第6話 空に霞んで

文字数 1,586文字

 世の中には餌に餌をやる風習がある。美味しい餌を与えれば美味しい餌に為るような気もするし、雑に扱えば見返りも少なくなるような不安もある。一寸先闇に期待委ねる享楽のすえ悦に砂漠に溺れる喉の渇いた民衆が、特別な強烈な食欲を発揮し、これから食する食物に対して切に親切にする。私にはそれが音楽だった。

 金はあったが音で表現したり処世する才能が無かった。しかし産まれてきた子には物心つき始めた頃に只ならぬ才を感じた。手ごろだろうと与えた、テープでしゃべる音楽学習教材と音の出るオモチャ、その子は私が落としたショットグラスの底とぶつかる床の音を「ダ」と言った。
ドアの開く音は「ミィ」、閉まる音は「ソッ」。手に余り期待も膨らむ。そして終いにはピーパカ音の出るおもちゃで聴いたこともないような即興音列を組み立てる始末だ。

 だから孤児院に預けた。誰か音楽の見聞深し、世回りの上手く、有り触れた苗字の親が見つかれば良い。足長おじさんになろう。陰ながら花が咲く頃を夢見て、ピアノや学費や恋人や葬式代も与えてやる。だから一流の、世紀の音楽家になって貰いたかった。

 エゴの塊の海に自分の人間の部分を沈めた。そして鳥かごの鳥をいつか食する猫の野心を地中深く滾らせた。花に養分をやるのにはその周りの草木にもお零れを下し、身近に美しい花が咲こうとするものならば間引いてやる必要もあった。

 このことが知れれば只事では済まない。メディアはやんやん騒ぐだろうし、本人の自尊心も傷付けることになるかも知れなかった。裏の裏まで手を回し、軽々しい母親には少しばかり多めにクスリ代を与えた。その小事実を知る者が僅かになればなるほど、安心や彼女の成長に基づいて、老猾のしたたかさを優越に浸れた。

 彼女が高校生の時に一度演奏を聴きに行ったことがある。血が繋がっているからといって音資以外の興味が無かった。顔が母親に似てきて、壇上でソロを弾き始めると、皮肉にも娘への愛着なんてものと、独占欲、こちらは顔も出せず変装して杖をついているのに、彼女は縦横無尽に音楽をホールに闊歩させる、恥ずかしくて堪らなかった。自分はハイエナのように思えた。

 以後、彼女にだけは本当の話をする機会を設けた。しかし臆することのない、堂としたしたたかさが遺伝されている。事の顛末を話し終えると、彼女に謝られた。だから訳が分からなくなった。こちらこそ悪い、何でも買ってやる、家か、国か、と豪語した。その頃はもう彼女は大学も辞めて自立していたし、何もいらないと言う。じゃあ少し昔話をさせてくれ、と言ったら、飛行機の時間を気にし始めた。
「もう行かなくちゃいけない、お父さんも忙しいだろうから、今度会うのは半年後、お茶を飲むくらいなら付き合うわよ。割り勘ね」
と言ってスーツケースを引き摺って行った。他人事のように言うが、病室には花ぐらい持って来るもんだ。癌で余命幾許もない父親の、窮猫ねずみに噛まれる、かわい気の無い娘に育った。それも自分のせいに違いなかった。

 彼女はノルウェーで開かれた、かの音楽祭に主賓して世紀の大演奏を演じたらしいが、無菌室には、しかも厳重保護されている鳥篭の中ではその一片も耳に拾うことは出来ずじまいだった。看護婦にマスクを外して欲しいと言ったら外してくれた。尻を触らせて欲しいと言ったら断わられた。

 病院食や点滴の意味は国家磐石の肥やしになるに、特別扱いの適当な言い訳を押し付けられた。無機質な機械音の中、最期のよだれを飲み込んで、空腹を慎ましく歯がゆかせた。ピーっという音が先なのか、それとも聞こえたのが先なのかよく判らない。以前ミミズのような字で書いた遺書には読点を付け忘れていた。
「―――才能というものはあまり多くは在ってはならず、また欲しがるもので在ってもならない、鳥は自由に空を飛ぶ、それを見上げるのも翼一切の自由だ  」



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