1 再会

文字数 6,391文字

 首都、マイロンまで出てくるのは、約一年ぶりだった。
 ルイス・ヴァローナは、国から補助金を受けるための面接を終え、歴史的建造物として名高い役所を出た。4月に入ってぐっと日が長くなり、まだ弱まる気配のない日差しに濃茶の瞳を細める。ゆるくウェーブのかかった栗色の髪に指を差し入れて何となく風を通してみてから、頭を振ってカツンと革靴を鳴らした。
 あとは甘い物好きの若手社員に頼まれた菓子店で、ケーキを買って帰るばかりだ。多くの人が行き交う中をぶつからないように身をかわしながら、近代的なビルと時代を経た建物が混在して建ち並ぶ大通りを歩く。
 ルイスの実家は、マイロン近郊にある。しかし初等学校を卒業したあとは、マイロンから北東へ特急列車で2時間ほど離れた国境近くの町、シャンブルにある寄宿学校に進んだ。その後留学して大学を3年、続けて大学院を2年で終えてからはシャンブルに戻り一人で暮らしているため、マイロン中心街にはほとんど土地勘がない。
 その昔シャンブルの町の発展に寄与し、今もその中心的存在として一目置かれている寄宿学校、オールリー学院。そこが彼の母校であり、学院とともに長い時を生きてきた古い石畳の残る町こそが、今ではルイスの故郷となっている。
 さて、目指す菓子店は、大通りから路地を少し入ったところにある。小さいが非常に人気のある店だそうで、「その辺の行列に並べば、ちゃんとその店に入れますから!」という太鼓判つきだ。違う店に行き着いたらどうするんだ、と思いながらなんとなく並んでみた行列は、なるほど確かに指定された店に続いているのだった。
 とはいえ、テラス席は意外に空席が多い。ルイスはここで、一服していくことにした。実家に顔を出す予定はなく、予約している帰りの特急列車の発車時間までは、まだ少し余裕がある。
 頼まれていたロールケーキを持ち帰り用にしてもらい、ついでに子どもらにも何か買っていくかと、チョコレートを買い求めた。自分用にはショーケースで目についたリンゴのパイを頼み、紅茶を受け取って席に着く。
 長く思えた冬も今やすっかりその気配を消し、すぐに青空に緑の映える季節になる。屋外のテラス席も今日は寒くも暑くもなく、風も爽やかで気持ちが良かった。これからどんどん過ごしやすい季節になるが、一方で一人、雪の楽しみが減って冬を恋しがる社員を思い浮かべてルイスは苦笑した。
 シャンブルにオフィスを借り、十年近くがたつ。今は七人の社員と共に、地元の自営業者や中小企業を相手に、システム管理や各種プログラムの作成などを請け負っている。
 アリーシア、と名付けたこの会社は、もとはルイスが大学在学中に同期のイワン・ヘルダーリンの協力を得て立ち上げたものだった。学業を終え、卒業を期にルイスが会社の拠点を母国に移すと言ったところ、スキーができるからという理由でついてきてしまったのだった。シャンブルは、スキーのメッカなのだ。そのため彼は冬には不在がちになるのだが、そろそろ雪山は諦めて本業に戻ってきてくれる頃だ。腕は確かなので、ルイスとしてはやはり、雪が消えてくれてありがたい。
 今回の出張で社員にリクエストされたロールケーキは、この店の一番人気だという。だけどパイもなかなか、とルイスが舌鼓を打っていると、どこからかピアノの音が聞こえてきた。
 雪の心配もなくなった今の季節、すでにどこの店も入り口のドアや窓を開け放っている。そのため音源は特定できないが、どうやら生演奏のようだ。昔よく聞いた曲だったので、時々音が外れるのがわかってしまったのだ。
 彼はもっと正確に、早いテンポで弾いていた、と学院時代を懐かしく思い出す。寮の談話室にはピアノが置いてあって、思い通りにいかないことがあるたびにそれを弾き鳴らして鬱憤を晴らす同級生がいたのだ。これがまた早い上に正確でかつバリエーションも多く、ピアノの音が聞こえると、また始まったと皆笑いながら集い、談話室は演奏会さながらにたちまち人で満員になるのだった。
