1 はじまり ⅰ

文字数 9,681文字

 四方を山に囲まれた町、シャンブル。南には放牧地、東には町のすぐそばまで迫った山の斜面にスキー場が広がっている。昔から酪農が盛んで、ハムやチーズなどが名産品として名高い。スキー場に沿うように町の東側を南北に鉄道が走るようになってからは、スキーを目当てにやってくる大勢の観光客で賑わい、スキーのメッカとされるようにもなった。
 町の要、オールリー学院は、西側の山の麓にある。町の初代領主カーラ・オールリーが町を見下ろすように森を切り拓いて築いた館が、学院の基礎となっている。その後カーラの孫の3代目領主、セバスチャンが、館をオールリー学院と名付け、資金援助を約束した上で学問の場として明け渡し、一族は町へ下りた。
 その長い歴史の中でオールリー家は没落したものの、学院は著名人を多数輩出する国内有数の高等学校となった。13歳から18歳までの学生を、国内だけではなく国外からも受け入れる全寮制で、その数は一学年40人程という狭き門となっている。
 資金援助は途絶えたが卒業生からの寄付がいつの時代も切れることなく続いているため、学内の施設には非常に恵まれている。当時の石造りの館をそのまま使用した教室などのほかにも、屋内外運動場や専用の劇場、最新のコンサートホールなどまで整備され、町の人々に開放されてもいた。
 時代を経るにつれて次々と増設される各種施設の西側は、学院の私有林が裏山へと広がっており、施設と施設をつなぐ石畳の歩道が散策路として林の中まで伸びている。
 今その林の中を、一人の男子学生が散策路から外れ、雑草を踏み締めて裏山から戻ってきた。5年次の、リフェール・ヨウシア・マイトナーだ。白い生成りのコットンシャツ一枚にジーパンという軽装で、足早に寮を目指して歩いている。
 新学期を迎え、ひと月が経とうとしている9月下旬の夕方だった。日が沈むにはまだ早いが、背の高い針葉樹の林の中はひんやりとしている。肩で切り揃えたシルバーブロンドの髪が木漏れ日を反射してきらきらと揺れているが、当の本人は時折煩わしそうにかき上げるばかりだ。
 寮の裏手に出たか、と視線をあげ辺りを見渡したとき、彼は建物の陰から誰かが転がり出てきたのに気が付いた。足を止めた彼の視線の先では、転がる人を追いかけてきた幾人かが声を上げながら手足を振り回している。
 リフェールはすっと息を呑んで、自然のまま柔らかい地面を踏み締めて走り出した。
「やめろ!」
 駆け寄ってくる少年の姿に、皆一瞬動きを止める。互いに相手の顔を見分けると、腕を振り上げていた少年たちが緊張を解いた。
「リフェールか」
 しかし、一方のリフェールは逆に顔を強張らせる。相手が同級生ということで、腹を抱えて丸くなっている人物に見当がついたのだ。知らず、声が低くなる。
「ジャック・テイラー。彼に何をしている」
 間違いなく、こちらもクラスメイトのルイス・ヴァローナだった。腹を抉られたか、体を丸めて苦しそうにえずいている。
 足元の少年をさらに爪先で蹴り上げて、体格だけはいい同級生のジャックが鼻で笑った。
「困った親父みたいにならないように、おれたちがちゃんとしてやろうと思ってさ」
 そう言われてルイスをよく見れば、靴を履いていない。さらには靴下も片方が脱げかけており、シャツの裾もはみ出している。
 リフェールは無言のまま級友に詰め寄ると、おもむろに襟を掴み上げ膝を相手の腹にめり込ませた。そうして怒りに任せて腕を振るい、そばにいた残りの三人までをも地面に叩きつける。彼らを見下ろして肩で息をついたとき、小さく己の名を呼ぶ声で、はっと我に返った。
 振り返ると、苦しそうに転がったままのルイスがうっすらと笑っているのが見える。
「その辺にしとけよ」
 掠れた声にまた、かっと頭に血が上った。
 なぜ貴様が言う。
 しかし当初標的となっていた張本人がそう言うのに無視できるはずもなく、慌てて彼に駆け寄りそばに膝を付く。
