第23話 才能に毒杯を掲げて

文字数 1,664文字

 この女の子はまだ未熟だが、一年後には、何か、全く別のものに化ける、そんな才覚を感じさせる、音楽性、三十年以上ピアノを指導してきたが、ここまでの子は他にはいなかった。
 東京と言えどのんびりとした大学環境で大きく包んで育てたい。そして私はそれに携われるのだ。いやしかし未だ音楽にムラがある。日によって波がある。ここは一度、精神の成長も面倒を見てやらねばなるまい。

 そう確固たる自信を持って彼女に教会や公園の奉仕活動に向かわせた。人を知り人生を知り、世界を知り、自身の音楽とその価値観を身に付けさせようと考えたのだ。それがそもそもの誤りだったのか、失敗は成功の始まりだったのか、そして芸術を、ただ美しいだけのものとは考えない熟練した指導員の遣る瀬無さが、今はただ残る。

 何度か一緒にボランティアに付いて行った事があるが、私は何て事をしたんだ、そう思った。只のイベントのような仕事かと思えば、彼女はマリアのように崇められ、勿論、その演奏の為ではあるが、公民館、児童養護施設、老人ホームのみならず精神科病棟や刑務所、悲しみやどうしようもなさ、小さな幸福や、荒々しい世の中の掃き溜め、弾く意味のない施設や下劣な悪意にも負けず、彼女はピアノの在る所なら何処へでも、使命感のように足を運んでいた。
 情緒の平衡感覚が壊れるのではないか心配したが、それも通過儀礼の内で、彼女の音楽が或る一定の力強い方向性を持っていったのも耳に確かに覚えた。

 それから三ヶ月もすると、真っ昼間、彼女が大学構内をうろうろしていて、何処へ行くでもなくゴミ箱を開けたり、守衛に詰問しているので声を掛けると
「私のピアノは何処にあるの?」
と聞いてきた。
勿論答えは
「ちょっと付いて来なさい」

 知り合いに精神病臨床医師がいて、電話で訳を話すと、すぐにでも連れて来い、と言われた。車の中でも待合室でも、彼女は眠っているのか、眠れずにいるのか、此方も良く分からない言行動が多かった。珈琲を与えたが投げ捨て、バッグに持ち歩いていた楽譜を渡すと夢中になってペンで編曲していた。私の書いた曲が全くの下手糞だった事に気付かされた。彼女はカントルとしての才も持ち合わせ、本人も未だ知らず、気が付けば音楽界を如何様にも変えられる。この時はまだ胎動、予感、して、いつの日か確信に変わり、私が教壇から降りるのも遠くないな、だから今回の件は大規模な損失と明るい未来への契機、私はドアに隔てられた自分自身を見限った。

 医師は彼女の様子を見て、私から経緯を聞き処方箋のみカルテに記載した。
「どうなんですか?」と尋ねると
「精神病に正確な病名など無い。只在るのはその子と同じように解釈だけだ」
「ずっとこのままなんですか?」
「魘されるように音階を口ずさむんだ。その時だけは癇癪を起こして物を壊したりはしない。今の状態から診断するに音楽療法以外に最善の策が見つからない。とりあえず入院させて、私が話を聞いてみよう」

 オタオタする私は彼女だけを置いていくのに申し訳なく、駐車場の車の中で過ごした。彼女は強い安定剤を打たれ、三日は目を覚まさなかった。そしてその三日間、私も全ての社会生活を放棄した。

 三日後の朝、彼女が目覚めたと連絡が入り面会に行くと、あっけらかんとした表情で

「先生、学校は?私は大丈夫。ぐっすり眠ったから。ネクタイが曲がってるわよ。」

 ほっとした。しかし医師が言うには、「今は落ち着いているがもう治らない持病のようなもの、このハンデを音楽に生かすしか彼女を立身させる方法が無い。ピアノを与えなさい。そしてしばらくは彼女が自分の為だけに音楽を愛するように仕向けなさい」、白衣が偉そうに手下どもをぞろぞろと連れて去った。

 この後、私は大学をクビになった。退職金の一部で病室にヘッドフォン付きの電子ピアノを一台贈った。彼女は、
「先生ありがとう」と部屋中をスキップして喜んだ。
そして微笑みながら鍵盤をなぞった。曲を弾き始めたが音が聞こえ無くても何の曲か判った。ベートーベンの「エリーゼ・・・」、自分の為に。



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