2 気付き ⅵ

文字数 9,283文字

 結局その後、ルイスはマイトナー邸に戻ることはなく、新学期のために帰寮してようやくリフェールは彼の無事な姿を見ることができた。しかし彼は距離を置くばかりで、二人きりにならないよう徹底して逃げ回る。
 業を煮やしたリフェールは、部屋の主がいない時間に勝手に押し入るという暴挙に出た。
 寮の部屋は、個室であってもいずれも鍵はかからない。しかし閉まっていれば不在か入ってほしくないという意思表示であり、無断で入るのはマナー違反だ。
 それを無視してある晩、リフェールはルイスの不在時に部屋に入ったのだった。マナー違反どころか、人としてのあり方を疑われる行為だと、よくよくわかっている。いつぞやのバカどもと同じことをしている、寮監を呼ぶなら呼べ。そう思う一方で、ルイスは黙って受け入れるだろうと、確信していた。
 ルイスは、リフェールが部屋に来るとしたら一人になれる夜の自由時間だろうと考えていた。そのため夕食を終えると最近は自室に戻らず、下級生が自習室からいなくなりそれぞれの部屋に引き上げる就寝時間直前まで、彼らと一緒に自習室の空いた机を使って勉強していた。
 最終学年の就寝時間は23時と決められてはいるが、下級生の就寝時間である22時以降は、誰であっても廊下に出ないこととされている。当然寮監に見つかろうものなら罰則が待っているし、生徒の模範たるべき生徒会長がルールを破るわけにはいかない。
 だからその時間さえやり過ごすことができればなんとかなると、ルイスは(たか)を括っていたのだ。個室なので、シャワーは部屋で済ませることができるのも幸いだった。
 ルイスがリフェールと二人で話をしたくないのには、訳があった。
 病院に行かねばとは思ったものの、家にも、当然マイトナー家にも、少しでもゆかりのある病院には行けず、かといってどこが専門かもわからない。背に腹は変えられないとルイスが頼ったのは、卒業した前生徒会長のモーリス・ジュリアンだった。
 医学部に進学した彼の伝手(つて)を頼りに受診したのは、守秘義務も万全で腕も確かという専門医だったが、最終的には心理的なもの、経験不足による気持ちの萎縮、と言われただけだった。
 曰く、染色体異常なし、男性ホルモンテストステロン正常、男性生殖機能問題なし。ストレスと見られる数値および症状なし。性的トラウマなし。
 全ての結果が出揃うまでには一週間ほどかかり、結局は新学期が始まって最初の週末にルイスは外泊許可をとって再度マイロンの病院に赴いた。
 その際、やむなく事情を話す羽目になったモーリスに挨拶がてら簡単に診断結果を伝えると、モーリスは一瞬何かを思いついたように息を吸い込んだ。病院でもそうだったように慰めの言葉をかけられると察知して、ルイスは頭を下げることでそれを遮った。
「お忙しい中、急なお願いをお引き受けくださり、ありがとうございました。少し、様子をみようと思います」
 ゆるくウェーブのかかった柔らかい栗色の頭を見下ろして、モーリスは面食らいはしたがすぐに気を取り直して小さく笑った。
「便利だろう? アズールシステム」
 スクールカラーの青にちなんで「アズールシステム」と呼ばれるそれは、学院生のつながりの強さを示すものでもある。同窓生や在校生から連絡があったときは、相手が知り合いだろうと一度も顔を合わせたことがなかろうと、一度は必ず応じなければならないのだ。
 システムと言われてはいるが、物理的なものは連絡先と居住地、職業の記載された名簿以外、何もない。しかし、それを見て連絡したと言われたら必ず応じるべしという、つまりは規範の一種だ。
 ルイスが頼ったのはモーリスだったが、さすが元生徒会長なだけあって彼は様々な年代の卒業生ともつながりを持っており、今回はその伝手を辿って学院とも縁のない医者を紹介してくれたのだった。
「ご恩は忘れません。いつか必ず、お返しします」
「そんなに畏まらなくていいのに」
 根が真面目なのか、上級生が相手だとルイスは若干堅苦しくなる。傍にあれがいないと、とモーリスは学院時代を懐かしく思い出しながら懐を探る。
「それに、返す相手は僕じゃなくていい。君も同じように、誰かの力になってあげるんだね」
 取り出したカードケースから、モーリスは一枚をルイスに差し出す。真ん中に2次元コードが一つ印刷されているだけの、そっけない白いカードだった。
「もしかしたら、これが君の役に立つかもしれない。パスワードは学院の略称、IDは君の学籍番号だ。学院つながりは嫌かもしれないが、登録なしで閲覧できる。その先は君次第だ。セキュリティもしっかりしてるから、まずは見るだけ見てごらん」
