第16話 ささやかな願い

文字数 615文字

   トロイメライ


 バスの中に忘れ物があった。私は夜学の帰りに市営バスの掃除と広告を張るバイトをしている。彼氏もなく、親もいない。学費には奨学金を当て、生活費を稼ぐ為、夜な夜なバス車庫を見回って朝には出涸らしの珈琲を飲む。忘れ物はポーチだった。何の飾りも無い真っ白なナメ革のポーチ。開けて見ると中には、折り畳まれた五線譜、誰の物か分からない。使っている人の判る痕跡も無い、真っ白なポーチ、逆さに振るとコツンと一本のルージュと未使用の整理券がひらひら落ちた。高価そうなルージュだ。私はこんな物、一生使うことがないんだろうな、ポケットに仕舞った。足元の五線譜には興味がなかった。ロックンロールではないな、整理券と一緒にゴミ袋に捨てた。一生誰の目に触れることもない、記憶の深遠の更に奥へ、焼却炉、粉煙、経済カオス、行き着く先に、もう、やめよう。その後ルージュはポケットの中を温め続けた。ここぞここぞか、つかうところもなく、返すこともなく、短き永遠のキャンパスライフ、私の小さな愉悦感を窓ガラスの薄影にたゆらせていった。小さな小さな贈り物。いつか出会うかもしれない持ち主へ、ありがとう、私の人生、恋をするなんてこともあるのだろうか。結婚して子どもも出来て、もし、もし幸せなんてものがそこに見つかったら、手持ち無沙汰の折にこんな物を唇に飾ってみよう。バスにはもうそれを最後に何も残っていなかった。そして明日も明後日も様々な町々を走って行く。



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