1 迷い ⅴ

文字数 2,274文字

「バカですか、あんたがた!? 子どもじゃあるまいし今時期朝まで外にいるとか、何考えてんですか!」
「うるさいな。大人だから、ちゃんと仕事にはきたぞ」
 出社するなり盛大なくしゃみを連発した挙句ティッシュとゴミ箱を抱え込んだルイスに、ハーブティーを持ってきたカイルが大きな雷を落とした。お茶と引き換えにルイスが差し出した体温計を奪い取るようにして確認すると、じろりと疑いの目を向けてくる。
「誤魔化してないすか」
「心配なら、ついてればいいだろう」
 体温計は平熱を示していたし、多少鼻水が鬱陶しいくらいで頭痛もない。カイルが持ってきたハーブティーを一口飲むと、はちみつの甘味がじんわり身体に染み込んでいく。両手でカップを持ち、身体が温む感覚を味わっていると、今度はリズがドアから顔を覗かせた。
「アヤが、リフェールにもお茶持っていくって。どこに泊まってるんだったかしら」
「昼にはオフィスに来るって言ってたから、そのときでいいんじゃないか」
 意外にぞんざいなルイスの言い分に、トレーを抱えて様子を見ていたカイルが目を釣り上げた。
「あんた、好きならもうちょっと相手を労わったらどうなんすかね?」
「いや、あいつ丈夫だから」
 そう言いながら、ルイスはちょっと居た堪れない。カイルの言葉は、核心をついている。
「わかった。じゃあお説教は、虚弱なうちの社長を寒空の下引っ張り回した無敵の外交官に言えばいいのね。言ってきたげるから、さっさとホテル教えなさい」
「いや、だから、いいんだって本当に。オレが引き止めたんだから」
 焦って立ち上がったルイスを、リズとカイルが目を眇めて見やる。目的は説教ではなく、お茶の差し入れである。何を心配しているのか。
「バカバカしい。ぐだぐだ言わず、アパートメントに泊めればよかったでしょうに」
「付き合うあの人もあの人っすよね」
 呆れて肩をすくめながら出ていく二人は、まるで姉弟のようである。
 椅子に座り直したルイスにも、バカは百も承知だ。さっさと、彼の手を取ってしまえばよいのだ。昨夜、何度そう思ったことか。
 端末を取り出して、オフィスには来るなと連絡しようかとルイスは迷う。
 しかし、考えに沈む時間はなかった。そのときタイミングよく、当のリフェールから連絡が入ったからだった。
『急な呼び出しが入った。悪いが一度マイロンに帰る。用が済んだらすぐ戻る』
 気をつけて、と返信したルイスは、休みものんびり取れないなんてお役所仕事も大変だ、と端末を置いた。
 このときはまさか、リフェールがそのまま戻らないとは思わなかったのだ。


 休暇先からろくな休息も取らないうちに呼び出されたリフェールは、着替えに官舎に立ち寄ることすらせず、真っ直ぐオフィスに赴いた。休み中に呼び出されるなど珍しくもないことだったが、それならそれでさっさと済ませてシャンブルに帰りたい。ただその一心だったのだが、到着した途端、オフィス全体の落ち着かない様子にリフェールもすぐに気が付いた。
 例の件は片付いたはずだが、と思いながら室長の部屋に顔を出すと、室長はほっとした様子で席を立ち自らリフェールの元へやってきた。
「リフェール、せっかくの休みに悪かったな。だがまあこんな事態だ、想像はついてると思うけどね。今連絡したから、すぐ部長のところに行ってくれないか」
「あの」
 肩やら背やらを叩きながらリフェールを部屋の外へ押し出そうとするのに抗って、リフェールは室長に質問する。
「何があったのか、教えてもらえませんか」
「ええ!?」
 知らないの、と驚いた室長は、それでも手短に状況を話してくれた。
 昨晩、治安が悪く長年テロが頻発する状態が続いている大陸南部の国ティエラにおいて、当国大使館周辺で自爆テロがあり、運悪く巻き込まれた外交官が数名亡くなったこと。急ぎ現地に行かねばならないため、ティエラ勤務の経験のある職員に呼び出しがかかっていること。
「せっかくの休みのところ悪かったけどね、今急ぎの仕事はないだろう。まずは、話を聞いてみてくれないか。経験者全員が行くということには、ならないと思うから」
 拒否権はある、ということらしい。
 ティエラは、リフェールの最初の勤務地だった。危険は多かったが、それなりの思い入れがある。異動のあとも日々のニュースで気にかけてはいたのだが、昨夜は全くニュースなど見てはいなかった。しかもこんなときに限って列車の中でもうっかり熟睡してしまったため、最新情報に乗り遅れたのだ。
 そうして促されて部長室へ顔を出す頃には、リフェールの腹は決まっていた。室長はああ言ったが、今すぐにティエラへ行ける人間などそう多くはない。家族のことを考えれば、躊躇う職員も多いだろう。そういったしがらみのない自分が手をあげるのは自然なことだし、それが当然の役目だ。その上自分には、先日のペナルティもある。公的に訓告の罰則も食らってはいるが、自分の中のけじめとしてリフェールはすんなりと答えを出した。
 ルイスのことも、考えた。昨夜あんな話をしたばかりだ。誠実さを疑われるとは思う。しかし、帰れない気はしない。どのくらいの期間になるかはわからないが、続きは帰ってからだ、とリフェールは拳を握りしめた。
 彼の地での仕事が、今のリフェールの仕事への基本姿勢を作ったのは間違いない。現地で知り合った人々の顔を思い出せば、行ってできることをしたいと思うのだった。
 部長と話し、シャンブルのホテルにはキャンセルの連絡をし、ルイスには短くティエラへ行くことのみを伝え、その日のうちにリフェールは出国した。
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