 こうして眺めるだけではなんの意味もなさない模様のようなそれを、ルイスは不思議そうに受け取る。
「これも、システムと何か関係が?」
「いや、何も関わりはない。立ち上げたのは卒業生だが、普通に検索してもヒットしないし、パスもIDも、関係者しか知らない。このカードを誰かが拾ってアクセスしても、入口で撥ねられる。万が一見ることができても、一般的な情報を得ることしかできない。便宜的に最初は学籍番号なんか使うけど、個人の紐付けはされてないから、運営側も個人を特定することはできない。登録するときは本名じゃなくて構わないし、パスもIDも変更できる。大丈夫だと思うけど、何かあったら僕に連絡をくれたらいいから」


 一体どんな危険性を孕んだサイトなのかと疑ってかかったルイスだったが、とうとうそこで彼は求めていた情報を得ることができたのだった。世の中に、人を好きにはなっても性的な関係を持つことを望まない、という人が自分のほかにもいることを。その上、ルイスがリフェールに向けるような感情を持たないという人も、多くいるのだということを。
 ホテルに戻ってモーリスのカードからアクセスしたのは、まさにそういった人たちのための情報サイトだった。参加者は多くないようだが交流もでき、その場合には登録が必要になるようだった。
 ほかにもいくつかサイトが紹介されていたので登録はしないまま、一晩ひたすらネットを介して情報を得てようやくルイスは、あるべきところに落ち着いたような気がしていた。
 病気ではない。頭がおかしいわけでもなく、それでもいいのだと。好きだからといって、必ずしもしなくても良いのだ。好きの基準は、それをしたいかどうかではない。しなくても、好きなものは好きと言って良いのだ。その考えは、好きならばしなければならない、という凝り固まったルイスの考えを解きほぐした。
 けれど、だからといって当面の問題が解決することはなかった。当事者であるルイスですら、そういう人の在り方があることを知らなかった。いや、昔授業か何かで聞いたことはあったが、それが実際にどういうことなのかを理解できていなかった。それをリフェールに、自分が一体どう伝えたらわかってもらえるというのか。
 親密で、いつもそばに寄り添って、時には抱きしめ合う。相手にとって、自分だけが唯一の存在でいたい。自分も、同じくらいに相手を大事に思い、他者など入る余地もないほどにひとつになりたい。ただし心情的に。
 ルイスは、そういう関係を望むのだ。友人のままでいたいわけではない。「恋人同士」になりたい。けれど、したいとは思わない。
 友情とは何か。恋愛とは何か。セックスをすることが基準ではないとしたら、人は何をもってそれをほかの感情と区別するのだろう。
 好きだと言うのは簡単だ。でも、キスもセックスもしたくない。それでルイスがリフェールを好きだと、信じてもらえるだろうか。この思いを身体で伝えなければ、「好き」を「好き」だと認めてもらえないのではないか。けれどルイスは、したくないのだ。
 堂々巡りだ。
 それでルイスは、とうとうリフェールから逃げたのだ。好きだと告げたのは自分が先だというのに、ずいぶん勝手なことだ。けれどまさか、自分がそんなに面倒な体質だとは、ルイスはわかっていなかったのだ。人並みに、普通の恋愛ができると思っていた。
 リフェールも当然、普通の恋人同士の関係を望むだろう。ルイスがしたくないからといって、それに彼も付き合わせるのか。その関係は、長くは続かないだろう。遅かれ早かれ彼は、それができないことに不満を抱くようになるだろう。
 そうなったとき、自分を差し出すことができるか。それとも、自分はできないから、ほかに相手を探してくれと言えるか。どちらも、自分にはできそうもないとルイスは思った。だからといって彼に我慢を強いることも、できない。ならばいっそのこと、なかったことにしてしまえ、と。
 そうしてリフェールへの気持ちを、封印してしまうことに決めた。そんな矢先だった。
「ルイス・ヴァローナ。今日という今日は、逃さないからな」


 ルイスはこの日も無事に、リフェールと二人きりにならずに済ませることができたので、ほっとして自室に戻ったところだった。しかしドアを開けてすぐ横の壁にある照明のスイッチを入れた途端、眩しそうに目を細めたリフェールが椅子を軋ませながらくるりと振り向いたのにぎょっとして、その場に立ちすくんだ。
