2 気付き ⅴ

文字数 6,755文字

 ルイスは暗闇の中、隣で寝息を立てるリフェールを横目で見て、静かにため息をつくと両腕を持ち上げて目を覆った。素肌に夜気が触れて、寒くはないがひんやりとする。
 違う。
 やはり、何かが違う。そう感じて、ルイスは歯を食いしばり、泣きたい気持ちを押し殺す。
 リフェールは、最後まではしなかった。けれど丁寧に時間をかけて、ルイスの反応を気にしながらことを進めた。そこを刺激されれば反応して昂り、自身も解放された。
 しかし、ただそれだけだった。
 嫌じゃないかと聞かれて、誰が嫌だと言えるだろう。それを願ったのは自分であり、相手は恋人であり、何より身体は明らかに反応しているのに。
 けれどルイスにとっては、自分で処理するときと変わらなかった。むしろその感覚を強制的に引き起こされているという状態が、何か自分の気持ちとはかけ離れているようで困惑するばかりだったのだ。
 リフェールの手に導かれ、彼自身に触れたときもそうだった。初めて触れる他人のそれの熱さに驚き、触れた瞬間の彼の表情に心奪われはしたものの、それで自分の心に火がつくということはなかった。彼は嬉しいのだ、と思えば思うほど、同じようには感じられない自分に罪悪感が募った。
 ともに果てたあと、リフェールにきつく抱きしめられて、ようやく心の底からほっと息をついた。終始ぎこちなく、電池切れ直前のロボットのような動きしかできなかった身体に電流が通い、ルイスも彼の身体に腕を回して、やっと生き返った心地を味わったのだった。
 これだけでいい、これが一番いい、と。
 己の冷たさに舌を噛み切りたくなって、かわりにぎゅっと拳を握りしめる。ただ、今は、それでもリフェールが隣に身を寄せ、穏やかな寝顔を自分に向けているのが嬉しい。
 ルイスは腕を下ろすと彼を抱き寄せるようにして自分の身体を寄せ、その滑らかな肩口に額を押し付けてきつく目を閉じる。
 好きなのに。ここまでは、できるのに。
 申し訳なさでいっぱいになりながら、一方で、なぜこうして二人同じ寝台で眠るだけではダメなのだとため息をついた。
 なぜ人は皆、こんなことを好きな人としたいと願うのだろう。


 リフェールが目覚めたとき、ルイスはすでに部屋にはいなかった。大きく深呼吸して起き上がると毛布がするりと肩を滑り、空気が直接素肌に触れるのを感じる。時計を見るが、日の出にはまだ早い時間だった。バスルームを使っている様子もない。こんな時間に、彼はどこへ行ったのか。
 するのではなかった、とリフェールは昨夜のルイスの様子を思い起こして俯いた。せっかくそのことについて話をしようと決めたのに、結局言い出すことができなかったどころか、きちんと彼の気持ちを確かめないうちに流れに乗ってしまった。
 昨夜、明かりを落としてベッドの上で互いに肌を見せ合い、手を伸ばした。布越しにではなく触れることができて何やら熱くなり、無我夢中で彼に唇を寄せた。何をどうしたらよいのかわからないままに、快感を求めて重ねた唇の間から舌を潜り込ませ、絡め、手のひらは彼の肌をくまなく滑った。
 その上ルイスを気遣うようなことを言っておきながら、彼が拒まないのをいいことにその手を自身に引いた。そうして爆ぜたあと、彼の悲しそうな表情と未だ冷たい手足に気付いて、すっと我に返ったのだった。
 愉しんだのは、自分だけだった。
 そのときのことを反芻して、リフェールは唇を噛み、頭を抱える。ゆるく兆しているのを感じて、裏切り者、と内心で罵ると、短く唸ってからベッドを降りる。己の意思に反して反応を示す分身が、憎らしい。その存在に目を閉じたまま、ルイスが拾ってソファにかけてくれていたガウンを引っ掛け、下着を身につける。
 昨夜持ち込んだワインの空き瓶やつまみの皿は、綺麗に片付けられていた。乱暴にシーツを引き剥がし、ベッドの下から替えを取り出して素早く敷き直したリフェールは、剥がしたシーツとパジャマを手にルイスの部屋をあとにした。


 リフェールがコテージに移ってきてからも、必ずしも一日中べったりという訳ではない。日中は、一緒にいることもあれば思い思いに過ごすこともある。
