第4話 缶コーヒーの温度

文字数 1,708文字

 新宿の風俗店街の路上で目が覚めた。酔っ払ってホステスにちょっかいを出し、そのヒモのチンピラにこてんぱに殴られ、幾許かの失神の後、気が付くと耳鳴りがして、真冬、薄明かりの東京の空に、凍え、もう動かない身体をそのままにしていた。死ぬのだろう、通り行く人々はスローモーションで踵を鳴らしていく。待てども救急車はやって来ないが、その、そういう風情の街が好きで実家からの文も執拗に破り捨ててきた。定職もなく、確か明日は映画館で寝惚け眼で映写機を見張る仕事だっだ。その次の日は一本の缶ビールと暇という職を担う。

 今一度の眠りに就こうとしたところ、耳の隅に鼻歌が微かに聞こえてきた。目の前で途切れ、
「お兄さん、立てる?珈琲は口に合う?」
あたたかかった。缶コーヒーを啜る音が彼女のせりふを邪魔しないか杞憂し、控えめに喉から胃、指先に徐々に生気を取り戻していった。彼女は手を擦りながら
「寒いもんね。こんな所で寝てたら死んじゃうよ」
「死ぬのもいいさ。家に帰っても誰も待ってるやつはいない。前にテレビで見た顔だ。週刊誌にもう一つネタが増えるな」
彼女は咳き込んで、吹き出して笑い始めた。

 笑う口を抑える左手にはブレスレットが高価そうで、その嫌味な輝きの陰に大きな捻じれた傷跡が、何度も何度も切り付けた傷跡が、ふと胸苦しく気持ち悪くその場で吐いてしまった。背中を擦ってくれたが礼も言わずに去る、この街の暗黙のルールだ。いつかまたこの辺りで顔を見掛ける事も在るだろう。その時には強めのバーボンのダブルでも知らない人の振りをして押し付けがましく奢ってやればいい。そして繰り返すのだ。ガードレールに半分身体を預けながら帰った。それも幾日幾度目か分からない。

 数日経つも左耳に違和感が残っていたので医者に行く。医者には、もう治らない、と宣告された。しかし日常の中の更に日常と考えれば、今、退屈にレコード屋の前で足を止めるのも、ジャズ喫茶が静かで居心地の良い待ち合わせ場所になったのも、特に当たり前の日暮らしに相違は無かった。非現実、は「東京」では、その色合いがテレビで見るより他とは少し変わっていた。音にも色が付いていた。

 たまには渋谷のバーに顔を出す。その後、行きずりの女にせがまれてピアノの聴けるレストラン、店構えに気負うも、財布から泡水の流れ行くのを週に一度は覚悟していたものだから、アマレットの紅茶割りで甘い言葉を模索しながら、女の満腹のゲップと自分の腹の音を右耳で、低音と、更に低音に聴き分けた。その間も知らない曲ばかり延々と流れ続けた。

 迎え酒とあまりにも穏やかな曲調に気が滅入ったのでトイレに向う。酔いのついで、途中グランドピアノを蹴っ飛ばしてやろうと思ったが、やめた。見たことのある顔だった、ピアニスト、店員を呼びつけて、ぎこちなくお返しのバーボンを、鍵盤の端にはドレミの音が増えた。それに合わせてくすくす笑いながらエチュードに入ったので、店内がざわついた。あっと言う間に弾き終え、
「そう簡単には死なないものね。胃薬は持ち歩いてないわよ。」
「ピアニストだって言ってくれれば今日はそれなりの格好をして来たのに。」
彼女はバーボンを一息に飲み干し、
「火曜日と土曜日はここにいるわ。燃えないゴミの日よ。」
そして分かり易くげっぷをして見せた。

 この曲は?ラフマニノフの第三番。用足しの後、テーブルに戻ると待ち草臥れた連れ合いがワインのコルクを小さく毟りながら、
「友達が多いのね。」
「ああ、ちょっとね。」
 帰り道、薄暗い朝もやの中、連れに二の腕をつねられたが喉からはあまり高い音は出なかった。財布が軽くなったのに更に軽くしようと二十四時間営業の服屋で正装を一着あつらえて、女をハチ公に預けて帰った。

 週に二日、金を払ってピアノを聴いている。金を払う客だから無論お礼も言わないし、呑んだ暮れには心よりの挨拶をする店員も少なくなっていった。そういう東京が好きだった。自分はその一部に恥ずかしくないやさぐれでいようと決心した。今日も何処かで誰かが腹の音を、心のうら寂しさに叫んで、騒音の入り組んだ雑踏の中にそっと耳を澄ませる回数が徐々に増えていった。



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