第29話 小説家は物語を紡ぐ

文字数 3,090文字

 テープレコーダーには、その時はもう再生機の機能しか意味が無かったが、記憶の虚しさが繰り返し甦った。幾つも廻った季節が、ここにまた、新しい陽の光と日没を山の向こう側の呼吸に想像力を働かせるのだ。
 タバコに火を着ける。昼になり、灰皿の底、ジュッと靄に滲み溶け込む音が開演の狼煙。今晩に限っても、やはり主賓はあの女だった。

 モリヴェール?聞いたことがある。湖畔に咲く花?タイトルだけでも勝手に風景が心に出来上がる。女、別れ際には左手で握手、感覚の鈍いと言っていたその左手には指輪も傷もない綺麗な指、もう逢う事は無いだろう、夕べ、ビルの工事の音も止み、風呂にはもう入った。

 スコッチグラス、今となっては俺のシャワー中の鼻歌が先なのか、女の名曲が先なのか分からなくなった。今夜は知り合いの通夜がある。大人になってもなりきれない、繊細で嘘つきで強がりな女。鎮魂曲は『モリヴェールの花たち』。のっぴきならない個人的な事情から黒いネクタイをするりと締めた。ドアの音の陰に、さよなら、誰も居ない部屋、さよなら。

 珍しい通夜で、弔辞は沢山送られてきたようだが滲んだ薄墨は見られないそうだ。様々な人が弔問に訪れたが、不思議に酒が回るまでは皆にこやかに、思い出話には自分善がりが肩張って、酒宴は朝まで続いた。彼女の音資に感化されたロシアの若いアコーディオン奏者が一曲弾いたが誰も聴いていない。やんややんや愉しい時間、大泣きする奴もいたが泣き上戸ってやつなんだろう、葬儀場の粋な計らいで酒が途絶えることは無かった。
 女には肉親が一人もいなかったが、探せば何処かにいるんじゃないか、集合写真はそこいらの写真家には撮れないフレーム一枚の中に喜怒哀楽と、もう一つ、愛、知らない人とも肩を組み握手をし、やけに疲れる通夜だった。貴方は誰?と尋ねられ、昔彼女に曲をプレゼントした者だ、と答えると納得してくれて酒を注いでくれた。

 外では朝がしどろもどろに瞼を上げる。女の曲の裏で車の音が徐に自己主張を始め、酔い潰れた奴等を踏まないように避けながらトイレに向かった。今日は呑みすぎたな、でも気持ちがいい、散文家には普通の人間よりも深く長い夜が必要であって、眠りながら物を書くなんてのも小洒落たジョークじゃなくて実際に起こり得るものだ。実際に旅をすることなく旅をし、一人の時は思い出を掻き集め、筆の進みが悪いと十暗に悶え煙に逃げる。

 今度はピアニストの話でも書いてみようか、壁の隙間から掠れて聞こえてくるあの曲と、少し淋しげな自分の鼻歌。妄りに人を寄せ付けるものではないな、念入りに手を洗った。寝言で誰かが「アンコール・・・」と言ったが、その再生機には勝手に誰の断わりも無くその機能が付いていた。

 女の自殺未遂の後、最初に知ったのは血液型で、幾日か経ってから名前、ピアニストであったこと、寝言で知らない男の名前、歯ブラシは硬めが好きで得意料理はカレー、本には興味が無くて、朝起きると「自分が今ここにいて何でこうしているのか分からない」と寝癖を更に掻き乱した。
 気持ちの良い朝の鼻歌を何の曲か尋ねてきたので名前なんて無いし考えるのも面倒で、『森終える』と吐き捨てた。女は原稿用紙を盗み、がむしゃらに音楽記号を並べ、ありがとう、と笑顔で荷物をまとめて去って行った。何を納得したのか満足したのか、全ては俺が歯磨きを終えるまでの間のことだった。

