸の辺りが再びざわつくが、リフェールは手を休める様子がない。
「戻る。お前もさっさと寝ろ」
 迷いなく動くさまをただ見ていたルイスは、そっけなく聞こえるリフェールの声に焦って身体を起こした。
「そんな、せっかく……」
 ルイスは、リフェールは一線を越えたいのだと思っていた。それは付き合っているのだから当たり前のこと、自分だって彼を好きなのだから何とかなると、覚悟を決めたのだ。
 だから、それをしないということはルイスを不安にさせる。
 好きなのだからする、と。
 そう思っていたのは、自分だけだったのか。それとも、何か気分を害するようなことを自分がしたのだろうか。
 どこか必死にも見えるルイスの表情に気が付いて、リフェールは最後にテーブルをひと拭きしてから屈んでいた身体を起こす。そうして困ったように笑いながら立ち上がり、彼の腕を引いて立たせると自分の方に引き寄せて、宥めるようにその身体を抱きしめた。
 それほど身長の変わらぬふたりは互いに肩口に顎を乗せるような形になり、リフェールは柔らかなその髪をそっと撫でる。
「ばかめ。なぜそんな顔をする」
 そのぬくもりにルイスはほっとして、もごもごと口の中で弁解した。
「…オレだってちゃんと、そのつもりでいたんだぞ」
 不明瞭ながらもしっかり聞こえてしまったリフェールは、目を丸くして身体を離し、その肩に手を置いた。
「ルイス」
 間近で目を見合わせると、ルイスは顔を赤らめて拗ねたように口を尖らせる。
「いつも、うまく応えられなくて悪いとは思ってるんだ。けど、付き合ってるんだし……」
(自覚はあるのか。しかし、そういう問題か?)
 リフェールは試しに何も言わずにゆっくり顔を寄せると、静かにそっと唇を重ねた。あ、と目を閉じたルイスの上唇と下唇を軽く食んで離れる。
「嫌ではないのか、お前。緊張しているのだろう」
 すでにこれだけで体に力が入っているのを指摘され、自分も腕を回そうとしていた手でルイスはリフェールの背を叩いた。
「して悪いか! 初めてなんだ!」
「い…っ、お前な」
 痛みに声を上げたリフェールを抱きしめ、ごめん、とその背を撫でて首筋に顔を埋める。
「好きなんだ。したい」
 柔らかな髪に鼻先をくすぐられ、思い詰めたような声で言われて、リフェールは当初聞こうとしていたことを口にすることが出来なくなる。必要性は感じなくとも、興味がない訳ではない。
 ルイスがしたいなら。
 そう考えて、リフェールは慎重に言った。
「お前が嫌なことは、しないと約束する。だからお前も、されて嫌なことは言え。いいな」
 わかった、と囁くような声でルイスは返事をすると、身体を離してベッドへとリフェールの腕を引いた。
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