「バカか貴様! なぜやり返さない!」
 背中に腕を回して体を起こしてやり、頭や服についた木の葉やら土やらを手荒く払ってやりながら叱りつけるように言うと、ルイスが遠慮のないリフェールの手つきに眉をひそめた。
「これでもやり返したさ。ただ、ちょっと足を挫いて」
 地面に倒れ込み、袋叩きにされかけたところをなんとか逃げてきたのだ。
 それを聞いて、リフェールが「ああ?」と目を剥く。
「足を挫いただと? どこの間抜けだ貴様!」
 口ではそう言いながら、だらしなく脱げかけた靴下を無造作に引っ張り上げてやる。
 「いっ…!」と声をあげるルイスにリフェールはちっと舌打ちすると、彼の左腕を自分の首の後ろに回してその手首を掴み、己の右腕を彼の腰に回してそのベルトを掴む。
「立つぞ。まさか、両足ともやられた訳ではなかろう」
「ああ」
 リフェールの合図でなんとか二人立ち上がると、ルイスは「はは」と渇いた声で笑って捨て台詞を吐いた。
「先に帰るけど、誰か助けを呼んできてやろうか」
 しかしそれ以上は、リフェールに頭を小突かれて言うことができない。
「リフェール! さっきから乱暴だぞ!」
「うるさい! 貴様に優しくしてやる義理はない!」
 耳元で張り上げられた声に思わず顔を背けつつも、ルイスはなぜだか笑いたくて仕方がなかった。
 新学期が始まってからルイスに対して態度がそれまでと変わらなかったのは、リフェール・ヨウシア・マイトナーのほかは片手に余るほどだった。それにしたところで、必要最低限のことを話すくらいで用事が済むと離れていくのだ。そのほかのクラスメイトの多くは、遠巻きにルイスを見てはひそひそと噂話に花を咲かせ、それほど仲が良くなかった連中にはいないものとされた。よく話をしていた友達だと思っていた数人に至っては、手のひらを返したように嫌がらせを受けるようになった。そして今日、とうとうこの(ざま)だ。
 最初は、きちんと抵抗していたのだ。が、止まない嫌がらせにだんだん面倒になってきた。
 自分が彼らに、何をしたというのか。自分が悪いのか。あの人の息子だからか。それとも、あの人の息子だから皆自分と付き合ってきただけか。オレ自身には何の価値もない、ということだったのか。
 自分だって、あの人が嫌いだ。夏休みは結局、一度も彼と顔を合わせることなく学院へ戻ってきたのだ。一言の弁解も、説明もないままだ。よほどお前たちの方が、事情もわかるだろう。何ならオレに、説明してくれ。だからお前はこういう目に遭うのだと、言ってくれればいいのだ。
 そんな風に考えて沈み込み塞ぎ込むルイスを引っ張り上げるのは、いつもリフェールだった。仲が良いわけでは、全くない。むしろその逆で、ともに入学して以来、何かというといつも難癖をつけられ、勝負を挑まれてばかりだ。やられっぱなしは性に合わないのでその都度相手をするが、なぜ自分ばかりがこうも目の敵にされるのかと、恨めしく思っていた。
 そんなリフェールだけが、今までとなんら変わりなく些細なことで勝負をふっかけてきて、勝ったの負けたのと大騒ぎしている。周囲の反応が違うことなど歯牙にもかけず、それで彼本人すらも標的にされかけていることなど気にもしない。
 しかし、ルイスには彼を気遣う余裕などなかった。自分を取り繕うので精一杯だったのだ。一人になれる場所などほぼない中で、今年は学年が上がって四人部屋から二人部屋に変わったことだけが救いだった。
 とはいえ、ルームメイトになったアダムとも、今では互いに話もしない。新学期当初はルイスから声をかけることもあったが、今はもう諦めた。まともな答えが返ってこないどころか、返事などないからだ。
 そんな日々が続いて、もうどうでも良くなったのだ。
