第3話 えめらるどの海

文字数 1,947文字

 晩食後の茶饅頭が喉に詰まって、目を赤くして半分咽っ込み、生きるか死ぬかの境目でピアノが流れた。「ピアノ」というのもその楽器の類なのか、音楽の種なのか、判然としないまま半世紀と半過ごし、気が付くと喉のツカエが取れ、意地悪な饅頭は渋々胃の中の一部に落ち着いた。隣の老婆はチャンネルを変えようとしたが慌ててリモコンを奪った、テレビジョン、街頭テレビに熱狂した頃、電気屋のモニターの前で立ち止まり、箱の喚くのにうるさく扱い方も判らないままで、ふとして今日、この機械の有能性を初めて理解した。

 「あああ、こんな素晴らしい『おんがく』は聴いたことがない。」
居間のテレビを見ながらワシがそう想った三日後の夜に彼女は自殺した。死に切れないと未遂に終わったが、それでも気が気でなく新聞社に電話で問い合わせをした。新聞社は既実を再度掲載した。電話向こうの敗戦放送に似た単調な口合いは懐かしい友人達の顔を浮かばせた。

 数日経っても耳鳴りが鳴り止まず、胸騒ぎの影に茶柱が揺れ、スキャンダル紛いの情報番組を観ながら隣の四十年連れ添いの婆に、
「何か言ったか?」
と尋ねると
「何も言っとらん。」
と答える。
 鼓膜や耳鼻神経が老衰したのか、しかし惚れるに値する音楽であったことは無学な白髪にも手に取れた。社会に於いて無駄を超越する旋律だと実感した。春だ。音に佇み、茶飲みや座談が覚束ないのも愛嬌の内とこの歳で思える。かの曲は哀悼するようにアチコチで流れた。ウキウキしてチャンネルを回す、電波が悪いのか、耳が遠いのか、茶托のお茶を溢したのも、それに気付くのに遅れたのも、その時はその美しくてやまないピアノってやつへのやっかみのせいにした。ラジオ機もテレビも何も悪くない。

 ほとぼりが冷めた頃、彼女にファンレターを書いた。些か恋文の様になってしまったが、鼻には引っ掛からないだろうと思い、切手をさらっと舐めた。婆が午後の散歩に出掛けるのを見計らってサンダルを突っ掛けた。抜けたように青々とした空が、それまでの暗雲を遠く昨日までの淡い、追い払うように、破廉恥さに年甲斐もないと、窮屈な日照らいに小さな赤いポスト、手が震えるが妻との初夜よりも緊張の慎ましさが無く、

―――ワタシはいたく感動しました。うつ世の末、沖縄に発った友人達への土産にします。字引きから「アンダンテ」と言う言葉を覚えました。歩く早さでは貴女には敵いませんが、貴女の足音をいつか消えてしまうものと、恐れ、自分の余生の概算の合わぬのに、自分でもピアノ曲を書いてみようと思っています。―――

 一週間後の返信には五線譜が山程付いて来た。

―――もう必要の無いものと想い、もし貴方の家に空き部屋が在るならピアノを引き取ってはくれませんか。只という訳にはいきませんが、送料はこちらで持ちます。必要以上には音楽に未練を残すのに大変心苦しく思いまして。もう何も無いのですよ。輝かしかったあの頃の産物は全て呆けて、否定した左手にだけ価値の在る生き様を、哀しくも生き生きざるを得ないのです―――

 言い値は二百万円であった。ワシは買った。老後にと土地を売って取って置いた金を使い、家計に火の車の走るのを承知で、甘んじて買った。家内は何も知らず、横着者の不始末と笑って過ごした。ワシャアたまにポロンと鳴らしてみるが、それだけで、その時は曲を作ろうには至らなかったが、大きなピアノってその物体に、同じ大きさの満足感を得た。

 ピアノの裏には挨拶文が彫ってあり、「私の不幸」と、木面に刻まれていた。そのピアノにはそれ以上の価値が無かった。しかし恭悦した。まさか舶来音楽のヘンテコリンに友を思い返すに恨み事がないとは。四十五年、声高らかに海逝かば、木々の移ろいの影に敗戦の貴方を飛び越えようも無かった。ラジカセもポンコツで、ピアニストの情念をおぼそかに、毎夜のうつら枕に音階を抱き締めた。

 「作曲のコツは忘れること」と手紙に書いてあったが、そんなもん棺桶に片足突っ込んで痴呆も始まるこの老骨には得手の得手だった。浪々と音符を一音ずつ増やしていったが、出来上がったのは聞き覚えのある母親自作の子守唄に似ていた。でもそれはいずれにしろワシの曲に違いなかった。一音ずつ弾いているうちに背中から影のような恐れがやって来た。それは私の恐れではなかった。木面の傷、誰かの誰かの怖れであった。それが怖くてたまらなかった。

 もう必要のないタイトルを付けよう、二度と浮かぶことのない船、「八月の解雇通告」、いい加減だ。そして安易で、途切れ途切れ、眠気が空を走る。そして自分の曲に酔い痴れ、ゆっくり瞼を閉じた。想像上の青空と「えめらるどの海」は、胸から吐き気や苦しみを、暗闇にぼんやり延として広がりながら溶解していった。



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