1 迷い ⅱ

文字数 5,901文字

 警備システムの再構築はアリーシア社、現地に設置済みの機材の点検はほかの業者を頼むということで話がまとまり、ルイスはもう一度メンバーを執務室に呼び入れた。今度は、初めからリズとカイルにも声をかける。
「それではこの件、正式に引き受けます。えー、ついては依頼人の紹介を」
 しん、と一気に場が静まった意味を、ルイスはもちろん正確に理解している。ふと、極上の笑みを浮かべているエリーと目が合って、一つ大きなため息をついた。
 リフェールが、促される前に立ち上がってルイスの隣に並ぶ。
「リフェール・ヨウシア・マイトナー。オレの、学院時代の同級生だ」
 「ん?」とリフェールがルイスを振り返り、社員たちからは大きな拍手と歓声が上がる。どちらも綺麗に無視して​、ルイスは続けた。
「リフェール、みんなを紹介するよ。まずはトム・オーキッド。いいかリフェール、お前、本当に彼には感謝するんだぞ。こんな短期間じゃ、絶対に無理な仕事なんだからな。それを休み返上で」
「ボス」
 紹介と言いつつ、リフェールに詰め寄る勢いで恩に着せるルイスに、トムが苦笑しながら立ち上がって口を挟んだ。リフェールは、トムに歩み寄って手を差し出す。
「ありがとう。よろしく頼みます」
 トムもゆったりと立ち上がってその手を取ると、しっかり握り返した。
「こちらこそ。ボスをよろしくお願いしますよ」
 なんのことだ、とリフェールがルイスを振り返るのを待たぬまま、ルイスは次々と社員を紹介する。
 イワンにはバンバンと肩を叩かれ、ランランにはウインクされ、アヤには頭を下げられ、エリーには『これでお話しようなー』と端末を見せられ、リズには品定めでもされているかのように見られ、カイルには睨みつけられ、リフェールは彼らの個性の強さにいささか面食らう。
 まるで取って喰らいでもしそうな勢いの社員たちにルイスもにわかにリフェールの身が心配になり、思わず彼の腕を取って自分のそばに引き寄せる。しかし社員が揃って目を皿のようにしたのに気付いてすぐに手を離し、誤魔化すように手のひらをパンパンと打ち合わせた。
「そんな訳で、メイン担当はオレが。急で悪いけど、しばらくはできるだけこの案件最優先で頼む。ほかに至急案件がある場合は、そちら優先で構わない。今日は…トム、本当にもう今から任せていいんだな?」
 彼が頷くのを確認して、ルイスが続けた。
「じゃあ、まずはトムから。みんなは一度帰って、明日からだ。オレは、彼を駅に送ったらまた戻ってくるよ」
 解散を言い渡して二人はオフィスを出たが、足早に階段を降りて通りに出たときに大きなため息をついたのはルイスだった。どうも、(たが)が弛んで仕方ない。
 一方で、よくわからない熱気に呑まれたリフェールは彼の気持ちなどわかるはずもなく、やはり無理をさせてしまったかと申し訳なく思いながらあとに続く。
「それにしても、自分で持ち込んでおいて言うのもなんだが、楽な案件ではないだろうに、お前のところの連中はやたら元気だな?」
 渦中にいるのはお前だ、とも言えず、「まあな」と適当に返事をしてルイスはリフェールを促した。
「それよりお前、帰りの席は取ってあるんだろうな」
「ああ、いや、これからだ」
 リフェールは端末を操作してマイロン行きの特急列車の直近の空席を確保すると、「1時間後だ」と顔を上げた。
「それまで少し、付き合わないか」
 それなら、とルイスは駅前の食堂にリフェールを連れて行く。これからのことを考えると、軽くても何かを腹に入れる必要がある。
 ソーセージの盛り合わせと、ひき肉に野菜をまぜてこねたタネをパスタで包み野菜スープで煮込んだものとワインを頼むと、二人はカチンとグラスを合わせた。喉を潤し、温かいもので腹を満たして、先に口を開いたのはリフェールだった。
「助かった」
 リフェールがじっと手元に視線を落とし、まるで懺悔でもするようにそう言うと、ルイスは小さく笑った。
「まだ始まったばかりだ」
「いや。来てよかった」
 今朝は朝一番に、1週間後に迫った国際会議の、警備システムの担当者がシステムの納品にやってきた。それを一緒に点検していたところで、担当者に連絡が入って説明が中断された。通話しながら頭を下げ、場所を移ろうとしていた彼が足を止め、室内を振り返って「パソコンからケーブルを抜いてください! ネット回線を遮断して!」と大声をあげたときにはもう遅かったのだ。何事かと皆顔を上げ手を止めた瞬間、起動していたオフィス内のパソコンが次々とダウンして動かなくなった。システムを点検していたリフェールのパソコンは当然、いの一番にダウンした。
 システム会社にも今調査が入っているが、そちらも今朝感染が判明したばかりで、連絡が間に合わなかったというわけだ。しかも感染したシステムをそれとは知らずにダウンロードしたリフェールのパソコンからは、データが壊される前に一部重要機密が盗み取られていることもわかった。
