1 はじまり ⅲ

文字数 4,745文字

 リフェールが、自分はルイスを好きなのかもしれないと自覚したのは、4年次の冬だった。その年の冬休み直前、最上級生の女子にコンサートホールの裏手まで呼び出され、好きだと告白されたのがきっかけだった。
 見てくれは上等な割に、その性格のせいか恋愛ごとには滅法縁のないリフェールであったが、学校生活を送るうちに、人にはそんなイベントもあるらしいとは聞き及んでいた。が、よく分からなかったので、付き合うことは考えられないと正直に断ったあと、思い切って聞いてみたのだ。その上級生に。
 これまでも何度か話したことがあり、さばさばとした性格の彼女ならば、聞けば笑って教えてくれると思ったのが間違いだった。
「好きとは、どんな感覚ですか」
 断られるかもしれないとは予想していても、まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかった彼女は、面食らって口籠った。そうして、恋愛には向かない人間を好きになってしまったのだと失敗を悟った瞬間、これまでの思いが一気に怒りへと変わり、真っ赤な顔で「バカにしないで!」と叫んで走り去った。
 失敗した、と悟ったのはリフェールも同じだった。バカにしたつもりも傷つけるつもりもなかったが、聞いてはいけないことを聞いてしまったのだ、ということはわかった。
 じっと立ち尽くしたまま彼女の走り去った方を見つめていると、入れ替わるように別の誰かがやってくるのが見えた。一つ年上の上級生、モーリス・ジュリアンだった。灰色がかった茶色の髪を品よく七三に分けて、白のポロシャツに紺色のパーカーを羽織っている。
「やあ、リフェール。どうした、こんなところで」
 人当たりがよく成績優秀、クラス委員を五年も続けているモーリスは、早くも次期生徒会長と囁かれていた。下級生の面倒見もよく、リフェールも、これまでに何度となく世話になった自覚がある。今度こそ、相談するには格好の相手だった。
「今、好きだと言われました」
 モーリスは思いもしなかった話題に一瞬目を見張ったが、すぐに心得て一緒に歩くよう促した。幸いこの日は冬にしては気温も高く、散歩をするつもりで出てきた自分はともかく、彼もジャケットを羽織っている。少しの間なら、風邪をひく心配もなさそうだった。
 馬場の方へと並んでゆっくりと歩きながら、モーリスは穏やかに先を促す。
「それにしては、難しい顔をしてるじゃないか。嬉しくないのかい」
「よくわからないので、断りました」
「わからない? 何が」
「好きだという感覚が」
 モーリスが、足を止める。2、3歩進んでそれに気付いたリフェールも、立ち止まって彼を振り返った。さらさらと顔の脇に揺れるシルバーブロンドが冬の木漏れ日を反射して輝くのを、モーリスは感心して眺める。
「おかしいですか」
 真剣な彼の表情に、モーリスは気を取り直して歩み寄った。
「おかしくはない。悪かった。ちょっと驚いただけだよ」
 驚くことなのか、と思いつつ再び並んで歩き始めると、リフェールは自分よりわずかに背の高いモーリスを見上げた。
「好きとは、どんな気持ちですか。好きになると、どうなりますか」
 モーリスは、うーんとうなりながら、なんとはなしに囀る鳥の姿を探す。鳴き声は聞こえても、枝葉に隠れたその姿を見つけることは難しい。
「そう簡単に定義できるものでは、ないだろうけど。気が合う、とか、話が合うから一緒にいて楽しい、だから好き、というのが、まあ一般的に友人に対する「好き」だろうね。恋愛だと、「見た目が好み」というのも加わることもあるかな。それがだんだん、その子を見るとドキドキする、とか、もっと一緒にいたい、とか、一緒にいられない時は何をしているのか気になる、とか。その子のことを考えずにいられなくなることが、多いみたいだね。どう、こんな気持ちになったことはないの」
 モーリスに聞かれて、リフェールは考え込む。
 頭の中では今日己に告白してきた女子などすっかり姿を消し、その代わり、当たり前のように「その」対象としてルイスを思い浮かべている。性別はさておき、リフェールにとって気になる相手といえば、彼しかいない。
 ルイスを見ても、ドキドキはしない。けれど、目で追っているとは自分でも気がついていた。ライバルなのだから、当たり前だ。しかし彼が誰かと笑い合っているのを見るのは、なんとなく面白くない。
「…あんまり。楽しそうにしているのを見ると、もやもやすることは、時々あります」
 渋い顔でそう言うのに、モーリスはプッと吹き出した。
「場合によっては、それもアリだ。自分じゃない誰かと仲良く話しているのを見ると、面白くない気分になってやきもちをやく。これも、好きの一種じゃないかな。好きじゃなかったらそもそも、やきもちなんてやかないからね」
 リフェールは、ルイスのことばかり四六時中考えているわけではない。彼は、リフェールにとっては目指す目標であり、そうなりたいと思える憧れであり、光だ。だからこそルイスは、己を見ていなくてはならないのだ。そう思うことは、嫉妬ではない。
 あいつは、と一応名を伏せてそう言うと、モーリスは「いいね」と笑って続けた。それだけ執着していれば、それはもう恋と呼んでいいのじゃないか、と。
「相手が男でも?」
「男でも。関係ないよ、性別なんか。誰かいるのかい、そんな相手が」
 探りを入れるようなモーリスの質問には答えず、リフェールはさらに深く考え込んだ。
 モーリスはふと、リフェールと二人揃うと決まって何かをしでかす彼のクラスメイトを思い出した。
 優しげな顔にいつも笑みを浮かべ、物腰は常に柔らかいが、リフェールが相手だと容赦なく対抗心をむき出しにして少しも譲らない少年。上級生の間では「笑顔の悪魔」と囁かれ、イベントごとがあるときは面倒を起こさないように二人を引き離しておけ、という申し送りがあるほどの仲だ。
 「好きな子には、いろいろ理由をつけて構いたくなったりもするよね」と続けると、リフェールは顔を真っ赤にしてモーリスを振り返った。
「そんなんじゃないぞ、あいつは!」
 その剣幕にモーリスはわずかに目を丸くしたが、すぐに「そうかい」と微笑んだ。
 その後「人を好きになるとは」ということについて懇切丁寧に教わったリフェールだったが、そのときはまだ、自分がルイスを好きだという確信を持てずにいた。夜、自習室から帰ってようやく一人になれたシャワーブースで、頭から熱いシャワーを浴びながら悶々と考える。
 出会ってから今まで、ルイスは一貫してリフェールのライバルであった。初めて寮監室の前で会ったときから、ずっと気に食わない男だと思っていた。
 柔らかそうな髪、またその色といった外見から、優しげなものの言い方、その後知った大勢の中での身の処し方まで、自分にはないものを彼は持っていた。それは、様々な子どもが集う学校という場を知らなかったリフェールのコンプレックスを刺激するには十分だった。
 だからせめてと勉強やスポーツで挑んでみたものの、初めはまるきり歯が立たなかったのだ。それで、リフェールは必死でルイスのあとを追った。
(この気持ちがそうだというなら、俺は、男が好きだということか?)