 校舎から寮に戻るところをジャックらに捕まり、普段はあまり人の通らない寮の共同棟の裏に連れて来られ、挑発されるがままに殴り合いのけんかになった。そうしてふと虚しさに力が抜けたところで下草に埋もれていた石に足をとられ、なすすべもなく尻餅をついたのが運の尽きだった。されるがままに足蹴にされ殴られ、途中から服を脱がされかけたところに現れたのがリフェールだった。颯爽と姿を見せたかと思うと、正義の味方よろしくあっという間に連中をのしていった。
 何なんだ。お前、オレが嫌いだろう? なのになんで、そんなにむきなってこいつらを殴ってるんだ。何を考えてるんだ。
 身体を支えられて共同棟を表へと回り込みながら、時折あちこちに散らばったテキストやら靴やらを見つけては拾い集めるリフェールを、自身は突っ立ったままぼんやり眺めて、ルイスは笑った。


 肩を貸して医務室を目指し、苦しげではあるがいつもの調子を崩さないように話をするルイスにおざなりに返事をしながら、リフェールは苦々しく夏休み前に思いを巡らせた。
 ことの始まりは、ルイスの父親のスキャンダルが発覚したことだった。
 ルイスの父親であるアントワーヌ・ヴァローナはこのオールリー学院の卒業生で、今は知らぬ者のない全国区の政治家だ。国の総裁に納まる日も遠くないだろうと目されるやり手で、母校には多大な寄付を納めるだけでなく、行事があれば必ず臨席して挨拶を請われるのが常だった。
 当然その息子であるルイスも、入学当初から学院中に知られる存在である。近しくなって縁を結び、あわよくばそのおこぼれに預かりたいと考えるのは、大人たちだけではない。いずれ国を動かすことを目的としてその足がかりに学院を選んだ生徒たちが、ルイスの周囲に群がった。
 そのアントワーヌが、学院は年度末の夏季休暇を迎える直前という時期にセクハラで訴えられた。本人は否定したが芋蔓式に被害者が手をあげ、挙げ句の果てに隠し子まで名乗りをあげて収まりがつかなくなったのだ。
 ニュースは、学院中を駆け巡った。ちょうど時期が時期なだけに授賞式と卒業セレモニーへのアントワーヌの出欠が注目されたが、本来学院の運営そのものには直接関わりのない彼は、当然のことながら参列しなかった。大人たちは政界のことなど耳にも入っていないかのように式を執り行ったが、生徒らはそうはいかない。主役であるはずの卒業生からつい一年前に入学したばかりの1年次生までもが、ルイスを遠巻きにして囁かずにはいられなかった。
 そうして何とか学期末の夏休みを迎えたのだったが、残念ながら、ふた月にわたる長期休暇でも事態は収まらなかった。アントワーヌが関わっていた国家レベルのプロジェクトで、不正があったことまで発覚したのだ。
 学院には、ルイスに限らず、政界、経済界で活躍する親を持つ生徒が多い。この夏は親同士のやり取りから情報を集めるのによほど忙しかったと見えて、秋の新学期には、ルイスを取り囲む雰囲気は一変していた。
 リフェールにとってルイスは、ともに入学して以来ずっと追いかけているライバルである。同い年だというのにまるで手が届かないとリフェールに思わせる存在が、ルイス・ヴァローナだった。それが親の不祥事のせいで袋叩きにあうなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。アントワーヌのやらかしたことは確かに誰が見てもとんでもないが、それと息子は全く関係がない、とリフェールは内心憤っていた。
 とはいえ、理由がそれだけではないことは、考えればすぐにわかった。ルイスは後ろ盾が強固なだけではなく、優しげなその見た目を裏切らず人当たりが良く、成績優秀でスポーツ万能ときている。その上女子からの人気が抜群となれば、ただではかなわない連中から妬まれない訳がなかった。
 家柄だけをいえば、リフェールも負けてはいない。父親はいないが母は由緒ある公爵家を継いでおり、一族には医者だの企業家だのがゴロゴロしている。直系の一人息子であるリフェールも侯爵の称号を持っており、何事もなければ家を継いで公爵になることが決まっていた。
 物心がついてからも学校に通わず家庭教師についていた彼にとって、学院は、初めて出会う社会であった。
