2 気付き ⅲ

文字数 4,475文字

 それから三日後の夕食前、校舎から寮へ伸びる石畳の歩道がヴェヌス寮とマルス寮に分かれる場所にある掲示板に、一枚の告知が張り出された。
『学内の風紀を乱した罪により、アリス・ゴードンは退学とする。合わせて、リフェール・ヨウシア・マイトナーの謹慎処分は解除とする』
 当然張り紙より先に、当人たちには学院長から直接告げられている。その後寮に戻ったアリス・ゴードンは、リフェールが話したいそうだと寮監に言われて、玄関ホールで彼を待っていた。
 ヴェヌス寮の寮監と一緒にマルス寮にやってきたリフェールを、アリスは立ち上がって迎えた。
「夕食が終わるまでには、済ませろよ」
 そう二人に告げて、カーターはマルス寮の寮監室へ入っていく。もちろんドアは開けたままだ。
 一応頭を下げた二人だったが、視線が合うと苦笑して肩をすくめた。
 二人で話をするのは、例の件が持ち上がる前の日以来になる。その日の授業が終わって、アリスにとってはあずま屋へ行く前に、教室で言葉を交わしたのが最後だった。
 アリスは短い間に驚くほど憔悴していたが、いつものように高い位置で髪を一つに束ね、すっきりと何かを振り切った表情でリフェールと向き合った。
「残念なことになったな」
 そう低く言いながらリフェールがソファに座ると、「そうね」と笑って彼女もその向かい側に腰を下ろした。
「巻き込んでしまって、迷惑をかけたわね。ごめんなさい」
 アリスが頭を下げると、リフェールは頭を振った。
「いや。俺は、ただの人違いだとわかっていたからな。どうということもない」
 リフェールは、数えるほどしか話をしたことのない、自分に近い色の髪を持つ一年下の女子生徒を思い浮かべる。アリスの相手はその女子生徒だと、以前、アリス本人から聞いていた。
 アリス・ゴードンとユン・リューネベリが密かに付き合い出したのは、二年前からだった。
 皮肉にも、女同士は男同士でいるよりも、あまりそれとは知られにくい。友達同士であっても、多少仲が良ければ腕を組んで歩くことも多いからだ。
 そうはいっても二人の場合はクラスが違うこともあり、あまり仲が良すぎるのは不思議に思われる。だから今までは、会うときにはそれらしい理由をつけて体裁を保っていたのだったが、結果として、配慮が足りなかったということだろう。
 たまたまあずま屋でキスしていたところを誰かに告げ口され、それが夕方だったために、幸か不幸かユンはその白に近いクリーム色の髪でリフェールと間違われた。
「学院長には、何と言ったのだ」
「何も。キスしかしてません、とは、ちゃんと言ったけど」
 強気な顔に影がさし、投げやりにも聞こえる返事に、リフェールは眉を寄せた。元々大きな声では話してはいなかったが、思わず声をひそめる。
「それだけか?」
「あなたのことも、人違いだと説明したわよ。なのに、あなたもいつまでも謹慎が解けなくて…何も言わなかったのね、リフェール」
 呆れたようにアリスは笑ったが、呆れるのはこちらだとリフェールもため息をつく。学院長にはある程度の事情を話しているものと思っていた。つまり、相手は男ではないから、できるだけその名は伏せてくれ、とでもいうような。
 そう言うと、「言えるわけないでしょう」とアリスは苦笑した。
「言ったが最後、その子もここにはいられなくなる。要注意人物って、周知されちゃうわ」
 冗談のようにアリスは言い、リフェールも、ありえないことではないと背もたれに背を預けた。
「キスしただけなのに。やーね」
 その昔リフェールもモーリス・ジュリアンから忠告されたように、節度さえ守っていれば、たとえキスを目撃されたところで一週間程度の自宅​謹慎で済む場合もある。​が、今回はなぜかキスだけでなく屋外で行為に及んだことにされており、発覚後も当人が本当のことを話さなかった。頑ななその態度に、学院側は退学やむなしと断罪するしかなくなった。また彼女の場合は、寮長という立場も悪かった。ほかの生徒に示しがつかない、ということだ。
 しかしたとえアリスが事実を話したところで、自宅謹慎で済まされただろうか。
 学院長はじめ、良くも悪くも卒業生が教師として戻ってくることも多いこの学院で、同性同士の関係を話したらどうなるか。事実が歪められたことにも悪意を感じていたアリスが、話すことはできない、と判断したとしても無理はなかった。
「あなたも、気をつけた方がいいわよ」
 すでにここ数日で覚悟を決めていたアリスが、おどけるように言う。彼女は、リフェールがルイスを好きだということを知っているのだ。そういえば先日思いが成就したのだと伝えたかったが、今はそのときではない。
 その上正直なところ現時点ではまだ彼は、誰かに見られる恐れのある場所でキスに及ぶ気持ちはわからなかった(何なら、キスはすでに一度交わしたので十分な気がしているほどだ)。とはいえ、気をつけるに越したことはないと頷いておく。
「ならば、伝えたいことはあるか。今夜中に出るのだろう」
 退学を言い渡されたら、即日中に出て行くことになっている。アリスがユンに会う時間はない。生徒が食堂に集まる時間を見越して告知されたのは、そういうことだ。大多数の生徒があの張り紙に気付くのは、明日の朝になる。
 けれど何も告げられずに置いていかれる相手のことを考えると、リフェールにも良いこととは思えない。せめて、何かできることはないかと思って会いに来たのだった。
 リフェールの申し出にアリスは目を見張ったが、「あの子には、あとで連絡する」と言ってきゅっと唇を引き結んだ。
 そのとき、キイ、とドアの開く音がして二人揃ってそちらを窺う。校舎へ通じる、女子エリアの裏口のようだ。まだ食堂へ行っていない生徒がいたのかとホールの時計をリフェールが見上げたが、パタパタと廊下を走ってきたのは、ユン・リューネベリだった。
「アリス!」