「一応言っとくけどね、誰を好きになるのも自由だけど、もしもその先に関係を進めたいと思ったら、そのときはきちんと相手の気持ちを確かめるんだよ。それから特に校内、寮内では、大っぴらにはことに及ばないこと。わかるね」
 モーリスの言葉を思い返し、これは恋なのか? と尚もリフェールは首を捻った。
 なぜなら彼の言う「その先」については、考えたことがなかったからだ。確かに下級生の頃、そんな授業があったような気もする。が、自分にはいつまで経っても教科書に載るような典型的な恋愛感情など生まれなかったので、すっかり忘れていたのだ。生理現象については、まだわかる。しかし
(キスをする? あいつと? ありえない)
 好きになれば、互いに触れ合いたくなることもある。相手が男でも、そうしたくなる気持ちを持つ人はいる、と言ったモーリスの言葉を頭の中で反芻して、リフェールはふと、自分のそれを見下ろす。相手にも当然備わっている、それ。
(奴のこれを、触る…どんな風に?)
 意図しないままに彼の裸体を想像しながら触れたせいか、それだけで反応してしまい、思わず「うっ」と声を漏らす羽目になった。
(なんだこれは)
 今までリフェールは、誰か特定の相手を想像して身体が反応したことなどなかった。男女の行為そのものについては、想像したことすらない。あまり機会もなかったが、処理する必要が生じたときには機械的に済ませるだけだった。
 そんなリフェールにとって初めてのこの感覚は、新鮮であり驚きであり、そして自分の身体に裏切られた気分でもあった。
 まずい、と思った瞬間、天井のスピーカーがブ、と音をたてた。
『15番ブース、大丈夫か? 意識はあるか?』
 は、と顔を上げると、シャワーを使い始めると作動することになっている壁面のタイマーが、なんと50分を過ぎていた。タイマーは医務室と繋がっているので、何かあったのかと思われたらしい。
 リフェールは、慌ててシャワーを止めると応答ボタンを押した。
「大丈夫です。すぐ出ます」
 ゆるく立ち上がったそれについては考えないようにしてシャワーブースを出、手早く衣服を身につける。そして、様子を見に来るであろう校医と鉢合わせしないようにそそくさと部屋へ逃げ帰った。その勢いに年下のルームメイトたちは何事かと驚いたが、彼らに構う余裕もなく、リフェールは早々にカーテンを閉めてベッドに潜り込んだのだった。
 以来リフェールは、どうやら自分はルイスを好きなのかもしれない、と自覚するようになったが、心境としては複雑であった。己が彼に対してどのような態度をとってきたか、リフェールは十分にわかっている。それにルイスがどう対応してきたかも、身に染みて知っている。
 到底、好かれているわけはなかった。そう考えて、それまでと態度を変えることなく、距離を詰めることもなく、変わらず接してきたのだ。彼のことを考えれば先のように身体が反応するときもあるが、皆の言うような強い欲望ではない。ただ、自分の目の届く範囲に彼がいればいい、と。
 新学期になってからのルイス​は、どう見ても落ち込んでいた。皆の行為は許されないものだと思ったが、彼の実力はリフェールが一番よく知っている。見た目は天使でも、一対一であれば誰にも負けない体力と技を持っている彼は、うまくあしらうことができると信じて疑っていなかった。自分が手を出しては、彼をさらに傷つけるとも思っていた。
 しかし、数を頼まれては抗いようもない。
 あの日リフェールは、ジャックたちがルイスにリンチを加えようと相談しているのを偶然聞いてしまったのだ。授業が全て終わり、吐き出されるように教室を出ようとしていたときだった。何、と足を止めたリフェールは担任から声をかけられてしまったため、その後彼は構内中を探し回る羽目になった。
 それ以上は、放っておけなかった。守りたい一心で無理を言って同室になり、何かできることはないかと無理を言って休暇に誘った。それが「好きな子を構う」ということであれば、そうなのかもしれない。少しずつ、リフェールの中でルイスに対する気持ちは変化していった。
 今、こうして己のテリトリーの内でルイスがどうやら心穏やかに過ごせているようなのは、リフェールにとっても幸いである。彼が、何にも煩わされず笑っていればいい。この想いを告げて、彼を不快にさせることはない。
 リフェールは彼なりに、その想いを胸の内に大事に抱えていたのだった。
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