 今、省内では感染を拡大させないよう、すべてのパソコンが使えなくなっている。
 世界的にも注目されている会議を、システムの不備が原因で開催不可能とはできない。会議の警備システムの確立と省内サーバーとネットワークの回復を同時に進めるため、関係者らは今、上を下への大騒ぎだ。しかし警備システムについては、時期が時期なだけに、どの企業も手を出し渋っていた。規模が大きいことと、既に設置済みの機材を使いたいということが、嫌がられる要因のようだった。
 リフェールはなんとか状況を把握したあと、このシステムを人任せにはしておけず、上司に断りルイスを頼ってここへ来た。彼のパソコンも調査に必要ではあったが、システム本体は今もう一人の担当者の元にある。また代替システムの検討ということもあって、持ち出しを許可されたのだった。
 リフェールにできることが何もない中で、こうして時間ができてルイスの元に来られたのは、非常に幸運なことだった。彼のオフィスでのあの雰囲気に心が解きほぐされたようで、スッと心が軽くなった。
「方向性が決まり次第、連絡を入れる。そのあとはお前の上司でも、そっちで見つけた業者とでも話をしてやるから、話が早そうな連絡先を教えてくれ」
 ルイスの申し出に、リフェールが眉を寄せる。
「俺に言えばいいだろう」
 落ち着いていつもの調子が戻ってきたな、とルイスはプッと吹き出した。
「拗ねるなよ。大事な仕事なんだろう。ちゃんと、お偉方が納得するように話してやるから」
 確かに、その方が早いに決まっている。けれど面白くない、とリフェールはワインを煽った。
「今回の会議がなんとか終わったら、休みを取る。そのときは、遊びに来てもいいか」
 一瞬どきりと心臓が跳ねたのを押し隠して、ルイスはなんでもないことのように頷く。
「いつでも来いよ。でもその前に、パソコンを取りに来るだろう。来られなくても、持っていってやるけど」
「ああ、そのときは頼む。それはそれとして、お前のところの連中と話したいのだ」
「うちの? なんで」
 ルイスがウインナーを飲み込んで聞き返すのに、リフェールはにやりと笑いながら時計を確認する。
「迷惑をかけるからな。礼を兼ねて、食事でもどうだと言っておいてくれ。楽しそうな連中だ」
 テーブルに二人分の会計を置き、リフェールは席を立ってルイスの肩を軽く抱き寄せた。
「時間だから行く。今回は本当に助かった。礼はまた改めて。頼んだぞ」
 トントンと背中を叩いて出ていく後ろ姿を、ルイスは何も言えずに見送った。


 深夜、オフィスはしんと静まっており、ルイスの叩くキーボードだけがカタカタと乾いた音を立てている。
 手を止め、キ、と椅子を鳴らして立ち上がると、ソファの肘掛けに頭をのせてリフェールが仰向けに横になっているのが見えた。
 期日直前の土曜日、リフェールが再びルイスのオフィスを訪ねて来ていた。会議の開催にあたり、彼はすでに主な役割から外されたらしい。各部署のサポート係といえば聞こえはいいが、要するに使い勝手のいい雑用係となっているのだという。今回の件は誰が担当したところで同様の事態は避けられなかっただろうから、彼を除外するなどルイスに言わせれば人材の無駄遣いだ。
 そんな中、あとは当日会場で走り回るばかり、という状態になって、リフェールは預けっぱなしだったパソコンの回収がてら、あわよくば納品を自分で確認できるかもしれないとやってきたのだった。
 そうはいっても、そもそもが短期間で終わるはずのない作業だ。ようやく最終段階に入ったばかりで、今はルイスが一人、オフィスの自分の執務室で黙々と作業を進めている。リフェールにはホテルに戻れと言ったにも関わらず、邪魔はしない、黙って作業を見ているだけだと押し切られたために、今は執務室で待つことを許していた。
 デスクの脇の棚から毛布を取り出し、ルイスはソファへ歩み寄る。静かに寝息を立てているリフェールに毛布をかけてやると、背もたれに片手をつき、わずかに背を屈めて彼の顔を覗き込んだ。本人は仕事を外されて暇なのだと言ったが、この状態では疲れた様子は隠しきれない。
 ルイスはそっと、彼の浮いた前髪を指で掬った。どうしても波打つ自分の髪とは違って、彼の真っ直ぐに伸びた髪が昔から好きだった。サラサラと指の上を滑っていくその感触に、もっとちゃんと触りたい、という気持ちがどっと溢れてきて、ルイスは慌ててきゅっと指を握り込む。
 このシャンブルの地は、ルイスの故郷である以上に、癒しであり、自分を解放できる場だった。そこにリフェールがいるとなれば、気持ちを抑え込むのは難しい。