「リフェール」
 思いがけない姿を目の当たりにしてその場に固まっているルイスを見て、リフェールはふん、と鼻を鳴らす。
「さっさとドアを閉めろ。いつまでそうしているつもりだ」
 空調が効いているとはいえ廊下は室内ほど暖かくはないため、空いたドアから冷気が入り込む。それより何よりこの時間、話し声が漏れるのはまずかった。
 ルイスは観念して言われた通りにドアを閉めると、少しでも遠くにとささやかすぎる抵抗を示してベッドの足元側に腰を下ろした。とはいえ、寮長室などとは違って一般の狭い個室は、リフェールが立ち上がればほんの二、三歩の距離だ。
「とんだ生徒会長だな」
 精一杯虚勢を張るが、「歴史に名を残すことができて、光栄だ」とあっさりといなされる。
 その上、片肘を机に突いて頭を指で支え、足を組む彼の姿がひどくさまになっている。その姿がまた嫌いではないので、ルイスは自分にうんざりした。ため息をつくと靴を脱ぎ、もそもそとベッドに乗り上げて胡座をかく。
 リフェールが、トントントントンと空いた手で神経質に肘掛けを鳴らす。
「さっさと言え。診断結果は、どうだったのだ」
 そこで、ルイスは自分一人がその問題を飛び越えてしまい、彼を置き去りにしてきたことに気が付いた。
 が、気付いたところで、どう言い繕ったらいいのか言葉が見つからない。モーリスになら、なんとでも言える。本当のことだろうが嘘だろうが、何を言ってどう思われても痛くも痒くもない。しかしルイスにとって、リフェールはそうではない。
 視線が、真っ白なシーツの上を彷徨う。
「今は、様子を見ろと」
 言葉少なにルイスが言うと、肘掛けを叩いていたリフェールの指がぴたりと止まった。しん、と空気の流れまで止まったかのような一瞬のあと、リフェールが慎重に確かめる。
「緊急性は、ないのか」
「まあ。すぐには、その…変わらないみたいだが」
「…命の危険性は」
「それは、ない」
 それを聞いて、彼は長い息を吐き出した。
 逃げるようにマイトナー邸をあとにし、学院に帰ってきてからもひたすら彼を避けてきたルイスは、居た堪れずに小さくなる。こっぴどく怒鳴られると思っていたのだ。まさかこんな風に心配されるなど、予想もしていなかった。
 落ち込みかけたところで、リフェールがドン! と握りしめた手を机に打ちつけた。びくりと身をすくめて顔を上げると、これ以上ないくらい眉間に深い溝を作り、大きな目を吊り上げて、彼がルイスを睨んでいた。
「で? 貴様はなぜ、俺から逃げるのだ」
 申し訳ない、という気持ちが、心の中からさっと消えていく。その代わりにたちまち心が氷で覆われていくような、冷たく重い気持ちになってルイスはじっとリフェールを見た。
「別れたいんだ」
 その言葉を口にした瞬間、何かがぐっとルイスの胸を迫り上げてきて息を詰めた。
 リフェールは、何を言われたかわからない、という表情で眉を寄せている。
 休みが明けてからこちら、リフェールはリフェールで、ルイスが自分を避ける理由を散々考えてきたのだ。
 あの夜、結局自分の気持ちをルイスに伝えることはできなかった。初めて互いの肌に触れ合ってから、その後そうしなかった理由を、リフェールは話したいと思っていたのだ。そうしてルイスはどうしたいか、今度こそ聞きたいと思っていた。
 けれどうまく伝えられなかったばかりか、ルイスが病院に行くと言い出して動揺し、ついてくるなと拒否されてかっとなった。挙げ句、次の日の朝リフェールが起き出したときには、すでに彼は出て行ったあとだった。
 その後は端末に連絡を入れてもなんの返事もないまま、帰寮となった。
 学院に戻ってきてしまっては、二人きりで話をすることなど不可能に近い。隙を見て声をかけるものの、誰が聞いているのかもわからないところで、あれほどリフェールに知られるのを嫌がった病気のことなど聞けるはずもない。言葉を選んでいるうちに、彼はさっさとその場を切り上げ、必ず誰かを捕まえて行ってしまう始末だった。
 リフェールを好きだから病院に行く、とあのときルイスは言った。
 それは、どういうことなのか。うつる病気かと一瞬疑ったが、それなら一緒に診断してもらうだろうし、結果が出ればすぐに知らせるはずだ、と思い直した。
 それでは、余命が短くてリフェールを悲しませたくないとかそういうことかと思ったが、今のところ学校生活は支障なく送れているようだ。傍目にも顔色が悪いようには見えず、食事も取れているようなので、彼がリフェールを避けるのは病気のためではないだろう、と判断してまずは安心した。
