1 はじまり ⅱ

文字数 7,141文字

 夕食のあとは、4年次までは自習室で、5、6年次はそれぞれ自室で勉強することになっている。
 ルイスへの、一部の強い反感が大勢に伝染してさらにはリフェールまで巻き込んだ一件は、暴挙に出た面々と最終年次の数名が退学処分とされたことで下火になった。残った者たちは、まるで夢から覚めたかのようにおとなしくなった。
 じっと息を潜め距離を置いていた女子生徒や下級生たちとも少しずつ以前のようなやり取りができるようになり、ルイスとリフェールも、ここにきてようやく二人部屋の良さを実感するようになってきた。
 ルイスが一息つこうと立ち上がると、ベッドに足を伸ばして座り、壁にもたれて端末にレポートを打ち込んでいたリフェールが頭を上げた。
「俺も」
「横着者」
 口ではそう言いつつ、ルイスはコーヒーメーカーに冷蔵庫から取り出した水とコーヒー豆をセットすると、棚から二人のマグカップを取り出す。
 結局のところこれはお互い様で、先に手を出した方が二人分作るという不文律が出来上がりつつあった。豆も、少なくなったことに気付いた方が買い足す。部屋にコーヒーメーカーを持ち込んだのはリフェールだったが、ルイスも飲むようになったからだ。
 リフェールがこの方面では何の頓着もないことを、ルイスは初めて知った。それはどうやら、性格というよりもなくなったら買えばいいという考えのようで、ルイスに言わせれば「これだから貴族は」ということになる。その貴族の恩恵を被っているのは確かなので、流石に口にしたことはない。
 ほら、と差し出されたカップを受け取って一口コーヒーを啜ると、リフェールは自分の机に戻ったルイスの背中に声をかけた。
「お前、次の休みはどうするつもりだ」
「え」
 口に運びかけたコーヒーを机に戻し、ルイスはくるりと椅子ごとリフェールを振り返った。
「何?」
「冬季休暇の話だ。帰るのか、家に」
 秋口からの騒動に明け暮れているうちに、ひと月後には冬休みが迫っていた。
 家、と言われて、ルイスはすっと表情を消した。二人の間で今回の騒動のもとになったルイスの父のことが話題になったのは、これが初めてだった。
 リフェールが何も聞いてこないのをいいことに、ルイスも一切話さなかった。だから、ルイスは彼が例の件についてどう思っているのかを知らない。そもそもなぜ自分に肩入れしてくれたかすら、聞いたことがないのだったが。
 何を言われるのかと警戒したのがリフェールにも伝わったのか、彼はもう一口コーヒーを飲んでからカップを机に置き、興味なさげに端末に視線を落として作業に戻った。
「うちに来るか。部屋なら、売るほどある。宿代はいらんぞ」
「や、宿代!? そんな心配はしてない!」
 休暇中は、寮が閉鎖される。夏には一度も顔を合わせなかった父親だが、次の休みはどうかわからない。ルイスの中では、会って事の真相を問いただしたい気持ちと、絶対に会いたくない気持ちとが半々だ。ただ、今家に帰って父と顔を合わせても、冷静に話などできる気もしない。宿代などいくらかかってもいいから、家に帰らずに済む方法はないかと考えていた。
 声が上擦ったルイスをちらりとも見ず、リフェールがふっと小さく笑う。
「なら、来ればいいい。来たところで俺はお前の相手などしている暇はないし、お前にもパーティーに出ろなどとは言わん」
 ルイスにとっては願ってもない申し出だったが、リフェールの言葉で我に返る。
 マイトナー家の年越しパーティーは例年メディアでも取り上げられるほど有名で、各界の著名人が招待される盛大なものだ。かく言うルイスの父親も、何度か招待されたことがあったはずだ。流石に、今年はないだろうが。
 それきり口を閉ざしてレポートの作成を続けるリフェールを、ルイスは長いこと見つめてから思い切って息を吸い込んだ。
「お前、オレのこと嫌いだろう。なのに、何でそんなに構うんだ」
 先の一件で力を貸してもらったとはいえ、それまでの関係と何か変わったわけではない。もとよりそれぞれ一人で行動することが多かった上に、リフェールは変わらず、何かと理由をつけては勝負事を持ち込んでくる。負けて短気を起こす相手をいなしてやり過ごすのにはもう慣れたが、ルイスは不思議でならなかった。
 リフェールは、パタパタとキーボードを打つ手を止めない。
「悪いか」