 上級生に連れられ、入寮のために寮監に挨拶に行ったその部屋の前で会ったのが、ルイスだった。先に挨拶を済ませて部屋から出てきた彼とすれ違いざまに目が合った瞬間、互いに驚いて足を止めた。
 リフェールは、母譲りのシルバーブロンドの髪に意志の強そうな色素の薄い青い瞳の美しい立ち姿を、屋敷を訪れる大人たちから「小公爵」と呼ばれることもあった。しかし対するルイスは、マイトナー家の屋敷の庭にある天使の彫刻のようだった。口を閉じていても笑みを形作っている優しげな口元、思慮深そうな落ち着いた濃茶の瞳、わずかに赤みがかった栗色の柔らかそうな巻き毛。
(ふわふわだ)
 針金のように冷たく硬質な己の髪とは全く違うその柔らかそうな髪に、リフェールは目を奪われた。
 先に口を開いたのは、ルイスだった。
「きみも新入生? ぼくはルイス・ヴァローナ。きみは?」
 そう聞かれて、リフェールも答えた。
 「マイトナー侯リフェール・ヨウシア」と。
 いつもなら「マイトナー公サラ・アレクサンドラの長男」と加えて名乗るところを、簡単に名乗ったつもりだった。家庭教師に、そう言われていた。学院では、皆身分や家柄など関係なく過ごすのだと。誰もがただの一生徒として、同じ食事をし同じ部屋で過ごすのだからと。
 けれど、リフェールにとってはルイスが初めて言葉を交わす同級生だった。彼と同じように名乗れば良かったものを、つい慣れた言い方をしてしまったのだ。
 付き添っていた二人の上級生たちが、彼らの頭上で声を出さずに笑いあっていた。けれどリフェールは、気が付かなかった。ルイスの綿帽子のようにやさしい笑みと、ふわふわと揺れる栗色の髪が窓から差し込む日の光を浴びて輝くのに目を奪われていたのだ。
 ルイスは、ぽかんと目を丸くしてからにこりと微笑んだ。
「きみ、男の子か。とても綺麗だから女の子かと思った。ごめん。マイトナー公のご子息と一緒だと聞いてたけど、きみか。仲良くやれそうだ。よろしく」
 けれどそう言って差し出された手を、リフェールは握れなかった。場違いな名乗りを笑われたと思い、さらには男だと認識されなかったと知り、かっと頭に血が上ったのだ。
 ぴしりと人差し指をルイスに突きつけ、リフェールは言い放った。
 「誰が仲良くなどするものか! 貴様など俺が踏み台にしてやる、覚えておけ!」と。


 寮の共同棟にある医務室で顔や手足の消毒と止血を施され、足首に湿布を貼り包帯を巻いてもらったルイスは、ヴェヌス寮の玄関ホールにいた。同じように手指に包帯を巻いてもらったリフェールも一緒だ。ちょうど夕食どきとあって、二人のほかは誰もいない。
 当然、二人とも腹は減っている。ところがこの(なり)では食堂に行く気になれないと、ルイスが同じ共同棟にある食堂には向かわず寮の自室に戻ろうとしたので、マルス寮のリフェールが追ってきたのだ。
「なぜ、あいつらにやられたことを隠す必要があった! こうまでされて奴らを庇う理由など、何もないぞ!」
 憤懣やるかたなし、と大いに態度で示してリフェールがソファに座る。
 ルイスも「あーもう、うるさい」と耳を塞ぐふりをしながら、その向かい側に腰をかけた。
「別に、庇ったわけじゃない。事を大きくするのが、面倒なだけだ」
「校医に知れた時点ですでに大事(おおごと)だ、バカ者!」
 バン! とローテーブルを手のひらで叩いたリフェールを、ルイスが恨めしそうに見やる。
「強引に引っ張ってったのは、お前じゃないか。オレは、行きたくないと言ったぞ」
 初めから寮に戻るつもりで歩いていたルイスの腕を掴み腰に手を回して、問答無用で医務室のドアを叩いたのは確かにリフェールだった。
 幸い、校医はまだ仕事を切り上げる様子もなく机に向かっていた。木の葉まみれの二人にため息をつきながらも迎え入れて手当をしてくれたが、校医は、基本的には相談を受けない限り生徒同士のいざこざには立ち入らない。ただ治療を終えてから「何か言いたいことはあるか」とだけ聞かれたのだが、それに答えてルイスはあろうことか「何もない」と言ったのだった。