 だが、それならなぜ。大体、彼が何か病気を抱えているなど、今まで風の噂どころか本人にも聞いたことがない。
 挨拶もなく屋敷を出て行ったことが、後ろめたいか。それなら、どうということもない。
 そんなこと以上にルイスがリフェールに会いたくない理由は、何か。やはりあれがまずかったか、病気も嘘だったのか。そんな風に考えては頭を振り払い、どうせ眠れないならとベッドでテキストを広げては、うつらうつらと朝を迎える毎日だった。
 秋も深まったあの日の夜、互いの想いが通じ合ったときの彼の声を、リフェールは忘れてはいない。ルイスは、アリスを心配しているのだと誤解されたことを怒った。リフェールを好きなのだと言って、いなくなると困ると訴えたあのときの表情は、きっとこの先も忘れられない。
 そのときとはまるで違う冷たい声で、顔つきで、今彼は何と言ったか。
「どういう意味だ」
 リフェールはそう口にしてから、喉がからからに乾いていることに気が付いた。握りしめた手のひらに、爪が食い込む。
 力を込めすぎて血管の浮いているリフェールの拳を目の端に捉えながら、ルイスはじっと彼を見返す。
「別れたい。悪いけど、なんかちょっと違った」
 すでに、言ったそばからルイスは後悔している。もっと言い方があるだろうに、と。けれど、もう遅い。
 案の定、リフェールがぎゅっと口を結んで、見たこともないくらい厳しい顔をしている。
「何が、違ったというのだ」
 低く問い返すリフェールに対抗するように、ルイスは殊更軽く言葉を重ねる。意識して口の端を上げているつもりだが、ちゃんと笑えているかどうかは自分でもわからなかった。
「やっぱり、男同士でキス、とか…付き合うなんておかしいと思ってさ。リフェールも、ちゃんと女の子と付き合った方がいいよ」
 キスが気持ち悪いとは、冗談にも言えなかった。本当にノーマルなら、こんなひどいことも平気で言えるんだろうか、と、ルイスは込み上げるものを押し殺して歯を食いしばる。
 睨み合うふたりの間に、長い沈黙が降りた。どちらも、相手から視線を逸らすことはしなかった。ルイスが好んで使っているアナログの時計が、カチカチと音を立てるだけの息苦しい時間がしばらく続いたあと、リフェールが肘掛けに手をついて立ち上がった。
「俺が誰と付き合おうと、貴様の指図など受けん」
 そうしてリフェールが椅子を机に戻し、ルイスを見もしないまま部屋を出ていくと、いともあっさりふたりの関係は終わったのだった。


 意地の張り合いだった。
 以前には、仕掛けられた勝負に乗ることがコミュニケーションの一つにまでなっていたが、今ではいかに人前で平静でいられるかが、勝負そのものになったようだった。そのうちに、二人のやり取りは一見穏やかではあるものの酷く緊張感を孕むものとなり、冷えて、特に同級生たちには、とうとうここへきて本格的にけんかしたかと揶揄されるまでになった。
 もちろんそれを当人たちに指摘すれば、目の前で白々しい会話で否定される。そして時には笑って肯定され、その場にいる全員が雪山の頂上にでもいるかのような冷え冷えとした思いを味わうことになるので、早々に真偽を正す者はいなくなった。
 二人の関係が戻らないままに迎えた卒業試験は、一科目の差でリフェールが総合トップとなり、生徒会長の面目躍如となった。
 リフェールは、成績優秀者などを表彰する授賞式には登壇したが、広い校庭で開催された在校生主催の卒業セレモニーではあろうことか挨拶を辞退した。
 代わりに挨拶する羽目になったのはルイスだったが、苦々しく思いながらも引き受けた壇上からは、リフェールの姿を探し出すことはできなかった。
 そのときには、リフェールはすでに会場を離れていた。随所に設置されたスピーカーから聞こえるルイスのスピーチが終わると同時に、授賞式に参列していた母を促して迎えの車を発車させた。
 ビュッフェ形式のセレモニーを楽しみにしていた母のサラがリフェールの隣で散々文句を言ったが、彼の耳には届かなかった。
 ルイスが何事もなく大学入学資格を取得したことは、リフェールが積極的に聞こうとしなくても周りが教えてくれた。しかし、どこへ進学するのかは誰もわからなかった。
 が、それも9月になれば誰かから聞くことになるだろう。所詮、二人の進路はもう交わらない。理系が得意なルイスとは違って、リフェールは政治経済か法学に進む予定だ。しかし学院の卒業生は大概がエリートコースを進むものが多く、その道は細く少ない。リフェールはルイスと道が交わらなくとも、彼と道を同じくするおせっかいな知り合いが、いずれ聞かずとも教えてくれるだろうと確信していた。