 それでも夕食のあとは、必ずふたりそばにいる。特に何も言わなくても、リビングのソファでルイスが本を広げればその隣にリフェールも座り、もたれかかって同じように本を読む。リフェールが食事を終えてゲームルームに向かえば、ルイスもそのあとを追う。
 互いに思うような夜を過ごすことができなくても、それは変わらなかった。ふたりは、相手の体温を感じて寄り添うことが好きだった。
 そうして夜、今はどちらかの部屋でただ抱き合って眠る。リフェールとしては、それだけでいい、と伝えたい一心だった。ところが、それでさらにルイスが頭を悩ませることになった。
 ルイスは、したいとは思わない。けれど、それをすることが相手を好きだという証なのだとしたら、彼はなぜそれを自分に求めないのか。
 先の晩、自分にはそれは向かないのだと自覚はしたものの、ルイスとて男同士でも最後は別の形で終わることくらい知っている。だから、いずれリフェールもそれを求めるだろうと思っていた。それなのに、一向にその気配がない。昼間はそれを忘れて過ごすことができても、夜になってベッドに入った途端に、ざわざわと胸が苦しくなってくるのだった。
 あのときの自分が、何かやらかしたか。それとも、何かまずいことを口走ったか。何せ人の手に導かれて果てるなど初めてだったので、そのときの記憶はうつろだ。リフェールを、幻滅させてしまったのだろうか。いくら何でも、あの一回で満足したなどということはあるまい。もう一度自分から、それを求めるべきなのだろうか。
 気付けばそのことしか考えていない、とルイスは我に返った。投げ出すようにペンをテーブルに置き、両腕を上げ背もたれに背を預けて大きく伸びをする。
 リビングの隣の厨房から、甘い、いい匂いが漂ってくる。リフェールが、世話係のマリーと一緒にパイを作っているのだ。
 マリーは、去年もコテージの面倒を見てくれた、小柄で年配の女性だ。初めはほかにも何人か交代で来てくれていたのだが、今は彼女が一人で全てを引き受けてくれている。
 先日のお茶の時間に出されたケーキをルイスが美味しいと頬張っていたところ、彼女が言ったのだ。ぼっちゃまがお作りになるお菓子も美味しいんですよ、と。
「え? リフェール、ケーキも作れるのか」
 フォークの先のケーキとリフェールの顔を見比べてルイスが驚くと、リフェールは大して興味がなさそうに紅茶を口に運んだ。
「レシピさえあれば、誰だって作れる。いや、これはマリーが作ったのだ。俺を見るな!」
 しつこいくらいケーキと己を見比べるルイスにリフェールが呆れると、マリーがコロコロと笑った。
「ぼっちゃま。明日のおやつは、ぼっちゃまが作って差し上げてはいかがですか」
 そうしてルイスの期待に輝く瞳に負けて今、リフェールはリンゴのパイを作る羽目になっている。
 仕上げに卵黄を溶いたものを刷毛で生地に塗ると、予熱していたオーブンの蓋をマリーが開ける。リフェールがパイの乗ったトレーをオーブンに収めれば、あとは焼き上がるのを待つだけだ。
 調理用具を流しに集めながら、マリーが言った。
「ルイス様のお気持ちが、ぼっちゃまのパイで少し晴れてくださるとよろしいですわねえ」
 調理台を拭こうとしていたリフェールが、ぎくりと手を止める。ルイスが落ち込んでいるのは、彼女にも一目瞭然なのだ。リフェールはため息をついて、すぐに手を動かした。
「ぼっちゃま、あまりご無体をなさってはいけませんよ」
 ご無体とはなんのことだ、と聞き返そうとして、つるりとリフェールの手から布巾が滑っていった。
「は!?」
 真っ赤になって流し台を振り返ったが、マリーはさしたる様子でもなく洗い物を続けている。
「男の方は、女とは体の作りが違いますからね。負担が大きいそうでございますから、お優しくなさってあげてくださいませね」
「そんなにひどいことはしていないぞ!」
 屋敷の人間がほとんど別荘へ移ってしまってから、マリーは朝から晩までコテージに詰めている。掃除や食事どころかふたりの汚れ物も全て任せているわけだから、当然リフェールも、ルイスとの関係を気付かれているだろうと思ってはいた。