 手に負えなくなる前に手っ取り早く大人の手に委ねてしまえ、と考えたリフェールの目論見はその時崩れた。
「奴らは、今日のこれで懲りるタマではない。これ以上タチが悪くなったら、どうする。おとなしくやられていれば収まると思っていたら、大間違いだぞ」
 それは勿論、ルイスも考えないではなかった。これ以上エスカレートしたら、対処のしようがない。彼らの気持ちが収まるまで、一人で耐えられるのか。どうしたら収まるのか。
 実のところ、リフェールに助けてもらうまでは、何もするつもりがなかった。どうせいつかは、彼らも飽きる。最悪でも今期さえ凌げば、一年後には最高学年だ。手出ししてくる連中も、少なくなる。今日襲ってきたメンバーと繋がりのある上級生を思い浮かべて、そんなことを考えていた。
 長い一年になる、そう覚悟を決めたところだった。退学や転校などという道は選べない。どんな道を選ぶにせよ、学院の名は多方面に幅が利く。簡単に捨てられるコマではない。
「死なない程度にやるさ」
 冗談めかして笑うと、リフェールが今度は拳でテーブルを叩いた。
「当たり前だ!」
 ルイスが何かを言うとすぐに毛を逆立てる、まるで猫のようなリフェールを見て、ルイスは不思議そうに何度か瞬きをした。
 リフェールはきっと目を釣り上げて、人差し指をルイスに突きつける。
「いいか、ルイス。これから貴様は、絶対に一人になるな。俺の近くにいろ。俺の目の届くところにいれば、何があっても助けてやる。二人ならなんとかなる。わかったな?」
 え、と己に向けて突きつけられた指先を言葉もなく見つめ、ルイスはぷっと吹き出した。
「何がおかしい!」
「だってお前、絶対に傍にいろって…、それ告白か?」
 腹を抱えて笑い転げるルイスを見て自分のセリフを反芻したリフェールも、じわじわと顔が赤くなる。
「ふざけるな! 貴様一人ではどうにもならんから、手伝ってやると言っているのだ!」
 むきになりテーブルをバンバンと叩くリフェールの様子に、ルイスの笑いは止まらなかった。


 その明くる日の、夕方だった。
 リフェールが、強引な手を使って部屋替えを決行し、ルイスの同室者となった。
 部屋替えそのものは、認められている。ただ、本来は本人たちの同意の上で関係者の承認を得るのが普通だ。ところがリフェールは、先に寮監らの同意を取り付けてからルイスたちの部屋にやってきたのだ。
 とはいえリフェールと入れ替わることになったアダムには、手順などどうでもいい。気詰まりな部屋から出ていけると二つ返事で荷物をまとめ、あっという間に出ていった。ルイスにとっては、面白くないことこの上ない。大事(おおごと)にしたくないと、昨日言ったはずだ。
 バタン、と音を立ててドアが閉まると、今度はリフェールが手際良く自分の荷物を広げていく。机の上に勉強道具、クローゼットに衣類や洗面用具を納め、ついにはコーヒーメーカーを取り出したのを見て、ようやくルイスが口を開いた。
「どういうつもりだ」
「何がだ」
「とぼけるな! 部屋替えのことに決まってるだろう。何なんだ、突然勝手に」
 瞬く間に空になったスーツケースをベッドの下に押し込んで、リフェールは不思議そうな顔で立ち上がる。
「何を怒ることがある。そんなにアダムと一緒がよかったか? 奴は、お前を無視していたのではなかったか。あれは、上の奴らとも仲がいいぞ」
 不満そうなルイスの様子に、リフェールはふん、と鼻を鳴らし、つい今し方までアダムが使っていた椅子に座り足を組むと、机に肘をついて笑った。
「二人部屋の部屋替えは、新学期開始から2か月以内なら誰でも申し出ることができる。ひとり一回、寮長と寮監、それに当人同士の了解があればな。毎年何人かは、部屋替えをしている。特別なことでも、珍しいことでもない。知らんわけではあるまい」