「悪くはないさ。けど、オレを呼んで何が楽しいんだ、お前」
「単なる憂さ晴らしに決まっている。お前がいれば、いいストレス発散になるというだけの話だ」
 そこでようやくリフェールは、顔を上げた。
「無理にとは言わん。だが、どうせ客の多い時期だ。お前一人増えたところで、うちは誰の負担にもならんから、その気があるなら言え。遠慮はいらん」
 それだけ言うと、タン、とキーボードを打ち終える。そうしてベッドに広げた勉強道具を手早く片付けると机上のコーヒーを飲み干し、「時間だ。シャワーを浴びてくる」とさっさと荷物を持って出て行ってしまった。
 結局、ルイスの疑問が晴れることはなかった。


「お前、忙しいんじゃなかったのか」
 昼食のあとでリフェールにダーツの勝負を挑まれ、とうとう負けを認めてゲームルームのソファに倒れ込みながら、ルイスは恨めしげに言った。
 リフェールは上機嫌で鼻歌など歌いながら、向かい側のソファに座って丁寧にダーツを手入れしている。これもいつぞやの年代物だというのだから、金持ちの道楽にはため息が出る、とルイスはこっそり毒づいた。
「今日、最後の客と母上がいなくなったところだ」
「公爵も?」
「今度は、自分が招待される側だと」
 なるほど、とルイスは部屋の壁にスクリーンと並んで掛けられた時計に目をやる。日付も示すタイプのそれは、新年を過ぎて三日が経っていた。
 ルイスは結局、誘われるがままにリフェールの家にやってきた。
 休暇をマイトナー家で過ごす旨を父に伝えると、父の秘書がマイトナー公爵宛の礼状と手土産と、ついでに連絡用のルイスの携帯端末を持ってきた。ルイスはそれらをスーツケースに詰めて、リフェールとともに学院からまっすぐマイトナー家に向かった。
 彼の家は、首都マイロンから南へ特急列車で1時間ほどのところにある。シャンブルからは、マイロンに向かう特急列車を途中で乗り換え、2時間程度の旅だった。
 リフェールの母親であるマイトナー公爵は、多忙とのことで挨拶することができなかった。持参した礼状などはそのままリフェールに託したが、彼ともすぐに別れ、ルイスはマイトナー家の執事によって屋敷の離れに通された。
「このようなところにお泊めするのは大変心苦しうございますが、どうかご容赦いただきたく存じます」
 執事のあとについてルイスは、電飾こそないものの、あちこちに生けられた生花で冬とは思えないほど華やぐ石造りの大邸宅の中、奥へと伸びる廊下を延々歩かされた。そして何と通り抜けて裏庭に出たかと思ったら、ひどく庶民的でこぢんまりとした、マイトナー家ではコテージと呼んでいるそうなその建物に案内されたのだった。
 執事のクリューエフはしきりに恐縮してばかりだったが、重厚な造りの邸宅に比べれば小ぶりだというだけで、木造の梁に漆喰壁のそれは二階建ての一軒家だった。聞けばここはマイトナー家の私的な場所で、リフェールが小さかった時に公爵と二人で過ごしたのを最後に、最近は使われることがなかったのだという。しかし手入れは隅々まで行き届いているようなのは、ルイスにもすぐにわかった。
 家族で滞在できるというこの場所は、一人で過ごすには十分すぎる広さのリビングのほか、厨房付きの食堂とゲームルームに加えてバスルーム付きの寝室が三部屋もある。おまけに今時期必須の暖房は全て温泉で賄っているとのことで、一日中ほんのりと暖かい。
「食事は、主屋から運んでまいります。掃除や洗濯などは、毎日人を寄越します。ご用の際は、こちらの端末でご連絡ください。お出かけの際は車を準備いたしますので、ご遠慮なさらずお申し付けください。こちらにございますものは、全てご自由にお使いくださいませ。ほかに、ご心配事はございますか」
 痩せて小柄ではあるが十分に貫禄を感じさせるクリューエフの説明を、ルイスは呆れながらも聞き入ったものだったが、過ごしてみればこれほど快適な生活はなかった。
 自然に囲まれた環境こそ学院と大して変わらぬこのコテージで、ルイスは一人で思う存分自由に振る舞った。一応、勉強道具は持ち込んでいる。しかしリビングに大量に納められていたレコードに身を委ねたり、学院の図書館にはない本を手に取って静かな空間で読書をしたりするのは、至福の時だった。また、天気がいい日は馬を借りて遠乗りに出たり、森で材料を集めてコテージの模型を作ったりするのは、いい気晴らしになった。町に出たいとは、全く思わなかった。
