第26話 良く晴れた日のベランダで

文字数 1,440文字

 暖かさ、欠伸が出る。オーストラリアでは真夏にクリスマスがある。北極の白熊は昼だか夜だか分からないでいる。リオデジャネイロのカルナバルは一年に一度、来年には行こう。シルクロードの長旅にお財布ほど時間の意味のないものはない。だから飛行機でひとっ飛び。地球を一周してここに戻ってくるのにどちら回りのが早いのか、高名な学術家は眠たい話をする。どちらでもいい、あの人に逢えるのなら。

 花束の数を自慢する。ピアノは春秋、フォルテは夏、冬ぐらい熱い珈琲に休符を混ぜて、ダ・カーポ、幾度となく愛する人、私に音楽を止めさせるひと、捨てないで、ティッシュや空き缶を捨てるように朝を諦めないで。今日は家にいよう、明日も家にいよう、明後日も家にいよう。そして、でも枕に匂いを残さないで。

 ピアノソナタ、もう指揮者はいない。無理強いにでもピアノを聴かせるにはどちらを向いて弾けばいいのか、目を覚まさせるにはどの時間帯が程好いのか、何もかもが分からないまま、ウォッカを、決めたことは通す主義、のんで、あの夏の言葉が冬に喉に胸に焼き付いて、愛する事も拒絶する事も、もう私の物ではなくなっていた。そんなもの。

 恋人?いた。しかし季節が過ぎるように、北極と南極が廻り逢う事が無いように、でも同じ寒さ、いつか途切れる物語が、ここぞここぞ、見苦しい暖かさを私に教事すると見送りに来た。心変わり?引越しの際に持ち歩く物が少しずつ増え、壊れた物から順に捨てていった。あの春?あの秋?優し過ぎた手持ち無沙汰の冬、遠過ぎたあこがれの夏、楽器がとち狂った。ソを弾いたはずなのにラが出た。ダメよ、いけない子。子供の頃、あのオルガノ、高揚するリズム、言葉多めの拍手、懐かしかったテラス、覚えの無い落書き、独り歩きする夢、小さな頃の夢は何だったのか、それも叶え淡く、ボーイングの轟音、こんなもの?若草の調べ、ラフマニノフは本当は弾きたくなかった。重ったるくて厚ぼったくて敵わない。情熱の風化、いつもと変わらない朝、珈琲を沸かし、そのコポコポ音に鼓動を合わせると胸が苦しくなった。「達磨さ、んが転んだ」

 飛行船がビル群の上を旋回していく。ふわりふわり。変わり者と呼ばれるのにも慣れた。耳には幼少時の何処かの母親の子守唄、休め、隣の家の乳母車が羨ましくて恨めしくて、あの子の鼻と口にそっと手を当てるだけで、自分の醜さ、後ろめたさ、欠伸が出るよ、欠伸が止まらないよ。

 「モリヴェール」、死んじゃった者たち、レストランの聴衆、いつもと変わらない、何も変わらない。だけど弾いている曲が私に呪いをかける。早く来い、お腹が空いて、左手が悲鳴を上げる、朝、家路につき、無駄に買ったアクセサリーを全て取り払った。今日は?取材?何も変わらない。日曜日、隣の家から子供の笑い声が聞こえる、ベランダに出て洗濯物干し、通りには知らない人ばかり、隣室の夫人があの子を抱えて出て来て、
「今日も良いお天気ですね」なんて言うから、言うもんだから、
その赤子に向かって「そうね、今のところは。あなたも分からないわよ」
ダメよ、それ以上当たり前に優しくしちゃだめ。風が強いわ。だから早く子供を帰して。私の子どもを返して。

 世の中は美しい。交通事故で死んだ彼氏、私のマリオネット、抱き締めたらバラバラに壊れちゃった。もういらない、嘘よ、イジワル?ただ弾いていればいいの、ベランダだろうが空だろうがそのもっと遠く、玄関のチャイムが五月蠅くて、ああ、あ、なんか、なんかなあ、って。



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