 道ゆく人々を見るともなしに見ながら学院時代に思いを馳せているうちに、ピアノ曲は、いつの間にか最近流行のポップスに変わっていた。パイはとっくに食べ終え、紅茶もちょうど空になったところで席を立とうとしたルイスは、ふと視界の端に見知った人物を見かけた気がして改めて顔を上げる。立ち上がり、辺りを見回して、動きを止めた。
 テラス席の出ている通りは、車が2台ぎりぎりすれ違える程度の幅しかない。今まで気にも留めていなかったが、その通りを挟んでルイスの向かい側のテラス席に、薄いクリームがかったブロンドの髪の男が座っている。今彼も、手元に広げていた本から顔を上げてこちらをじっと見ていたのだ。
 相手はサングラスをかけているのに、視線が交わった気がしてルイスは目が離せない。彼、というにはトレードマークでもあった肩の上で切り揃えたヘアスタイルではなく、目が隠れるくらいに伸ばした前髪を左に流し、他は勤め人らしく短く切り揃えられている。
 そう不躾に男を眺めてどのくらいだったのか、彼はサングラスを外してテーブルに置くと、立ち上がって口を開いた。
「ルイス・ヴァローナ?」
 名を呼ばれ、ざわりとルイスの心がざわめく。忘れもしない、件の速弾きの同級生だった。
「リフェール・ヨウシア・マイトナー」
 ゆっくりと区切るように彼の名を口にして、ルイスは腹の底に澱んでいたものが再び動き出すのを感じていた。


 青みがかったグレーの綿シャツにジーパン、スニーカーというカジュアルな服装のリフェール・ヨウシア・マイトナーは、学院時代のどこか可愛らしい印象がすっかり消えて、がっしりと引き締まった体つきになっていた。
 それもそうだ。二人が学院を卒業して以来一度も会わないまま、もう十年以上が経っている。当時の面影など、残っているわけもない。
 白っぽかったブロンドの髪は、今ではシルバーというよりもゴールドに近く見える。すっとまっすぐに伸びた眉と色素の薄い青い瞳だけが昔と変わっておらず、大股で歩み寄ってきた彼にルイスは小さく笑いかけた。
「変わったな」
 目の前に旧知の人物がいることがまだ信じられない様子のリフェールは、目をすがめて呆れたように口の端を持ち上げた。
「お前は、何も変わらんな」
「何を見て言ってるんだ」
 心外な、と眉を上げたルイスに構わず、リフェールはテーブルの上の空いた食器を見下ろした。
「もう帰るのか」
「あー…うん、まあ」
 そうだ帰ろうと思っていたのだ、とルイスは​ふと現実に引き戻された。
 大好きな町で、気の合う仲間との日々の仕事。週末には、子どもを相手に工作教室などを開いている。​充実しているはずのあの町での生活が、一瞬にして色褪せてしまった。
 彼は、ルイスをシャンブルに引き寄せる原因ともなった、学院生活そのものなのだ。思い出すどの場面にも、彼の姿がなかったことがない。
「どこだ。送っていく。車がある」
 さっと身を翻して、テーブルに置きっぱなしだった本とサングラスを取りに戻る背中に、ルイスは慌てて声をかける。
「いいんだ。列車で来てる。特急列車、予約してあるんだ」
「特急?」
 ちらりと振り向いたリフェールは、サングラスを掛け直し本を手にすると、店のカウンターにカップを返して戻ってきた。
「なんだお前、今どこに住んでいるのだ」
 ルイスも荷物を取りあげ、ご馳走様、とカウンター越しに食器を返して店をあとにする。
「シャンブル」
 リフェールを促して駅方面に歩きながら町の名を告げると、は、と彼が足を止めた。
「驚くだろう。出戻りだ」
 振り返って苦笑するルイスの隣に、リフェールがすぐに並ぶ。
「まさか、教授ではないだろうな」
「全然違うし学院とは無関係だけど、まさかってどういう意味だ」