 ほんの少ししか離れていない主屋で国内の注目を集めるパーティーが開かれていることなど、少しも感じさせない静けさの中で、ルイスはゆっくりと疲れた自分を癒した。そうすることが必要だったのだと、ようやく気付いたかのようだった。律儀に昼食の時にだけ顔を出すリフェールからは、まるで世捨て人だと笑われたが。
 到着したときには会えなかったマイトナー公爵にもその後挨拶することが叶い、そのときだけはルイスも主屋へ訪って、リフェールとともに午後のお茶の時間をティールームで過ごした。息子と同じく美しいシルバーブロンドの髪を持つ母親は、癇癪持ちの彼とはまるで正反対におっとりとルイスを迎え、息子の招待にその友人が応じてくれたことを大層喜んだ。その斜め後ろでティーセットとともに控えていた執事もしきりに頷いていたのがルイスには印象的で、あとで大いにリフェールを揶揄ったものだった。
 ここへ来る要因となった父親のことは極力考えないようにしていたが、一方でこれだけ時間があれば自然と考えないわけにはいかなかった。
 父、アントワーヌ・ヴァローナと母、ダニエラ・タルデューは、仲の良い夫婦だった、とルイスは思っている。ルイスがまだ小さかった頃は、父もよく休みをとって母と三人で過ごしていた日も多かった。しかし、ルイスを産んで次第に弱っていったダニエラはやがて起き上がることができなくなり、彼が初等学校に上がる前に息を引き取った。
 ダニエラが亡くなったあと、アントワーヌは政治活動にのめり込んでいき、ルイスの世話は人任せにされるようになっていった。
 学校行事に保護者が呼ばれるときには、複数いる父の秘書のうち手の空く者が代理でやってきた。アントワーヌ本人の都合がつく場合は、秘書ではない女性が同伴することも何度かあった。
 同じ女性が二度連れられてくることはなかったので、ルイスは父がその都度仕事として、秘書でなければ事務所の女性に頼んでいるのだと思っていた。それがまさかあのようなスキャンダラスなものだとは、事件が発覚するまで想像すらできなかった。
 それが明らかになった今、父親に対しては、酷い嫌悪感しかない。父にとって、母の存在は何だったのだろう。
 幼かったルイスが母を亡くした痛みは、長い間癒やされることがなかった。母が寝込んだ頃から通いで家を見てくれていた女性たちは、優しくはあったが母ではなかった。彼の寂しさを受け止めてくれたのは、話しかけると母の声で応答する、母からもらったテディベアだった。
 寂しさに耐えかね、ルイスはひたすらクマに話しかける。しかし仕事から帰った父は、ソファに埋もれてぬいぐるみに話しかける息子を見るたびに、眉をひそめた。そして見てはいけないものを見たかのように視線を逸らし、さっさと書斎に籠るか理由をつけてまた出ていってしまうのだった。
 テディベアが話さなくなったのは、ルイスが初等学校5年生の頃だった。その頃にはもう父とコンタクトをとることは諦め​、​おもちゃに話しかけて慰みを得ることも少なくなっていたが、母の声を聞くことができなくなったのはやはり堪えた。
 どうにかして聞くことができないものかとあれこれ手を付け、多少へたり込んでいた毛皮と綿を取り去り、いつしかルイスはクマの中に埋め込まれていた機械と夢中で格闘していた。結局クマが元通りになることはなかったが、モノを作る仕組みに目覚めたのはこれがきっかけだった。​
 以来、ルイスはぼんやりと、中学のあとは技術学校へと考えるようになっていく。ところが息子の思いなど汲み上げることを考えつきもしなかったアントワーヌによって、ルイスは父の母校に放り込まれることになったのであった。
 父は、息子が己の不祥事が原因で学内を騒がせたことを、どう思っているだろう。学院からは、確実に連絡がいっているはずだ。それなのに、今回マイトナー家に世話になることを伝えたときも、学期中のことについては何も言われなかった。
 そうはいっても、これまでも成績がよかろうがスポーツ大会で優勝しようが、何も言われたことがないのだ。特に今は自分のことで忙しい彼が何も反応を示さないとしても、何の不思議もなかった。
 ソファに頭を預けてルイスはぼんやりと、ダーツをご丁寧にクロスで拭いてケースに納めているリフェールを眺めた。
「お前ももう用事がないなら、最後くらいここで過ごしたらどうなんだ」
