第19話 探偵ならざる者

文字数 2,123文字

 見つけたものに見覚えがあった。そして今は行方知れず。よく在る事だろう、昨日使った鏡がポケットの中から見つかった。そしてそれを投げ捨てた。駐車場の鉄柵の向うの方に。

 見つからない。昨日探したのに見つからない。そうだ。あの男、あの女、女は部屋から滅多に出やしないが男は部屋から楽器を持ち出す。見栄って奴なんだろう、音源の出処は彼方知らず。我々の言葉で言えば「行方不明」や「失踪」と自分の不甲斐なさを恨む。今思えば滞りの多い仕事だったかも知れない。謂れの無い苦難・苦情の多い仕事だったかも知れない。しかし成し遂げた満足感はあった。しかし今はやはりやりきれない仕事であったとは思う。

 今日の手帳には「東京巡り 浅草にて雷門の底をつつく 寒くなり近くのコンビニへ 珈琲には缶の冷たさが残り、成年誌の裏表紙に退屈で、見上げると薄暮の東京タワー、楽器店で時代遅れの器具にさえ乗り遅れ、足が迎える紺碧の絨毯に鏤められた宝飾に、考えれば考え切れない同伴人の帰り道、ドアの閉まり、窓を見上げると一人残された自分が今日も無駄にした時間を悔やんでいる」

 業界紙専門の探偵[情報屋]である。業界紙、と言えば聞こえは良いが広く扱うゴシップの煙を炊く仕事だ。しかし誇りを持って仕事している。常に死と隣り合わせ。その平常に慣れてしまえば蜜の味も更に甘みが増す。だが今回ばかりは出涸らしの茶よりも口が渇き、その先の喉や胃には重苦しく、吐いて戻しそうな胸苦しさが始終絶えなかった。
 そう、例の気違いピアニスト。他人事だ。そういう仕事だ。しかし追憶すればするほど彼女の痛みが自分にも伝播するようで、雨の日には古傷の痛む、晴れにこそ鬱なれ、この商売の悪名を自分の過失と疑わざるを得なかった。

 人通りの多い繁華街、千鳥足で歩く女。顎で国を動かしたあの男の娘だ。その確証を得る為の尾行、他にペテン音楽者や風来坊のマエストロ、貧乏この上ない親子、しらみつぶしにリポートをしたが、確固たるはその誰もが隠し事をしていないことだった。「ここだけの話」や「此処までは分かるけど此処からは分かりません」。
 だから何が証拠で何が偽証なのかさっぱり分からなくなった。だからこの請負もなにがしか空腹に応えるものではない。ただ自分の知らず仕舞いが腑に落ちなくて、寧ろ自分の影に何か見落としがないか、スクランブル交差点の真ん中でぐるりと身体を振り返しても、視界の遠慮無さに吐き気がする、昼夜なく、絵画なぞも愉しめない。

 いつか探偵が探偵のフリをしてレストランに食事をしに行ったことがあった。
「2月3日 ディアボラ風ハンバーグステーキ ディナーセット 2980円 高くも安くもない 空腹にぐうの音 下手っぴなピアノ 襟の曲がったずっこけのギャルソン パラダイムの愉悦は今日で了い」
彼女に別れの挨拶をしようと中央のグランドピアノに向かい、皆がいつもそうするように鍵盤にグラスを置いた。
「こんばんは、お嬢さん。今日はもうそろそろ帰ろうかと。」
「残念ね、いつものお兄さん。今日は髭が素敵。こないだは目深帽、サングラス。風邪は治ったの?そうかあ、帰るのかあ。ここからの得体の知れない曲に興味の在りそうな顔してるけど・・・」
咳払いを一つ。
「その曲の題名は?」
「それが笑っちゃうのよ」
可笑しくて堪らない様子で、分からない、と肩をすくんで見せた。
「自分の出生の秘密、と言えば心当たりはないか?」
「それはもう大体知ってるわ」
ポロロンと指が転がった。そして喉に息を溜め、呼吸をゆっくりしながら戸或る曲を弾き始めた。知らない曲。だが懐かしみを感じ心落ち着く曲。店内は静まり返り、一切食事の邪魔をしない、心地の良い曲だった。

 「2月3日 多国籍料理店 パラディソ チケットは一枚 財布の軽さと罪の重さは反比例する」
彼女は弾き終えた。役目という役目を終え、只静かに何かを待っている。私には小洒落たライターが重荷で、それを床に置いて帰ろうと、ありがとうの言い訳をポケット中探した。彼女は笑って、見つからない、どこだ、ギャルソンが「こちらをお探しですか?」、いや、何ね、味のするほうの物が、それに興味をなくしてしまって。

 彼女は顎に指を当て何か良い事でも思い付いた様に
「探偵さんね?そういう格好をしているわ」
「三十分前に時間を巻き戻すと、助手のワトソン君が腹を下したと帰ったモンで、明日からは一人で四中六中、街を鼻唄で散歩するといったモンです。ではこれにて」

 帰りの地下鉄の車窓には見知らぬ男が映っていた。声を掛けるにも気恥ずかしい、幾度となく忘れ去ろうとしてきた形無き真実への亡者だ。

 或る日のスポーツ紙の三面記事に
「55歳女性 孤独死 長男行方不明」
もう私の仕事のアイデンティティを揶揄するに、その何処ぞへか去った青年を探すお節介は友達の友達に自分の顔見知りを紹介するように億劫な面倒臭さを感じた。あの曲は?背中への恐怖を人から譲って貰い、知りたがりの世間を退屈させる生活を送ろうと警察に幾つか在る自分の捜索願いを提出した。「完全不在証明」は此処に立ち、自由に気兼ねなく純粋に音楽を、愉しむ、当たり前の日常を、やっとのことで手に入れた。



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み