 若干拗ねた口調のルイスは、スタンダードな白いシャツによく見れば細かく星の散っている濃紺のネクタイ、織り模様の入った濃紺のスーツ、ご丁寧に揃いのベストまで着込んでいる。改まった印象のその姿は学院時代の式典時を思い起こさせて、リフェールはふっと笑った。
「その(なり)では、ちょっとかしこまった学生にしか見えん」
「リフェールお前な、お前こそ……」
 反射的に言い返そうとして改めてリフェールの姿を眺めたルイスは、不意に学生時代はシルバーブロンドだったその髪に目を留めた。
「染めてるのか」
 虚をつかれたリフェールがきょとんと目を丸くするが、すぐにルイスの視線に気付いて片手で髪をかきあげる。
「いや、最近色づいてきた」
「ええ? 色が抜けてくるのはよく聞くけど、この年で濃くなるとか、珍しいな」
 そう言うルイスの髪の色も、子どもの頃は少し赤みが強かったのが今は標準的な栗色に変わっているのだが、自分ではあまり変わったとは思っていない。髪質もリフェールとは正反対で、ゆるくウェーブが掛かっている。短くはしているのだが彼のようには形よく収まらず、そのせいで子どもっぽく見られるのだ、とルイスは思っていた。
 まじまじと頭髪を見つめてくるルイスがよほどおかしいのか、とうとうリフェールが肩を揺らした。
「そんなにこの髪が気になるのか」
 身を乗り出していたことに気が付き、はっとルイスが前を向いて早足になった。
「そんなんじゃない。ただ、前も綺麗な色だったから。っていうか今も綺麗だし、よく似合ってるけど。髪の話だぞ」
 ルイスは、自分でも顔が火照ってくるのがわかる。リフェールが、のんびりとその背を追いながら笑った。
「お前も年をとれば、これくらい薄く色が抜ける​のでは​ないか」
「禿げなきゃ、そうなるかもな」
 そうして顔を見合わせた二人は、ついに人通りの多い路上で足を止めて腹を抱えた。
 十数年ぶりに会ったというのに、まるで昨日の続きのように頭髪の話などしている。学院生活の最後の一年とその後に続く互いの不在を、忘れてしまうような心地よさだった。


 いいと言うのに駅のホームまで見送りと称してついてきたリフェールが、ルイスと一緒に列車を待ちながら躊躇いがちに言った。
「連絡先を、聞いてもいいか」
 端末で乗り場を確認していたルイスが、え、と顔をあげる。一瞬言葉に詰まったのをリフェールは拒否と受け止めたのか、取り繕うように言葉を重ねた。
「聞いたところで、やたらに連絡して迷惑をかけたりなどしない。ただ、知っていれば安心、というか、なんだ、お前、同期の間で行方不明者扱いをされているのをわかっているのか。誰とも連絡をとっていないのだろう。まあそれも当然かもしれないが、俺は最悪死んだ可能性が」
「待て」
 何を言うのかと黙って聞いていたルイスだったが、だんだん小言じみてきたのを察して慌てて遮った。
「言っとくけど、学院には登録してあるんだから問題はないはずだ」
 学院生は卒業後、母校への最低一つの連絡手段の登録を求められる。任意だが、ルイスは恩返しのつもりで登録していた。登録した連絡先は、学院生と同窓生専用のホームページからいつでも確認できるようになっている。同級生と連絡を取るためだけにこの名簿を使おうとはルイスでも思わなかったが、行方不明と言われるのは非常に不本意だ。
「それに、端末を新しくする時に連絡先を引き継がなかった同級生もいるけど、自分の連絡先は、変えてない。面倒だから」
 何、とリフェールが眉を跳ね上げたところに、ルイスが乗る予定の列車が入ってきた。
「だから、学院時代に教えたオレの連絡先は、まだ使えるんだ。お前が、消していなければだけど」
 ゆっくりと停車し、目の前に開いた乗降口から人が降りてくるのを見ながらルイスが聞き返す。
「お前は? 変わったのか?」
「いや。変わっていない。お前のも、消していない」
 リフェールを振り返ると、どこかぎこちない動きで彼は首を振る。ルイスは、思わず微笑んだ。
「よかった」
