第18話 まっさらな野球帽

文字数 1,689文字


 あの子達は本当に仲が良い。同じパンを買うし、同じジュースを買う。彼氏の方が払うこともあれば、彼女が払うこともある。そのことに気付くのはこの老婆だけではなく、女子学生や男子学生も羨望と嫉妬をごちゃ混ぜにしている。
「二人は結婚するのかえ?」
悪戯冗談で聞いてみたら、二人して恥ずかしがって彼氏の方が
「野球選手になれたらね」
と言葉尻を浮かした。やつは万年球拾いだったのに。野球グラウンドの外野は音楽室の下にある。音楽に興味なんて持たなかったら真面目に練習もして、ベンチ入りぐらいは出来たろうに。これを老婆心とでも言うのか、
「じゃあちゃんとネクタイ締めんといかんね。」
浮き足立つ気持ちをきちんと地に帰してやろうとした。利発な彼女は
「似合わないわよ。ずっと制服を着られればいいのに」
夢見心地もここまでで、明るい未来を持つ将来ピアニストは、別にサラリーマンでいいよ、と彼氏の才分やちょびっと毛の生えたプライドを根こそぎ面倒見る、そういう見解と覚悟を示した。まだヒヨコの彼氏は意味も分からずに
「オバちゃんも式に呼ぶからね」
その時は甘い缶コーヒーを買って帰った。後で気付いたが賞味期限切れのやつだった。

 放課後も、部活の終える時間になるまでは人も通らなくて閑になる。閑古鳥の代わりにいつも聞こえてくるのは遠くからピアノ、独奏の段ではとことこ歩きにでも出る。一回りして帰って来るとパンが無くなっていて代わりにお金が置いてある。お腹が空くのと恋が終わるのはどちらの方が早いか、三年ずつ、日々の移ろいが老眼鏡の歪んだ視界を通り過ぎて行く。球拾いの坊やはせっせと白球を拾い、白鍵の埃を楽譜で払うお嬢はいつも窓を開けて演奏する。暮れ難い夏の日暮しにはなだらかな曲を、冬の唐突な寒風にはテンポの区切りの激しい曲を、春には「別れの曲」、飛び越して秋に思い出し、いつもの何たらって訳の分からない聴くにも小難しい音楽を披露する。

 わたしゃあ、いつまで生きるのか。こうして売店の窓から青い空がその先に散り逝って行くのを、何べん眺めりゃいいのか。たまに卒業生が遊びに来るが、記憶もとんと悪くなって、
「あの曲を聴いていると思い出すよ。あんたたちゃあ喧嘩ばかりしとったね」
惚けるのに卒業式のことを話し出す。何処でも同じ、ありふれた光景、それよりもちょいっとばかし記憶に残る、冬に無理やり追い出された居処のない春があった。

 彼女はその冬からずっと部活を離れてソロを練習し始めた。熱心に熱心に、素人が聴いても分かる、上手下手の評価の幼稚さが、耳の遠い更に聞こえづらい雪の日にもそれを溶かす、風化寸前の老婆の文化への向上心を時めかせた。練習は夜まで続き、明かりが消えるまで、自転車置き場で一人ぼっちの彼氏を見て見ぬフリをしていた。急激に視力も落ちてきていた。

 その日は特別に暖かく、緩やかな風、陽射しが頬に少し痛く、目を細めるとそのまま眠ってしまいそうになるような陽気だった。体育館からはショパンの「別れの曲」。誰が弾いているかもすぐに分かったが、誰の為に弾いているのかもすぐに分かった。弛まなく流れる眠気に逆らうことなくいつもの思い出し笑いの数を徐々に減らして行き、椅子に身体を預けたまま曲に酔って眠った。

 目が覚めると売店のパンとジュースが全て無くなっている。老眼鏡を掛けると、汚れの無い真っ白な野球帽に数え切れない小銭が入って置いてあるのを見つけた。どうやら卒業するらしいが、無駄な銭は遣わんと。一生分の思い出が甘くも辛くも、お腹がいっぱいになるようなことなんてない。腰が痛くてがくりがくりと立ち上がった。目がおぼろげに覚めて、わいわい騒いでいる卒業生達を数えた。数え切れなくて諦めて、ラジオをつけて目を瞑った。誰かがパンを二つ欲しいと買いに来たが、パンは無いと瞼の向こうに告げた。

 春のグラウンドの隅にはまた新しい蕾が芽吹く。桜にうずいて、いつもの陽気な曲が耳鳴りし、思わずうとうと、この二年後、彼女はとあるコンクールで世界的に有名になる。球拾いの坊やはちょいとばかし裕福な家の娘とお見合い結婚をしたと風の噂に聞いた。



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