第10話 姉に母に夕焼けに

文字数 3,877文字

 どうやら僕には姉貴がいるらしい。そう聞いたのは中学二年の春だった。母親はシャブ中で、まともに話す事といったら知っちゃあいけない政界のスキャンダルと、もう逢えない男の話。
 どれだけその男のことが好きだったのか、知りゃあしないが俺に取っちゃあ臓腑の奥底から憎むべき、母親から母親のプライドを奪われたことで息子の分もなく、アルバイト代がクスリに消え逝き、親父、が死んだら死んだでパパラッチからつまらない取材費を稼ぎカップラーメンをズルズルすする。

 今となっては秘にこそうちの姉貴のことは漏らさず、人並みにシアワセに歳をとっていく自分を讃え、あの儚き最期の演奏に耳を閉じる。

 レストランの話を知った。渋谷にあるピアノの聴けるレストランだ。バイト先の工事現場で機械と地面のぶつかる音が五月蠅い中、ワゴンで休憩中にたまたま手に取った雑誌に小さな記事、

「リストランテ『パラディソ』
 いつしかの春の足音は此処に在り 」

 夏汗に額をふやかし、二時の休憩時間に空行くボーイングを眺める。嘆くには煙草のしなしな、今日も明日も続く、明後日も続く、彼女の運命の道しるべは姉だからという訳ではなくも、血に慰め難いことであった。

 父には言った。墓前でケタケタ大笑いする母親を見せつけて、
「父なら、本当の父なら、早くぼくたちのことも許して、金でも権力でも暴力でも何でもいいから、ぼくたちを光や人の目の届かない安息の地へ、早く連れて行ってください。どうかどうかお願いします」
 高校二年の冬だった。早く大人に成りたくて、成れなくて、ゆっくり季節が巡っていく。退屈な日曜日、母は墓地の中でストリップを踊りだして、持って来た花たばは寒さに干枯らんだ。もうジタバタしたかった。腹の奥から憎悪が膨らんできて、真っ黒になっていく。父さん、今日はお姉ちゃんがピアノ店で暴れて警察に捕まったよ、新聞に書いてあった。独り言は幼い自分の、親への不慣れゆえ甘え下手だった。

 朝起きて、雀のお喋りに鼓膜から奥、脳をつつかれて顔を洗いながら考えた。お姉ちゃんに、姉に、あの人に、逢いに行こう。面と向かっても知らない顔をされるだろう、母が言うにはあの人はぼくたちの存在さえ知らないらしい。つい一昨日、公然と酒を呑める歳にもなった。公然と姉に会いに、公然と食事をしに、何の気のはばかりもなくピアノを聴きに。

 当たり前だが、はじめまして、って言おう、もしあの人が怪訝な顔をするなら僕の自慢は目と鼻の形なんです、って顎をくいっと上げて見せよう。買い溜めしたカップラーメンも一晩に済ますような、出来る限りの豪華な食事をしよう、衣装は、昔買ったブレザー、これでいいか?、昨夜の深酒に苦しめられる胸苦しさも一気にスッキリして、歯磨きでえづく回数は体調が元に戻ってきている、元に戻っていく過程だ。

 財布には給料日後なのに五万円。母には出来合いの弁当とお茶、何か遭った時のために電話の場所を教え、壁に大きく自分の携帯電話の番号を書き残した。

 母がお昼のワイドショーに釘付けになっている。家を出よう、渋谷って街で迷いはしないか、お金は足りるか、一切合切の杞憂を電車の車内で吊り広告を眺めながら、派手な色彩が多いな、今日は特別な日になる、雑踏や騒音、全て乗り越えてレストランの敷居の高さが自分にだけすごく低くなればいいな、そんな特別扱いもない事も身の丈も飲みこんだ。

 夕方、ハチ公像は期待よりちんまりしていて、取り囲んでいる路上喫煙者は誰かを待っていると言うわけでもなく、以前の私のように一秒一秒過ぎるのを恐れているかのように地面に灰と吸殻をとっ散らかしているように見えた。

 開店時間にレストランに着くと早速ピアノが聞こえてきた。店員が席の案内をしていたが頭に入らず、しどろもどろに
「ピアノに一番近い席で」と言うと
「気間違いの物好きは貴方で丁度百八人目です。これからはピアノの上に料理を並べたり、ピアニストに合席の許諾を求めることに為るかもしれませんね」
嘲笑には半分鼻の高いブルジョアを示す優越感も混同されているように見えた。こちらの小さな憤りに輪をかける店員様は
「一見さんから二見さんまでは天井桟敷とでも言いましょうか、ワイン倉庫の手前のテーブルに案内するように指示されています。理由は言いません。」

 彼女は僕のことを何も知らない。彼女の自殺未遂後、父の名だけは新聞の一面を飾った。しかし僕たちのことは一銭にもならないからだろう、何も触れられてはいなかった。彼女とは初対面だ。だから最初の挨拶は出来るだけ他人行儀に失敬に当たらないよう演奏と演奏の合間に済ませる。最初の電気ブランがコースターに着地したと同時に彼女の演奏
―――猫踏んじゃった―――
が休符した。