 再会して初めて二人で飲んだあの日、握手を交わして以来、彼に対して再び大きく気持ちが傾き始めた。もう長いこと、他人に触れることはできなかったというのに、彼には嫌悪を感じない。そのことが嬉しくて、先日、弾みで彼に触れてしまった。
 学院を卒業したあとも、好きになった人は何人かいた。しかし、自覚が芽生えたからかどうか、好きな相手ですら手を握ることもできず、理解も得られず、誰とも心地よい関係を築くことができないまま、ルイスはもう諦めたのだ。一人で生きていくのも、悪くはないと。
 リフェールとも、きっとハグが上限だ。けれどそれでいい。もう、彼との別れを受け入れられる自信はない。
 だから、このまま。
 ルイスは弾む息をなんとか押し殺し、音を立てないように気をつけながら執務室を出て給湯室へ向かう。気持ちを落ち着けるようにゆっくりとコーヒーを淹れて戻ってくると、リフェールが起き出してパソコンの画面を覗き込んでいた。
 起こしたか、と一度は静まったはずの心臓が早鐘を打つのを無視してデスクに向かう。
 ドアの開く音にリフェールが屈んでいた身体を起こしたが、ルイスの手にカップが一つしかないのを見て不満げに口を尖らせた。
「俺の分はないのか」
 その声にようやく緊張が解けて、ルイスはほっと力を抜いて苦笑する。
「はいはい、お客様。でもお疲れのご様子ですから、ホットミルクでも飲んでお休みになられては?」
 ひとまずデスクに自分のカップを置き、そんな軽口を叩きながら給湯室に戻る。ところがそれを追ってきたリフェールは、置いてきたはずのカップを手にしていた。
「これでいい。子どもではあるまいし、牛乳などはお前が飲め」
「それはオレの!」
 にやりと笑うリフェールに一応抗議の声をあげてみせてから、ルイスは仕方なく牛乳を冷蔵庫に戻し、自分の分のコーヒーをもう一度淹れにかかった。
 コーヒーマシンもあるが、一人しかいないときにはハンドドリップだ。少しだけお湯の残ったまだ熱いやかんに水を足して火にかけると、ハンドル付きの古いミルで一人分の豆をガリガリと挽いてしまう。サーバーも使わず、カップに直接ドリッパーを置くその慣れた手つきに、眠そうだったリフェールの目が輝く。
「これも、そうやって淹れたのか」
「ああ。リフェール、お前本当に寝た方がいいんじゃないか。休憩室のベッド、使っていいから」
「美味いな。店が開けるぞ」
 コーヒーを味わいつつ壁にもたれて楽しげにルイスの手つきを眺めるリフェールに、その気はないらしいと悟って、ルイスはため息をついた。
「心配するな。休める時はちゃんと休んでいる。お前と同じだ」
「それなら今は、お前は休む時間だろうに」
 ルイスは今度こそ自分のコーヒーを手に、執務室に戻る。そうとなればしようがない。さっさと作業を終えて、彼の心配事をなくすしかない。
 子どもが母の背を追うようにその後ろについて歩きながら、リフェールはルイスを目で追った。さっきのは何だったんだと、本当は問いただしたかった。
 そんなに深い眠りでは、なかったのだ。今回の件は、すでに職場ですらも、自分にできることはそう多くなかった。ルイスとその社員たちには迷惑をかけてすまないと思うが、自分のために骨を折ってくれる彼の気持ちがただ嬉しかった。彼にとって自分にはまだ、そうするだけの価値が残っているのだと思えば、疲れも癒えるような気がしていた。
 実際、忙しさのピークを迎えている職場を離れ、この静かな空間でリフェールは十分にリラックスしていた。ルイスのたてるキーボードの音が快く、ルイスのオフィスに二人きりでいられるという事実が快く、愛しささえ覚えたほどだ。この雰囲気を壊さず身をひたらせていたい、とそればかりを思って目を閉じ、まどろんでいたのだ。
 寮の狭い二人部屋で過ごしたあの日々を思い起こさせるような懐かしい空気に身を委ね、気が付くと、キーボードの音が止んでいた。ふわりと毛布で身体を覆われ、ああ、ルイスが、と思ったら前髪を掬われた。身じろぎをして目を開けたときには彼はすでにソファを離れており、静かに部屋を出ていく音が聞こえただけだった。パタン、とドアが閉まり何の音もしなくなった執務室で、一人リフェールはぼんやりと天井を見上げ、灯りを遮るように腕で顔を覆ったのだった。
 今、ソファに座るリフェールからはパソコンに遮られて、彼の栗色の巻き毛しか見えない。
「ルイス」
「ん?」
 キーを叩く手を止めずに応じたルイスに、リフェールは祈るように声をかける。
「時々、コーヒーを飲みに来てもいいか」
「わざわざ、特急で? 店は開いてないぞ」
「昔、俺の部屋を勝手に喫茶店扱いしたのはどこの誰だ」
「…オレだな」
 懐かしい話に、ルイスがほろ苦く笑った。
「豆は買ってくる」
「それは、悪くない」
 そんなやりとりに、互いがそっと口元を緩めた。
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