 付き合う、といったところで、寮生活かつ男同士のふたりは身動きが取れない。せいぜい二人で一緒にいるくらいが関の山だ。しかしそれにしたところで、今まではルイスが寮長室を訪うほかは個別に行動することの方が多かったのだ。今更勝負や口論なしで二人でいることの方が、周りの目が気になって落ち着かない。しかもリフェールの立場上、こそこそする時間も場所もなかった。
「それで、どうするんだ、二人は」
「さあ。ユンは、地元の学校に通うと言っていた。アリスはもう、このまま家で勉強して大学入試資格取得を目指すのもいいと笑っていた。本当は、さっさと家を出たいらしいが」
 そんなわけで今、ルイスとリフェールは、あえて談話室の窓際のテーブルを確保してチェスをしている。話をするときは、二人きりにはならないほうがいいだろうと考えたからだった。呼ばれたら、すぐに席を立てばいい。
 意識のしすぎかと思ったが、これが意外と効果があるらしい。真剣を装って対戦していれば、さほど話しかけられることはなかった。また、リフェールがルイスに勝負を挑むことなど日常茶飯事すぎて、同級生にはからかいの種にもならない。下級生に至っては、邪魔すべからず、とまるでお触れでも出ているかのようだった。
「家か」
 ため息をつくルイスをちらりと見て、リフェールは白の駒を取り上げ斜めに二つ移動した。
 あの日、とうとう黙っていることに耐えかねたユン・リューネベリは、張り紙は見ないまま学院長室に名乗り出たのだった。彼女はその場でアリスの処分を聞くと大急ぎで寮にとって返し、玄関ホールにいたアリスに平手を喰らわせて抱きついた。
「なんで全部一人で背負っちゃうのよ! あたしのこと、さっさと言えばよかったのに!」
 目に涙を溜めたユンは、自身の代わりに謹慎させられる羽目になったリフェールに気付くと腕を解いて深く頭を下げた。それから二人の寮監が止めるのも聞かずにアリスの手を引いて再び学院長室へ乗り込み、最後はアリスと一緒に学院を去って行ったのだった。
 ユンが退学した理由は明らかにはされなかったが、想像逞しい学生たちが、真実に近いことをそうとは知らぬまま噂し、語られることになった。
 ルイスは当然、リフェールから真相を聞いている。
「学院側は、どんな感じなんだ」
 ユンが学院長に真実を告げたあと、リフェールももう一度呼び出しを受けている。
「ダメだな。ユンの場合は本人から退学届が出されたから、自主退学なら都合がいいという調子の良さだ」
「そんな!」
 ルイスは思わず声を上げたが、リフェールに目顔で嗜められて慌てて口を閉じる。本当なら、こんなところでは話せない内容だ。バルコニーに出られるガラス窓と壁に囲まれた部屋の角から室内を見渡せるこの場所で、この賑やかさに埋もれるように声をひそめてはいるものの、誰も聞いていないとは限らない。
「アリスの処分撤回の意見も出たそうだが、ダメだったらしい」
 リフェールが言うのになぜかひどく失望して、ルイスは叩きつけるように黒のナイトを進めた。しかしそれを遮るリフェールの指がさりげなくルイスに触れ、慌てて手を離そうとしてほかのコマを倒しかける。
「お前な、やるなら真剣にやれ。そこには動かせんだろうが」
 やけどでもしたかのように腕を引っ込めたルイスを揶揄うように上目遣いで見ながら、リフェールがコマを元の場所に戻す。
「おっ…まえ……!」
 どうした、と惚けるリフェールに、咄嗟のことで言い返すことがルイスにはできない。
 先日たった一度だけキスを交わしたふたりだったが、ルイスにとってはあんなものより、こうして時折リフェールが何かに紛れたふりをして触れてくることの方が余程心臓に悪かった。
 ルイスは、人並みに恋人同士の付き合いに憧れていた。好きな人と一緒にいて、触れ合う。それはどうやら、とても幸せそうなイメージだった。具体的なことはせいぜいキスくらいしか思い描くことができなかったが、好きな人ができたら自分もそうするのだ、と期待していた。
 しかし思えばリフェールを好きだと自覚したとき、彼とそれをしたい、とは、少しも考えなかった。実際に口付けを交わして初めて結びついたのだ、好きな人とこれをするのか、と。
 いまいちよくわかっていなかった「付き合う」ということの意味が少しずつ形になり、ルイスはうっすら気掛かりを覚え始めている。初めてのキスは、実のところ、思っていたよりもピンと来なかった。むしろ違和感を感じてごく僅かに不安さえ覚えたのだったが、その原因は何だったのか、何が違っていたのか、確かめることはその後できずにいる。
 自分には、彼と「付き合う」ことができるのだろうか。彼を好きだと思ったのは、何かを勘違いしたのだろうか。
 「降参か?」と聞いてくるリフェールに、何と言って抗議しようかとルイスが口を開きかけた。
 と、談話室の入り口からリフェールを呼ぶ声がして、彼が生徒会長の顔でそちらを確認する。
「俺の勝ちだな」
 にやりと笑うと手早くチェスを片付けて、リフェールは席を立って行ってしまった。
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