「バカな。来週にはまた同室に戻るというのに、なぜ今から四六時中お前と顔を突き合わせなければならんのだ」
 間髪を入れずに答えたリフェールは、パチン、とケースの蓋を閉めると立ち上がってそれを棚にしまい、ルイスを見ることもなくさっさとゲームルームを出ていってしまう。
「のんびりできるのも、今のうちだ。存分に休め」
 ホールからやや張り上げた声がした後、玄関の扉が開いてすぐにそれは閉まったようだった。
 いつものように一人で取り残されて、ルイスは大きくため息をつく。身を持て余すほどの広い空間に一人でいることなど、もうずっと前から慣れている。なのに、なぜ今になってこんなにも物足りない気持ちでいるのか。
 この休み中、リフェールがコテージに寝泊まりすることは一度もなかった。今もあっさり誘いを断られて、ルイスは彼の真意を計りかねる。彼は一体、何のつもりで己にこの場を提供したのか。一緒にいたくない、顔を合わせたくないというのであれば、呼ばなければよかったものを。
 ルイスはリフェールが出ていったドアを見つめると、ソファのクッションを一つ拳で叩いた。


 主屋に戻ったリフェールは、裏の通用口から邸内に足を踏み入れた途端、執事に捕まっていた。
「なぜ、向こうに泊まらんとならんのだ」
 コテージで過ごしてはどうかと進言を受けたのを、煩わしそうに一蹴する。
「せっかくお友達がいらしているのに、一緒にお過ごしになっておもてなしなさらないのは、よろしくないのではございませんか」
 クリューエフとしては、不思議でならない。リフェールが学校の友達を連れてくるなど初めてのことで、連絡を受けた時は主人共々喜んだのだ。
 リフェールは、マイトナー家の宝物だった。先代の娘であるサラがひとり赤ん坊を抱いて屋敷に戻ってきてから、屋敷全体で可愛がりその存在を見守ってきた。
 しかしリフェールという子どもは、幼い頃から何かに執着するということがなかった。勧められたら何でもやるし、食わず嫌いなところもなかった。ところがある程度できるようになると、それ以上の興味は薄れるのだった。
 人や動物に対しても、同様だった。薄情というのではない。ただ、やはり同年代の子どもらと関わりが少ないのはよろしくなかったかと、母親は半ば祈る気持ちで彼を学院へと送り込んだのだ。だがその後も特に大きな問題を起こさないかわりに、本人からも学校からの連絡でも、仲の良い友人の話を聞くことはなかった。
 五年目にして初めて、夜中に寮内で乱闘を起こして隣室に迷惑をかけた、と学院から連絡があった。何か心境の変化があったのかと思っていたらようやく、休みにルームメイトを招待したいとの連絡が来たのだ。屋敷の面々は一同、両手(もろて)をあげて喜んだ。どうやら彼にも人並みに、休みを一緒に過ごしたいほど仲のいい友達ができたのだと。
 それなのに、特別なもてなしは必要ないどころかコテージに一人で滞在させろという。その上自分はいつもの休みのように主屋の自室に寝泊まりし(それ自体は何もおかしくはないのだが)、例年通りマイトナー家主催のパーティーに出席する。ただし、そこに友人を招待することはない。
 家長であるマイトナー公爵との交流も、リフェールが「最小限に」と言ったためにほとんどなかった。どういうことかと、主従ともに頭を悩ませているのである。
「友達?」
 リフェールの声が跳ね上がる。しかしすぐに「まあ、ルームメイトではある」と訂正してコホンと一つ咳払いした。
「ルームメイトではあるが、あまり顔を合わせない方がいいのだ、互いに。それとも、あいつが何か言っていたか?」
 ルームメイトは友達ではないのか、少なくとももう五年も顔見知りで、家にも招待する仲なのだろうに、とクリューエフは心の中で嘆息する。
「何もおっしゃいません。ただ、私共がご挨拶いたしますとそれは楽しそうにお相手くださいますので、お一人ではお寂しいのではないかと思いまして」
 寂しい、という言葉にリフェールは少し眉を下げる。人に執着はないが、ホスピタリティ精神は旺盛なリフェールである。
「なら、明日は夕食まで相手してやるか」
 なぜか気が進まない様子でそう言い残し部屋に戻るリフェールに頭を下げ、クリューエフはそっとため息をついた。
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