 降りる人の波が途切れて、ルイスがタラップに上がる。列車はこの駅で折り返し運転だというのに、まるで先を急ぐのだとでも言うかのようにずいぶんせっかちにドアが閉まった。
 リフェールがふらりと一歩ドアに近づくのが見えたかと思うと、それを拒むように列車が動き出す。ガラスの向こうで、彼が何かを言っている。それはもう聞こえはしなかったが、それでも目を見交わして、ルイスは一つ大きく頷いた。


 リフェール・ヨウシア・マイトナーは力が抜けたようにその場に立ち尽くして、あっという間に速度を増した列車を見送った。最後の一両が通り過ぎると、列車に煽られて舞っていた前髪がふわりと目の前に降りてくる。
 学院時代、卒業間際には、二人はほとんど話もしなかった。それを思えばたった今、笑い合っていたことが本当に夢のようだ。あの時は、ひどい別れだったのだ。
 それが尾を引いて、学院を卒業して最初の数年、リフェールは意地でもルイスと連絡をとろうとはしなかった。そうしているうちに、あちこちで顔を合わせる同期が口を揃えて言うようになったのだ。ルイス・ヴァローナとは、連絡が途切れたと。それでリフェールも、自分の端末に残る連絡先ももう使えないものと、自らは連絡を取ってみもしないまま決めつけていた。残していたのは、彼の名残をとどめておきたかったからに過ぎない。
 次の列車に乗るために再びホームに人が集まって来たのを察して、リフェールはようやく踵を返した。
 駅を出て、ついさっきルイスと二人で歩いた道を戻る。よく知った道なのに、今までとはまるで違う道のように思えるのには苦笑するしかない。
 この駅から街の中心を貫く大通りまでの地区には官公庁が集まっており、リフェールの勤め先もそのうちの一つだ。職場近くの小道を入ると行きつけのバーやカフェがあって、更に少し歩くと官舎がある。彼はそのうちの一軒を借りて、一人で住んでいた。家族住まいも可能な一戸建てで、小さな庭と駐車スペースがある。近くには広く緑の多い公園もあり、職場に程近いこの官舎住まいをリフェールは気に入っていた。
 とはいえ仕事柄、家を空けることは多い。今回も二日前に帰国し、昨日報告書をまとめ、今日は十日ぶりの休日だった。もう一日休んで二日後にはまた出勤となるリフェールは、外務省に勤めている。
 カレンダー通りの休みは取れないことも多いが、代わりに、休日は積極的に振り替えることを推奨されている。今までは休みなどあまり必要とせずに仕事に没頭していたリフェールだったが、ここに来て、にわかに休日の過ごし方を考え始めた。
 学院のあるシャンブルは、リフェールにとっても特別な町だった。というより学院がある、ということで町が特別に思えるのだったが、卒業してからは足を向けることがなかった。しかし、ルイスがいるとなれば話は別だ。遊びに行くか、と浮かれた頭で考えたが、気がかりなことがある。
 今日ルイスがいた店は、当然リフェールもよく知っている。店の看板のロールケーキのほか季節限定のスイーツも評判で女性たちに人気があり、仕事でもよく使う。彼も、持ち帰り用のケースを持っていた。結婚指輪のようなものは見なかった気がするが、帰宅して渡す相手がいるのだ。ならば、学生時代の昔馴染みなど迷惑だろうか。
 別れ際、連絡先は変わっていないと言ったのを思い出して、リフェールは端末を取り出す。慣れた手つきで画面にルイスの連絡先を表示させ、じっと見つめた。
 それにしても、まさかこの連絡先が生きていたとは。
 どうしても口の端が上がってしまうのを止められないまま、まずは一言だけ、とリフェールはメッセージを送信する。間をおかずに返信されたメッセージを一読し、今はそのことに満足して端末を胸ポケットに収めるのだった。
『次に来るときは知らせろ』
『そうする。また会おう』
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