 ここぞと思い、グラス片手にピアニストに近付き
「はじめまして」
「ええそうね。でも初めて会った気がしないわ。どこの?」
「テレビ画面の向こうとこっちです」
「あら、そう。新聞の勧誘の人かと思ったわ」
ウェイターがハイボールを彼女に持ってきた。
紙のコースターには次のリクエスト「即興協奏曲 ショパン」。自分の名前を言えなかった。苗字も違うし、共通の話題も無い。一心不乱にピアノをなぞる彼女は遊歩道を独りで歩いているように鼻唄混じりで三分間を弾き終えた。言えるものか、弟が一筋の光明に縋り、初めての家族らしい家族を持とうと思われるなんて、この自尊心が許せなくなってきた。

 席に戻る。グラスが浮いたまま、グラスは空になり、満たされ、また空になり、いつかグラスに注がれる。煙草は春に芽吹き緑緑しさから憎まれ、干乾びて、そのうちカラカラの葉っぱから煙に為って空にもや消える。それと同じようにうやむやの過去も未来も空高く風に、高く、消えていく。

 それなのに、それなのにその元在った重い荷物を押入れのガラクタ箱から、人通りの多い駅前のコーヒーショップの入り口前に引っ繰り返すのは、常識人として、社会人として、ああ、やっぱりこの凡凡人人にはとても出来やしないことだ。壁が途方もなく高く広く自分を取り囲む。

 明日も早い、お腹もいっぱい、帰ろう。エントランスは向こう、電車やタクシー、バスも使わずなるべくゆっくり歩いて帰ろう。自分が付けたテーブルカバーのソースの滲みがこの場を離れたい気持ちを全身に漲らせた。何でここに来たんだろう、もし僕が今日ここに来なければ、若しくはもし姉に本当の事を告げられたなら、いい、僕の勝手だ、勘定を済ませ席を立つ。

 姉よ、弾く事が運命ならば弾いてくれ、僕はもう此処へは来ないし、父や母を怨んだりはしまい。だから貴女も決して幸福を諦めてくれるな。

 席は基本、従業員が決めて案内するものだから、余興目当ての客には納得の行かない輩もいるだろう。私がエントランスからドアを開けて出ようと、扉のベルのカランと乾いた音を鳴らした。すると同時に店内で店員や客、総まとめで大乱闘が始まった。しかし彼女は割れるガラスや飛び交う皿の中もピアノを弾き続けた。それが、何なんだか分からないんだが、姉は何ゆえか楽しそうに。

 その周辺だけスローモーションで別次元に取り残されているような感覚が視覚に薄ら膜を張った。罵声や食器や乱暴者、乱雑になっていく店内で彼女の周りだけ超次元的な力の働きで物理法則を無視した安全地帯になっていることに気づく。穏やかに演奏が続けば続くほど次第に罵声も沈んでいった。して皆その場に鬱した。誰かがピアノの上にグラスをそっと置いた。「この曲は?」

 店中の誰に尋ねても正解はなかった。うちの姉はピアニスト、音楽家なんだ。調律士もピアノ教室の先生も出来るだろう、でもピアニストなんだ。そうだ、今日は姉に会うためにやって来た。意を決して、彼女が楽譜を別の物に代えるタイミングで近付き
「あの、僕は、貴女の、弟なんです」
「あら、それは嘘ね。でも信じるわ。鏡が湯気で曇ったように見ればそうなるかもね。お母さんは元気?」
髪を掻き揚げる、この人の左手首に目線が行き、慌てて逸らして、
「元気ですよ。毎日笑って過ごしてます。」
「また来るよね」
「近いうちに」

 『あの曲』の価値が分からない。音楽の授業をもっと熱心に聞いておけばよかった。仕事柄、聴覚に自信がない分さらに分からない。ただ彼女があの店をクビにならない理由は分かった。

 帰り道、妙な胸騒ぎが起こった。幼年時に感じた自身の欠陥を半ば諦めて、家に帰れば暴れる母が、帰りたくない気持ちでいっぱいになった時のどうしようもなさに似た空回りする焦燥感であった。ポケットに手を突っ込んで歩く癖がある。家の鍵を握っていると何故か落ち着き、日常の嫌なことを忘れることができる。そしてその一瞬の安息も次に掻き消しがたい不安に変わる。


 朝方家に着くと母がテレビを付けっ放しで仰向けに寝転がっていた。胸の上で手を組んで眠っている。声も届かない。長い長い夜を過ごしているように静かに冷たく眠っていた。昨夜はぬるまるい肌寒さを感じた。穏やかな寝顔の母に昨夜のことを話した。それは以前墓地で、お天気雨の中で花柄のワンピース、踊り狂う母の姿を思い出し、その時、父に向かって独り言を言うのと似通っていた。
 煙草に火を灯す。ぽうっと薄暗い部屋に僕が独り居ることをささやかに明義した。ハッピーバースデイ―――仄かな幸福にしがみつく中、そっと、安息の息で煙草を揉み消した。

 小学校からの帰り、息を切らし声を弾ませながら、
「母さん。今日の夕焼けは真っ赤っかですごくキレイだった。」




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み