第1話 スカンジナビアの青い春

文字数 1,331文字

 この旅が終わる頃にはきっと、宇宙に消滅が訪れる、汚れた哀しみに、狂い咲く桜、海の向こうには楽園、そして末期に長らく想いを馳せていた、あの音楽が耳に映える。フォルティッシモ、抱きしめたなら、ピアニッシモ、唇を重ねる、デクレシェンド、堕ちて逝く夕日に、スタッカート、生命の煌き。眠気は未だ漂い続け、ベッドから垂れている手が床に名前をなぞるのも、灰皿を探りそして見つからず何もかんも諦めるのを、大空と雲が寛容に許しめてくれた。毛布に包まれて、窓の冷気に煙が緩まれ、こんな清々しい二月の日曜、長靴を履いた猫を待ち侘び、朗とするのにお金は一銭もかからなかった。

 お土産はたこ焼き、楊枝が付いてなかったので火傷に気を付けた。好きなのから食べて、私は残ったのでいいから、午後四時のズブロッカ、固い液体は胃にぬめり、女を褒め称えるのに十分な前座をこなし、いいかげん眠りたいので、その松ヤニの匂いを彼女にも分けてあげた。背中に冷たいものを感じたので振り返ると彼女の白い腕だった。目の前に赤いチューリップが咲き、その香りを聞くと、好きよ、耳の奥がくすぐったい、あなた恋愛の経験は、二秒後に彼女が耳に触れてきたので言葉を選ばなかった、嫌いではないよ。何度目かの既視感、しつこいダ・カーポに多少ウンザリしながら女の首筋に顔を埋ずめると、急に歌い出して、何の曲か当ててみて、もっと高い声を出したらね、欠伸をしながら答えると、笑いが止まらないようだった、正解、二十年前のアニメの主題歌だった。

 ピアノ科ではラフマニノフを弾いていたらしい、第三番、その才資は二十四には栄華を極め世界に名立たる演奏家としてホテルを転々としていたが、七年後の現在、誰の耳にも届こうなんてことはなくなった。渋谷のレストランで週二回、腹の音に負けないよう鍵盤を激しく叩きつけて、行く末は場末のピアノ教室の先生だろう。休符、酒が零れた、昔、こんな美しい曲があったの、モリヴェールの花たち、湖畔に咲く永久の宝、ベッドの下の楽譜を弄り出し、床の埃こりとズブロッカを靴下で拭いた。開き、軽く指で膝を打ち付けて鼻歌を披露してくれた。耳に残るリズム鼓動、たおやかに伸びる四肢そのメロディ、金魚の尾ひれのような唇が、そそっと残酷な言葉を吐く、愛なんて知らない、その響きに、その一滴に、彼女を抱きしめざるわけにはいかなかった。

 沈む間際の夕、追随して流る雲、凪に時刻を聞くと、昼を盗まれた、何億年ものあいだ我々を迫害し続けてきた時間は、ここにやっとゼロの安息を許しめてくれた。明日の予定はない。明後日もその次もずうっと、ただゼロと一の狭間で、この調律士にドとレの違いを確かめるだけだった。

 残りのズブロッカが寂しくなったので女の膝で泣くことにした。最後に音楽が聴きたい、私はね、左手を怪我したの、もう治らない、ピアノも売った、男も捨てた。なんて嘘、捨てられたのよ、左手で前髪を抑え、即興曲が終焉を打った。この題名のない曲に似つかわしいタイトルを付けるとしたなら、もう二度と帰っては来ない青春を惜しみ、スカンジナビアの青い春、海、遠く桜を浮かべ、トランクにはウォッカを、波に強がりを言い、彼方、白い水平線に、静かに静かにさよならを。




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