 それよりも今日、彼の父が授賞式に参列していなかったことがリフェールは気になっていた。来賓席にはもちろん、親族席にもその姿はなかった。誰か、彼のために参列した身内はいたのだろうか。それくらい、確認してから来るのだったかと唇を噛んだが、確認したからといってどうなるわけでもない。きっと、聞いても教えてはもらえなかっただろう。
 もの思いに耽る息子の隣で、何を言っても返事がないことに諦めてサラは口をつぐみ、彼とは反対側の窓から流れる景色を眺めた。卒業の日に相応しい、爽やかな初夏の青空が広がっている。それなのに、ただの別れだけではない寂しさに胸が塞がれる。
 冬季休暇中、ルイス・ヴァローナが突然帰ってしまったと聞かされたときは、事情が分からず驚くばかりだった。前回とは違い、息子もよく一緒に過ごしていると聞いていたので、尚更だった。その上けんかでもしたのかと当の本人に聞いても、さっぱり埒があかなかったのだ。
 春季休暇はサラが忙しくて、一人で帰ってきたリフェールと顔を合わせることすらできなかった。これだけ時間があったのだ。その後仲直りできたかと思っていたが、この様子ではできなかったようだ。
 息子とルイスはどうやら恋人同士らしいと、マリーから聞いたときにはびっくりした。誰にも言っていないが彼の父親も女性とは付き合えない人間だったので、一瞬遺伝かと思ったのである。しかし遺伝といえば、マイトナー家にはいつの時代も枠にはまらない人間が出るようなのでそちらの線もなくはない。どちらにしろ、ただの偶然であろう。
 ともあれ二人の関係がそういうものであるのならば、母としても、もっと彼と話をしたかったのだ。友人だろうが恋人だろうが、これまで何にも特別の興味を示さなかった息子が初めて心を許した相手だ。二人の、6年分の話を聞きたかった。
 それなのに、今日は授賞式には参列できたものの、セレモニーの直前に息子に腕を取られて帰ってきてしまった。世話になった恩師にはかろうじて挨拶できたが、もっと大事なルイスには会えなかった。
 何があったのか。
 進学先も決まって肉体的にも立派な大人になりつつある息子の肩を揺さぶって、問いただしたくなる気持ちをサラは押さえ込む。横目でちらりと窺った限り、ぎゅっと口を引き結んでこれ以上ないくらい眉を寄せている彼の不機嫌そうなしかめ面は、子どものときと変わらない、泣くのを必死で堪えている顔だったからだ。
 さみしいね。
 内心でそう呟いてうっかり溢れそうになる涙を深呼吸でやり過ごし、サラは息子の手を取った。振り払われるかと思ったが、そっぽをむいたままの息子に強く握り返され、とうとう母は我慢できずに鼻を啜った。
 ぎょっとして、息子が振り向く。
「母上?」
「楽しみにしていたのですよ、セレモニー」
 恨みがましくそう言うと、リフェールはばつが悪そうに肩をすくめた。泣くほど出たかったのか、と顔に書いてある。
「すみません」
 そうよ、出たかったのよ、とサラは握った息子の手をもう片方の手で包み込むと、息子とよく似た勝気そうな顔で笑った。
「今日は、私の大好物でお祝いにします。よろしいわね?」
 ここに来てようやく、リフェールも笑みを浮かべる。母の大好物は知っている。マリーの手料理だ。
「はい」
 端末で屋敷に連絡を入れると、待機していたクリューエフが画面に現れた。
「今日は、そちらへ帰ります。予約していたホテルの、キャンセルを頼みます。それから、マリーにご馳走を作るように伝えて。急で悪いけど、今夜はみんなでお祝いよ。休みをとっている人たちには、伝えなくていいわ。いる人たちで、楽しくやりましょう。よろしくね」
 他家ではどうか知らないが、マイトナー家では、「みんなでお祝い」といったら屋敷に勤める者全員でお祝いなのだ。両親も亡くなり、自身の兄弟は全員家を離れたサラが、父も兄弟もいない息子が寂しくないようにと考えて始めたことだった。
「ありがとうございます、母上」
 真意はわからずとも、気遣われていることくらいわかるようになったらしい息子だったが、サラが感傷的でいられたのもここまでだった。突如として彼が、自己主張を始めたからだった。
「ところで母上。進学も決まりましたので、髪を切ります」
 こうして日々は続いていくのだ。
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