 が、こんなことまで心配されるとは居た堪れなくて、つい大声が出てしまう。
 マリーはそんなリフェールの大声など、少しも気にもしていない。何せ、彼の癇癪には慣れている。
「いくらお優しくとも、ひと晩に何度もなさるものではありませんからね」
「マリー!!」
 とうとうリフェールがバン! と両手で調理台を叩きつけた。
 おや、とようやくマリーが手を止めて彼を振り返る。
「違いましたか」
 マリーが首を傾げたところへ、ルイスがリビングから顔を覗かせた。
「どうかしたか」
 甘い匂いにそぐわない大声が聞こえてきて、気になって顔を出したルイスだったが、すぐさま赤い顔のリフェールに追い払われる。
「何もしない! 貴様は大人しく勉強していろ!」
 理不尽な怒りをぶつけられたルイスは、リフェールの隣で申し訳なさそうにしている世話係に目顔で“大丈夫”と伝えると、肩をすくめてドアを閉めた。それを見つめて上がった息を整えるリフェールに、マリーが頭を下げる。
「失礼を申し上げました。お許しを」
 小さなマリーの真っ白な頭を見下ろして、リフェールの沸騰した頭がすっと冷えていく。
 昔からそうなのだ。マリーは、彼がどんなに悪さをしても、こうして自分が頭を下げる。こうされることが、リフェールは本当に苦手だった。怒ってくれた方が、ずっとマシだ。
「ルイスには、あとでちゃんと謝る」
 不貞腐れたように言うと、マリーは、ありがとうございます、と微笑んで洗い物に戻った。
 リフェールが、飛ばしたままだった布巾を拾ってその隣に並ぶ。マリーがそれを受け取って濯ぎ、硬く絞って返すと、彼は調理台に戻った。
 無骨な木製の調理台の木目を見つめ、丁寧に布巾で拭いていく。
「あいつは、多分したくないのだ、そういうことは。だから…その、最後まではしていない」
 しばらくして、リフェールがそうぽつりとこぼす。
 確信はないが、なんとなくそんな気がした。理由はわからない。ルイスは、初めてだから緊張していると言った。しかしそれは、リフェールとて同じこと。少しもうまくできた気などしない。つまりはそれが問題か、と思う傍らで、ならばあの悲しそうな顔はなんだったのだ、と思い出すたび胸が苦しくなるのだ。
 少しの間、かちゃかちゃと食器のぶつかる音だけが響いた。全て洗い終えたマリーは、次は乾いた布巾で調理器具の水気を拭き取っていく。
「ぼっちゃまは、いかがですか。ルイス様と、どのようなご関係をお望みなのですか」
 「俺は!」とリフェールは、つい声が大きくなるのを寸前で堪え、代わりにゆっくりと深呼吸する。
 大体なぜこんな話になった、と地に穴を掘って埋もれてしまいたい気分だが、毒を食らわば皿まで、と再沸騰しそうな頭で布巾を握りしめた。何せ、ほかに相談できる相手は誰もいない。
「俺は、なんでもいいのだ。ただあいつが、嫌な思いさえしなければ。だから、したくないならしなくていい。一緒にいられれば、それでいい。…あいつが、ただの友人でいたいと言うのなら、それでいい」
 低く、絞り出すような声を背中で聞いて、拭き終えた調理器具を棚にしまいながら、マリーは静かに言った。
「そのように、お話ししてごらんなさいませ」


「ルイス」
 暗闇の中で上掛けを引き上げ、今夜は手をつないであとはもう「おやすみ」を言うだけ、というタイミングで名を呼ばれ、ルイスの手が一瞬ぴくりと反応する。
 握り込んだ手の指でそれを摩って宥めながら、リフェールは思い切って話し始めた。
「お前、本当はしたくないのではないか」
「そんなことない」
 何を、と確認するまでもなくすぐさま返された声が硬い。それはリフェールの予想していた通りで、内心戸惑いながらさらに続ける。
「無理をしなくても、いいのだぞ」
 すると途端に手の中からするりとルイスが逃げていき、がばりと身体を起こした。驚きながらも同じように起きあがろうとしたリフェールの顔の横に両手をつき、覆い被さるようにして彼が口付ける。
 何を、とリフェールが腕を持ち上げてルイスの身体を引き剥がそうとするが、彼は更に馬乗りになる形で体重をかけてくる。そして、重ねるだけだった唇を開いて舌を差し入れた。