 それを聞いたルイスが目を丸くすると、リフェールは真顔に戻った。
「何だその顔は。忘れているのではなく、まさか本当に知らなかったのか」
 ぐ、と言葉に詰まったルイスが何とか頷くと、リフェールはうんざりした表情を隠しもせず「何でお前なんかが成績トップなんだ」とぼやきながら立ち上がった。
 片付けたばかりのクローゼットをゴソゴソやり始めたその背中に向かって、ルイスがかろうじて声をかける。
「二人部屋に関する決まりは、一度同室になった相手とは次の年は同室になれない、とかじゃなかったか」
「バカめ。そんな毒にも薬にもならんことを覚えて、何になる。自分が行使できる権利を覚えておけ」
 探し物を見つけたリフェールは、それを後ろ手にルイスに放り投げた。反射的に受け取ったルイスが手に収まった物に視線を落とすと、それは透明なビニールポーチに入った湿布と包帯、それからおそらく痛み止めの薬だった。
「どうしたんだ、これ」
「私物だ。腹に貼っておけ」
 昨日、ルイスは意地を張り、胴体に受けた傷を校医には見せなかった。酷い打ち身で、今になって痛みも増してきている。
 複雑な気分を押し殺して、ルイスは礼を言った。


 二人が同室になってからも、嫌がらせは執拗に続いた。寮への個人の携帯端末の持ち込みが禁止されていることは幸いであったが、そうなれば手段は古典的になるだけだ。
 それは体育の授業中にわざと体当たりをしたりボールをぶつけたりすることであったり、食堂でまだ手をつけていないトレーを床にぶちまけられることであったり、ひどいときにはシャワールームで衣服を盗まれることであったりした。
 こういった手段は昔からあるだけにひどく効果的であることには間違いなく、それに付き合うリフェールがいなければ、ルイスは本当に参っていたかも知れない。その度に落ち込んでは発破をかけられ、何度も沈みかけては引き上げられ、自分を見捨てないリフェールという存在が、少しずつルイスを日常へと繋ぎ止める支えとなっていった。
 何とか寮の自室に戻りさえすれば、となかなか音を上げない二人に業を煮やした相手方が、ある晩とうとう彼らの部屋へ忍び込んできて、ようやく事態はおさまった。
 流石に就寝時間を過ぎて他人の部屋に押し掛ければ、どんな理由があろうと悪いのは押し掛けた側である。押し掛けられた二人が待ってましたとばかりに狭い部屋で大立ち回りを演じると、騒ぎを聞きつけた寮監らが駆けつけた。連中を取り押さえ、寮監室へと連れていく際に寮監は、ルイスとリフェールにも話を聞くからそのつもりでいるように、と言い置いていった。
 いつの話だ、流石に今晩ではなかろう、と二人で顔を見合わせる。そこへ、寮監と共に一度は寮監室へと向かった寮長兼生徒会長のモーリス・ジュリアンがわざわざ戻ってきて、それは翌日以降になるだろうと、二人に告げていった。
 嵐が去った部屋に静けさが戻ると、二人は期せずして同時にそれぞれのベッドに倒れ込んだ。今し方の乱闘で室内には物が散乱し、ベッドの上も例外ではなかったが、そんなものは二人とも気にもしなかった。
「これで終わりだ」
 大きく息をついたリフェールに「ああ」と同意してから、ルイスは腕をついて体を起こした。
「巻き込んで、悪かったな」
 仰向けのままリフェールは首を動かしてルイスを見ると、頭の下で手を組む。行儀悪く足を振って靴を脱ぎ、ベッドの上に膝を立てて足を組んだ。
「どうだかな。お前一人なら、あいつらももっと早くに飽きてたかもしれんぞ。連中、俺がお前の側についたことでむきになり始めたからな。最後には、何をしているのかわからなくなってきたのだろう。まさか、こんな馬鹿げた真似をするとは」
「好都合だったけどな」
「違いない」
 そう言って二人、目を見交わす。次第に腹の底から込み上げてきた笑いは、その後しばらく止むことがなかった。
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