 朝焼けの反射光が眩しいのに、これまた珍しく眠気が襲ってきた。順ずるに値する事実は文章の中には無い。それを教えてくれた女が私の哀しい部分を引き受けて去って行った。

 夢で見たのは小さな女の子が通り掛かった麦藁帽子を目深に被った老人に、この花は何の花?と尋ねて、お嬢ちゃんが好きなように名付けて良いんだよ、老人が答える。少女は日が傾くまで名前を考えて、それを間近で眺めている自分が辟易しているのに気持ち悪くて、半ば、これは夢だ、起きようと思えば起きれる、しかし微かに聞こえる心地良いピアノの旋律に、確かそれは近所の家の窓からであったが、夕暮れや日曜日、桜が散り、寒くなり、葉が落ちぶられ、雪が溶ける、当たり前の日常に恐れをなしてたじろいで身動きが取れなかった。
 いきなりピアノがガシャンと鳴ったので慌てて我に返り目が覚めたが、式場のパイプ椅子を片付ける音だった。

 帰り道、宙ぶらりんの空想家が花屋の前で立ち止まり、電気屋のテレビの前で立ち止まり、横断歩道は信号無視して、クラクションとブレーキ音が頭痛に軋り、昼間からいつもの酒場に助けを求めに足を運びドアを叩く。眠そうなママが眼を擦り、
「今何時?」と欠伸をした。
「わかんない」と腕時計を背中に隠した。
「じゃあしょうがないわね。一杯だけよ」

 その一杯を飲み干すのが惜しくて今考えているピアニストの小説の話を延々熱弁した。いいんじゃない、なんて言うから調子に乗ってもう一杯キープボトルから自分で注いだ。叱られたがいつものことだった。「ただいま」も「お帰りなさい」もない、さよなら。交通の利便がこの小さな恋を邪魔して、でも良く考えればどっちみち歩いても帰れる距離だった。三杯目のおねだりにママが無理に欠伸をして見せた。
「良いことがあったのね。珍しいじゃない、水割りを薄めなんて。人には眠る事も仕事の内と運命づけられているのヨ。じゃあ最後のストレートはワタシカラ。ぐっすりオヤスミ」
 グラスに一息に飲み干せと言わんばかりに波波とウィスキーを注いで突き出し、以降無言のママが本気で腹を立てているのが分かってきたのでカウンターの端に勘定をそそっと済ませる。

 ドアを開けると涼み風、飲み屋街の道端に猫の欠伸、トタンや看板の隙間から雲のない清々しい青空、歩道に蝶が一匹道草を食い、公園の方から桜吹雪が一陣の波のように覆い被さってきて、涼しげな格好のアベックの女の方、ミニスカートの裾がちらちら揺れるのを見過ごしたら、いつの間にかあの鼻歌を歌っていた。そして誰にでもなく、さよならを告げた。ほっぺたにピンクの花びらがキスをして春の空に舞い上がっていった。

 ウォッカの種類にも色々あるだろうが私にとってはみんな同じ「ウォッカ」だった。同じようにあの女は私以外にも愛され、耳さえあればいずれ聞こえる、草春の鼓動を今に刻み残して逝ったのであった。いつかまた曲が生まれ、新しい物語が作られる。春にさよならを言うのにまるで青年が、恋文に宛名と差出人を書き忘れた可愛げのある失敗、春の気候には在りがちなことであった。そして今一度、さよならをもう書き加えた。

 そしてその晩は久し振りにぐっすり眠り、目が覚めると新しい小説を書き始める。窓から遠く、スーパーのビニール袋がふわふわ飛んでいるのが見えて、なんだかな、って想った。そして筆を寝かせ調子の悪いテープレコーダーを二、三度叩いた。キキーとテープが絡まってシュンとした。それ以来もうあの女のピアノはめっきり聴こえなくなった。この世から音楽が無くなった。そしてまた生まれる。その事も小説の飾りになるだろう。どちらが飾りか判らないのも、言えば、木々が森を生むのか、森が木々を宿すのか、終わりの無い話に暗悶と暮らすのに、人類が食べ尽くそう大きな林檎が喉に詰まり、王子様のキスをいつまでも待つようなものであった。

 そんな行く宛ての無い自由気ままな気分の日には洩れなく鼻歌がオクターブ高くなった。これから始まる彼女の人生は、愛するばかりで愛されたことのない誰かの、本望、に間違いなかった。



                (D.C.)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み