 リフェールは観念してルイスを受け入れ、されるがままに舌を探り絡み合わせてその感覚に身を委ねかける。しかし彼の手が己の中心を探り始めたのを感じると、思い切ってその肩を押しのけて身体の位置を反転させた。今度はリフェールがルイスの手首を掴み、その身体をベッドに縫い付ける。
「話を聞け、ルイス!」
 暗がりの中で、リフェールはルイスの目をじっと覗き込む。苦しそうに眉を寄せ、何かを決意したようなその目は、これからそれらしいことをするようではまるでない。むしろ悲しんでいるようで、だからなぜそんな顔をするのだ、とリフェールは心臓を掴まれたかのように息ができなくなった。
 何も言えないでいるリフェールの顔を下から見上げて、ルイスは、この顔が好きだ、と思った。
 今は暗くてよく見えないが、細くきりっと真っ直ぐに伸びた眉。色素が薄く大きな瞳。笑うと少し尊大な感じのする口元。すっと筋の通った高すぎない鼻。それらを縁取る、真っ直ぐに伸びたプラチナブロンドの髪。柔らかい、その唇。
 短気で負けず嫌いで、いつも自分が上にいないと気が済まない所も、いつしか好きになっていた。まとめ役は面倒だと言って、さまざまな役割を押し付けられそうになるたびに逃げ回っていたのに、とうとう生徒会長など引き受けさせられた。一方ではやるとなったら腹を括るのも早く、持ち前の責任感で任務を全うする。
 足りないのは言葉か、いやしかしそうでなければリフェールじゃない、とも思う。
 どうあっても彼が好きなのだ、なのになぜできないのだ、とルイスは心の中で叫ぶ。きっとどこかがおかしいに違いないと、とうとう昼間から考えていたことを告げた。
「病院に、行ってくる」
 思い切り予想外のことを言われて、不意をつかれたリフェールの手が緩む。
「病院? どうした、お前、どこか悪いのか」
 そう言ってから、慌ててその身体から降りると枕元を探ってヘッドボードの明かりをつけた。
 ルイスが横になったまま腕をあげ、眩しそうに額に手の甲をあてて首をリフェールに向ける。
「お前のこと、好きだから」
「…何?」
 突然のことに考えが追いつかないリフェールは、ただ呆然とルイスを見下ろす。何か縁起の悪いことでも起こっているのかと不安になって、「不治の病か何かか」と思いつくままに尋ねると、ルイスは困ったように笑う。
「違うといいけど」
「わからないのか」
 心配させまいとしているのか本当にわからないのか、ルイスが今にも泣き出しそうな顔で自分を見上げる様子からは、リフェールには判断がつかなかった。
「叔父の病院で診てもらおう」
 マイトナー家の一族は昔から病院も経営しており、今は母の兄が院長を勤めている。リフェールは勢い込んでそう提案したが、ルイスはさっと表情を固くして起き上がった。
「断る」
 拳をきつく握り、眉間に皺を寄せてぎりぎりと睨みつけられ、リフェールは訳がわからず次第にイライラしてきた。
「なぜだ。だったら俺もついていく。具合が悪いやつを、一人で行かせられるか」
「やめてくれ。勝手に踏み入られたくない」
「それならせめてわかるように話せ! 無闇に人の心配を煽るな!」
 気の短いリフェールがとうとう声を荒げたが、ルイスももう折れることはできない。
「言えないことだってある。ともかくオレは明日病院に行く。悪いが朝には出る。お前にはついてきてほしくない」
 言うだけ言うとリフェールに背を向けてベッドに横になり、頭から上掛けを被ってしまった。
 強引にやり取りを中断させられたリフェールは一瞬目を剥くが、「くそっ!」とマットレスを一度強く叩いてベッドから降りた。
「リフェール」
 ドアに向かう背中に、慌てて起き上がった様子で焦りの滲んだルイスの声がかけられる。束の間息をすることも忘れてリフェールは立ち止まるが、振り返りそうになるのをぐっと堪えてドアを引き開けると、さっさとルイスの部屋をあとにした。
 一人になった部屋でしばしドアを見つめて呆然としていたルイスも、その後枕に強く拳を打ちつけたのだった。
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